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9/12

*冬の終わり

 全身が痛い。


 あたしはゆっくりと目を開けた。

 最初に見えたのは女の子の顔で、あたしは瞬きを何度もして焦点を合わせた。


 この子、知ってる。

『迷いの森』の繭の中で会った子だ。

 あたしはあそこに戻ってしまったの?


「お姉さん、わたしが見える?」

 女の子が言った。

「見える」

 あたしの声はかすれて、しわがれていた。

「ナースコール押したげるね」

 顔が見えなくなった。


 ナースコールって、ここは病院?

 あたしは、病気が治る前のあたしに戻ったのかな。


 足音がパタパタと聞こえて、看護師さんやお医者さんがあたしの周りをとりまいた。

 看護師さんがテキパキと、血圧がどうだの言ってる。


 先生、目に光当てるのやめてよ。頭痛いんだから。


 あたしが顔をしかめても、みんな笑顔だ。

「よかったね」

 お医者さんが言う。


 ちっともよくない。


「車に跳ね飛ばされて、このくらいですんで」

「車?」

「登校途中に、スリップした車が突っ込んできたんだよ。覚えていない?」


 ああ、そこに戻ったんだ。


「思い出した」

「君と、隣のベッドの子が巻き込まれたんだ。二人とも無事でよかった」

「全身痛いんですけど」

「脳震盪と打撲だね。脳波も異常ないし、骨折も内蔵損傷もなし――運のいい子だ」


 そりゃどうも。


「お母さんは一度家に帰られたわ」

 看護師さんが言った。

「もう少ししたら、戻って来るんじゃないかな」


 そう……

 チェイサーは? あの人はどこ?


 訊いたところで、答えてくれる人はここには誰もいない。

 白魔達と狩りをした記憶は消えていない。


 チェイサーはどうしたんだろ?

 ちゃんと人間に戻れたかな


 あたしは繭の中のような病室を見回した。


 それとも、

 あたしは今まで夢を見ていたのかな。


 病室から人がいなくなった後、横のカーテンが開いて、さっきの女の子が顔を出した。

 改めてよく見ると、女の子は腕にギプスをしていた。

「腕、折ったの?」

 あたしが訊くと、女の子は頷いた。

「お姉さん、もう頭は大丈夫?」

「まだ痛いけど、はっきりしてるよ。少し訊いていい?」

「いいよ」

「事故があったのはいつ?」

「昨日の朝」

「あたしって、ずっと意識がなかったの?」

「ううん。何回か目を開けたよ。ただ、変な事いっぱい言ってた」

「変な事?」

「狐とイタチと狼の話。意識が、こん……混濁?してるって先生が言った」


 やっぱり、あれは夢だったの?


