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IO Project◆Archetype

作者: 六条

こんにちは、と明朗なあいさつをしてきた。

たったそれだけのことだった。それから笑顔を満面に咲かせて、彼女はちゃかちゃかランドセルを揺らしながら先へ駆けて行った。

その時、オレはまだ大学で学生をしていて、何日、いや、十何日ぶりかに研究室を出て自宅に帰れることになった。まだ日が高いなか、人がオレを見たら時間帯を誤ったゾンビでしかなかっただろう。

赤いギンガムチェックのスカートが、見る間に住宅街のひとつの家の中に消えていく。

「……ん?」

それは、オレの借りているアパートの斜向かいの一軒家だった。



自宅というより「寝床」という認識しかないので、当然ご近所さんなど、アパートの両隣の住民すらもよく知らない。

如月。斜向かいの家の表札にはそうあった。奇遇にもオレの苗字「卯月」と似ている。

「いってらっしゃい、イオ」と母親らしき人が毎朝彼女を玄関先で見送っているのが、オレの部屋の窓から見えた。

二つ結びの髪、白い肌、よく動く大きな目。そこらのドラマの子役なんかより、余程美少女だった。

如月依緒。近所の暦栄小学生に通う三年生。二月十四日生まれのO型。お菓子が好きで、ピーマンは嫌い。犬に追い回され噛まれたことがあって、怖がる。算数が好き、国語が苦手。運動神経がとても良い。習い事はしていない。一番仲の良い友達は近所の谷崎家にいる同い年の双子。

別に、だからどうするということもなかった。オレは立派な成人男性、向こうはいたいけな小学生女児。この前のような特例の無い限り、登下校時間も合うことは皆無だ。

ひそかにノートに情報が増え、壁に写真が増えていった。それだけのことだった。



ある日イオは、ランドセルを下ろし、二つ結びも解き、真新しいセーラー服に身を包んで、朝、家から出てきた。

開け放った玄関で、正装した両親と笑い合って写真を撮っている。そこへ、道の向こうから同じ顔をした男女がやってきて、イオを交えて楽しげに歩いていった。

中学入学を迎えて、彼女は羽化する蝶のように、綻ぶ桜のように、美しく成長していた。オレはその華やぐ笑顔をカメラに収め、大きく印刷した。

彼女のそれ以上の笑顔を見られることは無いと、はたして誰が想像できたというのか。



一年が経った。彼女は中学二年生に上がったし、オレは博士課程まで修了して、教員として大学に勤めていた。

年頃だけれど、非行にも走らず両親とも円満で、ついでに彼氏もいない様子だった。言い寄る男子がいないではないようだったが、恋愛に興味がないのか、何か叶わぬ恋でもしているのか。どちらにせよ、オレにはどうしようもないことではあった。

イオは特定の部活動に属さず、色んな運動部に呼ばれては助っ人として放課後を過ごしているようだった。だから小学校の頃より帰宅時間がまばらで、それがオレとしては悩ましい部分ではあった。もちろん窓際に、如月家玄関を二十四時間見守りつづけるカメラは設置していたけれど、やはりこの目で眺めたいものだった。

その日は、午後の授業のない曜日だった。研究にも目処がついていて、オレは早々に帰宅した。イオが直帰しようと運動部の活動をしようと、見逃さずに済む……はずだった。

午後七時少し過ぎ。ふいにそう遠くないところからサイレンが聞こえてきた。救急車だ。

季節は夏だったし、記録的猛暑だと毎日報道されていたから、それに伴って誰が倒れたのだろうとぼんやり思った。運動部はいいけれど、イオはちゃんと水分をとっているのだろうか、と。

救急車を追いかけるようにパトカーのサイレンも鳴り響いた。そして、眺めていた如月家の玄関から、イオの母親が弾かれたように飛び出してきた。玄関の鍵も掛けず、エプロンを付けたまま、ただケータイだけを握りしめて……。


そう。


イオが帰ってくることはなかった。



運送トラックの居眠り運転。殺しても殺しても足りないくらいだったが、既に塀の向こうにいる相手にどうしようもない。それに、そんな下衆男一人を生贄にしたところで彼女は甦りはしない。

だからオレは、如月家のチャイムを押した。

「はい……どなたですか」

出てきたのは母親だった。誰が見ても明らかにやつれていたが、イオをもう少し大人にして、垂れ目がちにしたような美人だった。

オレは自分が斜向かいに住む大学教員だということ、時折お嬢さんを見かけて知っていたということ、事故のことを聞いて痛ましく、生前交流は無かったが近所のよしみでせめて線香だけでも上げさせて欲しいという旨を告げた。

たぶん「大学教員」というのが効いたのかもしれない。母親はほとんど初対面のオレを、すんなりイオの仏壇まで招いてくれた。

仏壇はまだ無い。白い絹布を掛けた台の上に、恐ろしいほど純白に輝く箱があった。けれどその中身は、もっと清らかで美しい欠片なのだろうと思った。傍らの遺影は、あの中学校入学式の日の笑顔だった。

やはり彼女は死んだのだった。それが事実で、受け入れるべき現実だった。

ゆらりゆらりと、夢の名残のように線香の煙が天井へと、そのまた上へと、昇ってゆく。

「卯月さんは、どちらの大学にお勤めなの」

昼の光にきらめくガラステーブルに、優美な装飾のティーカップがそっと置かれる。香ばしい珈琲の湯気が、線香の煙を追うように立ち昇る。オレは失礼して革張りのソファーに掛け、珈琲をひとくち、含んだ。

「彩都大学の、遺伝子工学科です」嘘をつく理由もない。オレは素直に答えた。トレーを手にカーペットの上に膝をついていた夫人は、なぜか「まあ」と柔和な目をさらに嬉しそうに細めた。今にも泣きだしそうな表情にも見えて、オレは若干うろたえた。それを察してか、「ごめんなさいね」と夫人は軽く頭を振った。

「あの子がね、将来進学したいと言っていたの。一度子供向けのイベントがあったときに連れて行ってね、それが楽しかったみたいで……どこの学科に行くことになっていたかは分からないけれど、理科と算数が好きだったから、もしかしたらあなたに教わることも、あったのかもしれないわ……」

二年前のことだろう。うちの学科ではないし、オレはまだ院生だったから参加はしていなかったが、夏休みの小学生向けに理科の実験ワークショップを開いていた。もちろん、オレは覗きに行った。好奇心に輝く彼女を、確かに見ていた。毎回のテストの点数を見る限り、賢い子だった。そのままいけば、本当に、遺伝子工学科でなくてもうちの大学に合格できていただろう。そしてそこで、ようやく、オレの存在を知ってもらうこともあったかもしれないのに。


……いいや、まだだ。まだなんだ。


「そうだ」と夫人が目尻を指で拭いながら、立ちあがった。

「良かったら、あの子の形見をもらっていってくれないかしら。ついてきて」

オレの返答を待たず、ロングスカートを翻して夫人はリビングを後にしていく。オレは慌てて後を追いながら、自分は生前お嬢さんと面識のなかった旨をもう一度述べた。らせん階段を上がりながら、「そんなことないわ」と夫人は言った。

「今、お線香を上げてくれたでしょう。それに、こんなに近くに住んでいるのだもの、イオだってあなたの顔くらいきっと知っているわ」

知らないだろうと思った。あの五年前のたった一度の接触以降、オレは彼女の視界に入ることを徹底的に回避した。彼女の目に触れれば、悟られない自信がなかったから。それ以前だって、早朝出発深夜帰宅の生活だ。彼女でなくてもオレは小学生と遭遇したことがなかった。

ここよ、といくつかある扉のひとつを夫人が開く。秋の気配をはらんだ風が、半ば開いた窓から吹き抜ける。年頃の、少女の部屋だった。乱雑に教科書を重ねた勉強机、人気の漫画でいっぱいの本棚、枕元に並んだぬいぐるみたち、棚の上に申し訳程度に置かれた化粧道具とアクセサリー。

制服のままベッドに寝転んで漫画を読んで笑う彼女が、オレには今もそこにいるように見えた。

「水面ちゃんとショウくんも、他のお友だちも、もうみんな形見をもっていったから……なんでもいいわ、あなたのお部屋に置くのに不都合のないようなものを選んで、もっていってほしいのよ……」

辛く苦しい死を思い起こさせる遺品たちを早く無くしたい、と言っているようにも聞こえた。それならこの部屋ごと持って行きたいくらいだった。どんな痛みも、彼女に起因するものならオレは永遠に持っていられる。とは言え、それはさすがに不審すぎる。

「それでお嬢さんが喜んでくれるなら、いただいていきます」

ええ、ええ、と夫人は心の底から嬉しそうに何度も頷いて、なにがいいかしらねぇ……と部屋を見まわした。オレも何にするか迷うそぶりを見せながら、その実、とうに目星はつけてあった。棚の上に散らかったアクセサリーのなか、使い古したピンクのシュシュ。