「わたしも訊いていい?」

 女の子が言った。

「どうぞ」

「これ、どこで拾ったの?」

 女の子の手には、色あせたピンク色のカッターナイフがあった。

「病院に運ばれた時、お姉さんが持ってたんだけど」

「森林公園で」

 あたしはドキドキしながら言った。

「やっぱりそうか……これ、わたしのなの。名前が書いてあるから、すぐ分かった」

「森林公園で落としたの?」

 女の子はちょっと口元を引き結んだ。

「捨てたの。わたしにはもう必要ないから」


 この子はもう迷っていないんだ。


「いらないなら、あたしにくれない? あたしにとってはお守りなの」

 チェイサーと二度と会えなくても、それがあれば夢じゃなかったと信じられる。

「いいよ」

 女の子が差し出すカッターナイフを、あたしは起き上がって受け取った。

「ありがとう」

 あたしはカッターナイフをそっと指でなぞった。

 薄れかけた名前シールが貼ってある。


『前園 美咲』


「ミサキちゃんって言うんだ。きれいな名前だね」

「ありがとう。お母さんが名前をつけたんだって。お姉さんの名前はなんて読むの?」

 美咲ちゃんはベッドの名札に目をやって言った。

「ハルカ。その字は『遥か遠く』のハルカだよ」


 そう。

 昔、名前を漢字で書く練習をした時にショウ君がそう教えてくれた。

 結局、あたしは遥か遠くまで行くことは出来なかったけれど。



「んまぁ! 美咲、起きてちゃダメじゃない!」

 甲高い声と共に女の人が病室に入って来た。

「うちのお母さん」

 美咲ちゃんは、うんざりしたようにため息をつくと、自分のベッドに戻った。

 美咲ちゃんのお母さんはあたしに、愛想はいいけれど、どこかおざなりな挨拶をした。

 まわりが見えなくなるタイプらしい。

 お母さんはかいがいしく美咲ちゃんの世話をしながらも、ずっと小言を言い続けていた。

「ほら、ちゃんとお布団かけて。あなたって本当に落ち着きがないんだから。だから事故に遭ったりするのよ」

「車が勝手に突っ込んで来たのよ」

 美咲ちゃんがブツブツ言っている。

 確かに、子供をうんざりさせる親だ。

「まあ、遥。起きていて大丈夫なの?」

 今度は、そう言いながら、うちのママが入って来た。

「ほら、ちゃんと横になって。あんたは本当に落ち着きがないんだから。だから事故に遭ったりするのよ」


 どこかで聞いた台詞。


「車が勝手に突っ込んで来んだよ」

 あたしは笑いながら言った。

「何がおかしいの? こっちは死ぬほど心配したのに」

「こっちは本当に死にかけたよ」

 小声で言うと、美咲ちゃんがクスッと笑った。

「どこのお母さんも一緒なんだね」

「そうだよ」

 あたしは言った。

「友達のお母さんがよく見えたとしても、それはよその子供の前で猫かぶってるからなんだ。実際はこんなもんだよ」

『小さな子に余計な事を教えるんじゃありません』と言って、ママはあたしの頭をげんこつで軽く叩いた。


 ちょっと!

 脳震盪を起こした頭なんだからもっと大事に扱ってよね


「交通事故だなんて、もう本当にびっくりしたわよ」

 ママは言った。

「念のため、一週間は安静にですって。お友達のお見舞いも遠慮してもらうわ」

「うん」


 まあ、どうせ誰にも会いたくない気分だし。

 本当に会いたい人は、どこにいるかも分からない。今度はあたしのこと、忘れちゃったかもしれないしね。



 それから一週間。


 あたしは美咲ちゃんと入院生活を過ごした。

 あたしから見ても口うるさいお母さんを、ものともしない美咲ちゃんには、『迷いの森』で会った女の子の面影はどこにもない。

「お姉さん、メアド教えて」

 五歳年下の新しい親友は、後は通院治療だからと一週間で退院していき、頭痛が取れないあたしはさらに一週間入院がのびた。

 一度、担任と部活の顧問の先生がお見舞いに来てくれたけれど、あたしの様子を見て、焦らずにゆっくり休んだ方がいいと言った。


 よっぽどひどい顔してたんだろうな。


 なかなか具合がよくならないのは、チェイサーが入れた冷気が抜け切らないせいだと思う。

 冷気が抜けるのにつれて、あたしの記憶も消えていくのだろうか。


 何事もないまま日々が過ぎていく。


「冬も抜けたみたいよ。少し寒さも緩んだわね」

 窓の外を見ながらママが言った。


 そりゃそうよ。

 あたしがあんなでかい氷狼を仕留めたんだから。

 白魔達は今頃どこで狩りをしているのだろうか。

 あたしの記憶は消えない。

 それは嬉しいことでもあり、つらいことでもある。

 全てを眠らせる、ゆりかごのような<冬>を抜け、あたしは少しだけ大人になった気がした。



 退院の日、美咲ちゃんにメールを入れた。

 ギプスをしたまま元気に学校へ行ってるらしい。

 事故に遭ったことも、ギプスをしていることも、あの年頃には大事件で、友達の間ではすっかりヒロインになっているという。

 あたしも元気出して生きていこう。

 気合いを入れて退院の診察を受けたら、

「体力が落ちているから、退院したからといって急に無理しないように」

 と、お医者さんに釘を刺された。

「学校へ行くのは来週からにした方がいいね」


 結局、三週間休むの?

 単位は足りるかなぁ。

 学年末テストはいつからだろう。


「留年しちゃうかも」

 あたしはぼやくように言った。


「今、生きてることに感謝しなさい」


 そうでした。

 一度は無くしたはずの命。

 一度は妖魔になりかけた命。

 大切にしよう。



 退院手続きを終え、久しぶりに見た外の風景は、冬の終わりを告げていた。

 所々解けた雪の間から黒いアスファルトが顔を出している。

 あの日、雪と氷に覆われていた街路樹の枝も、灰色の樹皮があるばかりだ。

 あたしとママを乗せたタクシーは、冬の終わりの街を通り、家へと向かった。


 ああ、家だ!

 ずっと遠くまで旅をしていた気分。


 嬉しくて、料金を払っているママを残して先に家に入った。

 玄関に弟の靴ともう一つ男物の靴がある。


 弟の友達かな?


「ただいま」

 そう言いながら居間に入っていったあたしを迎えたのは――


 弟と


 あの人だった。



「お帰り、遥」

 彼は笑顔で言ってくれたけど、あたしはその場に立ち尽くすことしかできなかった。

 あたしの中では、人間に戻ったショウ君は二十七歳の男の人になるはずだった。

 でも、目の前にいる彼は、最後に見た時のままだ。

 どう見ても高校生。

 世界は彼から十年の月日を奪いはしなかったのだ。


「誰?」

 あたしが呆然として言うと、弟が驚いた。

「姉ちゃん? ショウ君だよ?」


 それは分かるけど……


「母さん! 姉ちゃんがおかしい」

 弟は居間に入ってきたママに言った。

「ショウ君が分からないんだ!」

「まだ記憶が混乱しているのかしら……遥、お向かいのショウ君よ」

「幼なじみの?」

 あたしは彼の立場を量りかねて、慎重に尋ねた。

「そして親友の」

 ショウ君が言葉を引き取って言った。

「大変だったね。休んでいる間のノートを取っておいたよ。分からないところは訊いて」

「あたし達、同じ学校?」

「うん。同じクラスだよ」

 あたしは少しふらついた。

「そうだった。ゴメン、まだ少しおかしいの。休ませてもらっていいかな」

「もちろん」

 あたしは差し出されたノートを受け取った。

「学校へはいつから?」

「来週」

「じゃあ朝迎えに来るよ。いつものように」


 いつものように?

『いつも』って何?


「えーと……ありがとう」


 あたしは数歩後ずさりして、それからバタバタと走り去った。

 あたしは自分の部屋に駆け込んで、ドキドキする胸を押さえた。


 チェイサーだ。あの人がいた。


 そのままベッドに仰向けに倒れ込む。


 でも、

 彼はあたしのショウ君じゃない。

 あたしを可愛がってくれたお兄さんじゃない。

 彼はチェイサーでもない。

 一緒に狩りをした妖魔でさえない。

 彼のためには、十年の月日をやり直せることを喜んであげなくちゃ。


 涙がこめかみを伝わって落ちた。


 あたしのショウ君はもういない。

 彼はあたしを『チビ』と呼びさえしなかった。

 ボールを蹴りそこなって転んだあたしを、抱き起こした人はもういない。

 あたしにキスして、『ずっとお前といたい』と言った妖魔はもういない。


 それでも


 あたしは失われた思い出を一人で抱えて、生きていかなきゃ。

 約束したもの。あたしが全部覚えてるって。


 そう思っても、涙が溢れて止まらない。

『願い事は慎重に』

 本当にそうだった。



 しばらくして、ノックの音がした。

 返事をする前にドアが少しだけ開く。

「遥、起きてる?」

 ショウ君の声だ。

「起きてるよ」

 あたしは泣き顔を見られたくなくて、慌ててうつぶせになった。

 入っていいかと訊きもしないで、ショウ君は近くまで来てベッドの端に座った。

 それが許されるほど、あたし達は親しいって事だ。

 優しい手が、あたしの髪をそっと撫でた。

「本当に俺が誰か分からないのか?」

「分かるよ。ただ一緒に過ごした記憶がすっぽり抜け落ちてるの」

「元気出せよ。すぐに思い出すさ」


 存在しない記憶を、どう思い出せって言うの?


「ゴメンな。あの日、俺がすぐ横にいたのに守ってやれなかった」


 事故の日のこと?

 あの日横にいたのは……


「チェイサー」

 あたしは思わずその名を口にした。

『何?』とショウ君が答える。

 あたしは驚いて顔を上げた。

「今、チェイスって呼んだろ?」

 あたしは頷いた。

「チェイスは俺のミドルネームだ。俺はクォーターだけど、アメリカで生まれて、向こうの祖父さんがチェイスってつけるってうちの親ともめたんだ」

「で、ミドルネームにするってことで落ち着いた?」

「ほら、思い出したじゃないか。他のことも思い出せるよ」


 思い出した訳じゃないけどな……


「泣くなよ」

 頬の涙を拭われて、あたしは思わず彼の手を払った。

「見ないで。そっち向いてて」

「ほらな。いつもの遥だ」


 違うよ。


 あたしはベッドの上に起き上がって、ショウ君の背中に頬をよせてもたれかかった。

「あたしは、いつものあたしじゃない」


 あなたの記憶は、まがい物だから。


 ショウ君の背中は暖かかった。


 本当に人間に戻れたんだね。


「少しだけこうしていてくれる?」

 あたしは目を閉じて言った。

「ずっと側にいるよ」

 彼が言った。



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