「あら、それになさる」と夫人が覗きこむ。オレは「ええ」と頷いた。

「実は自分の研究室に、女子学生が持ち込んだぬいぐるみがありまして。その首にでもつけておけば、お嬢さんもきっと、大学に進学したような気持ちになってくれるんじゃないかと……」

「それはいいわ、本当に、いいわ。ありがとう、卯月さん」瞳をうるませながら、夫人はオレの手を取り、喜んだ。「どうかこれからもわたしたち夫婦と懇意にしてね」という言葉をあとにオレは如月家を失礼したが、夫人はオレがアパートのなかに消えるまでずっと、玄関から手を振っていた。イオが大人になって、無鉄砲さが落ち着くことがあったら、きっとあのような女性になっていたのだろう。

……いや、違う。「なる」のだ。誰より美しく、愛らしく、そしてこの上なく幸福な女性に。


持ち帰った彼女のシュシュには、何本かの黒い頭髪が絡みついていた。



「―――やっぱり、君に母胎になってほしいんだよ、レベッカ」

二年が経った。オレは大学の近くのマンションに引っ越してきていた。如月夫人は娘のよすがとしてオレとの交友関係を求めていたようだったが、それ以上の関わりはオレには無意味でしかなかった。むしろ不都合の極みだ。であるから、当然引っ越しのあいさつなんかもしていない。

マンションには、レベッカ=マスカレイドというフランス人女性と一緒に暮らしていた。彼女はフランスの研究所から大学に招かれた優秀な学者で、つまりオレの同僚なのだった。彼女にはイオのことを全て話してある。オレの計画の全てを知り、協力の意を示してくれた。その計画をスムーズに進められるようにということと、「日本に永住する気はないから住まい探しが面倒」という彼女の希望とが合致した結果、一緒に暮らしている。大学では恋人関係とみなされているようだが、その方が一緒にいても不自然さがないので、オレもレベッカもあえて否定しないできている。

レベッカは朝食後の紅茶を優雅にすすりながら、「はあ」と気の抜けた返事をした。

「私が、母胎ねぇ」驚きというより、予想できていたがゆえのあからさまな呆れの顔だった。

「色々考えたんだけど、やっぱり君が一番色々都合がよくてね。年齢がもう少し若いとなお良かったが」

「あんたは色々最低よ」

ぐっとレベッカは喉元をあらわに紅茶を飲みほした。ちなみに年齢はオレと同じ、今年で二十九だ。レベッカは音高くカップをソーサーに戻した。

「そうくるだろうとは思っていたけれど、ひとつだけ、大きな問題があるのよ。あんたには黙っていたけれど」

「なに……?」ここに来て障害があるとは、正直予想だにしていなかった。オレは威儀を正し、彼女の言葉を待った。彼女は深く息を吸い、この上もなく真剣な、というか初めて見る死んでいない目で、こう告げた。

「―――私、処女なの。母胎になったら処女懐胎で聖母マリアになっちゃう!」

なってろ。オレは静かに珈琲を飲んだ。うん、やっぱり豆はケチらず良いものを買うべきだ。

「ちょっと、聞いてるの? フーマ」

「三歩歩けば男が従者よろしくついてくる女が処女という今世紀最大級に面白くない冗談なら今聞いた」

「私はちゃんと運命の男性と愛し合うその日まで貞操を守りぬいているの! それなのに処女で経産婦になるって!」

ミュージカル女優よろしくレベッカは手を天に掲げ「ああ神よ……」と祈っている。ちなみに彼女、ヨーロッパ出身で親戚が教会経営者でありながら、遺伝子工学者という職業柄なのか、クリスチャンどころか無神論者だ。そうでなければオレの計画に乗ってくるはずもないのだけれど。

「その歳で運命の男性とかいう痛々しい夢はさておき、」

「殺すわよーあんた」

「君が宿すのは『天使の卵』だ。清廉な処女マリアから誕生することは、願ってもない」

にやり、とレベッカは凄絶に唇をつりあげた。きっとオレも同じような顔をしているのだろう。

「天使の卵だろうが悪魔の卵だろうが構いはしないわよ。私は、私の技術と研究の粋を形にできたらそれでいいんだから」

「では、君の体のコンディションを見て、近いうちに」

「ええ」

オレとレベッカはしかと握手を交わした。

イオの頭髪から抽出したDNAを「卵」の形にして、レベッカの子宮に宿し―――イオをこの世に甦らせる。今度は、初めからオレのものとして。



「お誕生日おめでとう、イオ。オレは、君が来てくれるのをずっと待っていたよ」

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