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*願い事はいつも

 咳込むあたしの背中を誰かがさする。


「大丈夫か?」

 チェイサーだ。

「よくやった。偉いぞ」

 もう褒められて喜ぶ年じゃないのに、あたしは嬉しかった。

 この人に褒めてもらいたくて一生懸命だった日々がよみがえる。

 あたしは、小さな子供のようにチェイサーに抱きついた。


 どうしてあたしを置いていったの? どうして?


「ありがとう、チビ。もう帰れるぞ」

 チェイサーはあたしを抱きしめた。


 帰る? この人を残して?


「そのナイフを抜いて願い事を言うといい」

 イタチが言った。

 大きな氷狼は横向きに倒れていた。

 みんながあたしを助け出す時に横向きにしたのだろう。白い喉にピンク色の細いカッターナイフが刺さってる。

「他の氷狼は?」

 あたしはイタチにきいた。

「あなたを助け出す間に逃げたよ。どうせ小物ばかりだ」

 あたしは倒れているリーダー狼を見つめた。


 あんたがやりたかったのは、それ。仲間を逃がす事だよね。


 勝ったのはあたしか、氷狼の方なのか。


 ううん。


 最初から勝ち負けなどないんだ。

 そこに横たわっているのは『生命』ではなく『季節』だ。自然の流れに勝つも負けるもない。

 結局のところ、あたしが負けたくなかったのは自分自身なのかもしれない。


「さようなら、チェイサー」

 あたしが言うと、チェイサーは手を離した。

「元気でな」

「そっちこそ」

 あたしは立ち上がって、氷狼の前まで行った。


 あたしの願いはいつだってショウ君、あなたの側にいることだったんだよ。

 あなたはそうは思わなかったようだけど。


 ナイフに手を伸ばすあたしに、

「それを抜けばもう願いを保留にすることは出来ぬぞ」

 イタチがささやくように言う。

「分かった」

 あたしは答えた。


 心は決まっている。あたしはもう、幼い子供じゃないから。


 氷狼の前に座ってカッターナイフに手をかけた時、少しだけ手が震えた。


 負けるな。

 自分に誇れる自分でいたいんでしょ?


 あたしは微笑んで、チェイサーを見て、それからカッターナイフを抜いた。


 あたしはもう迷わない。



「チェイサーを、ショウ君を人間に戻して」



 あたしの願い事は、光に包まれ空中に散った。


「ダメだ! ハルカ!」

 チェイサーが叫ぶ。


 ゴメンね。もう一緒にはいられないの。


「十年間ありがとう」

 あたしは笑顔で言った。

 笑った顔だけ見ていてほしいから。

 あの人の髪が、目が、色づいていく。

 夜のように真っ黒い髪に、夏の海のように真っ青な目に。


 そうだ。背の高さと青い瞳は、アメリカ人のおじいちゃん譲りだって言ってた。


 あたしの記憶が戻ってくる。


 人と違う目の色が嫌いだと言ってた。

 あたしが海の色と呼ぶと、ショウ君は『チビが好きならこの色でいいか』と笑った。


 あたしはチェイサーに近寄って、ギュッと抱きしめた。

「ありがとう。幸せな時間をくれて」

「お前を忘れたくない」

「あたしが覚えてる。全部覚えてる。冬が来たらあなたの部屋の窓を見上げる」


 あなたがそうしたように。


「ろくでもない人の子の世界になど戻りたくない」

「嘘つき」

 あたしは彼の前髪を指でかき上げた。

「お前だけが俺の希望だったのに。お前だけがなんの迷いもなく俺を愛してくれたのに」

「これからも愛してる。あなたがあたしを忘れても、ずっとずっと愛してる」

 チェイサーの体が薄れていく。

「今度は人間でいることを楽しんで。あたしは永久凍土の夏を見に行く」

 やがて彼の体は光る輪郭になった。


「チビ、ハルカ――」


 何か言っているけれど、もう声さえも微かになって、あたしには聞き取れない。


「幸せになって」

 あたしは呪文のように言い続けた。


 そうして、チェイサーは氷狼のマントを残して消えた。


 あたしはマントを拾い上げ頬を寄せた。

 妖魔だった彼は、温もりも匂いも残しては行かなかったけれど。それでもあたしはマントを抱きしめて、やっと自分に泣くことを許した。

 小さな手が肩に触れた。

「これでよかったのかね?」

 イタチの声が聞こえた。

「うん」

 あたしは顔を伏せたまま答えた。

「チェイサーの願い事に気づいてしまったのだな?」

 イタチの声は優しかった。

「たぶん」

 あたしは頷いた。

「小学一年の時、あたしは重い病気になったの。激しい運動は全て禁止。骨髄移植を受けなきゃ長くは生きられないって言われてた」

 家族の誰とも型は合わなかったのに、ある日突然、ドナーが見つかった。

 そんな奇跡的な事、そうそう起きるはずがない。

「あたしの病気が治るように――それがチェイサーの願い事だったんでしょ?」

「結果的には」


『結果的には』って何だろう?


「本当はなかった命なら、あの人に返してあげたかったの。あたしの十年は幸せだったから」

「お節介娘、チェイサーの気持ちは聞いたのか?」

 狐が言った。獣の姿から普通の白魔の姿に戻っている。

「チェイサーはあたしを帰したがってた。本当は人間の世界がいいと思ってるからだよ」

「はんっ! あんたがやかましいから厄介払いしたかっただけさ」

「そうかも」

 あたしは笑った。


 変なの。こんな悲しい時でも笑えるんだな。


「今頃、怒り狂って……そんな訳ないか。記憶は無くなるんだもんな」


 狐……寂しそう……ゴメンね。


「一緒に妖魔になれば簡単だったじゃないか」

「簡単だよ。でも、彼はいつか後悔する」

 あたしは涙を拭いて立ち上がった。

 チェイサーのマントを羽織ってみたけど、引きずるくらい長い。

 後でイタチになんとかしてもらおう。

「これからは、あんたと狩りをするのかい?」

 狐が言った。

「そうだよ。何か文句ある?」

「ないけどさ、大丈夫かい?」

 狐は疑わしげだ。

「もう火は使えないんだぜ」

「そうだった。でも、せいぜいみんなの足を引っ張らないように頑張るから」

 落ちていた弓を拾う。

「これも当たるようになったことだし」

「馬から落ちるんじゃないのかい?」

「妖魔の馬は乗り手を振り落としたりしないってチェイサーが言ったよ」

「馬はね。オイラは、あんたが自分で転げ落ちるんじゃないかって心配してるんだよ」

「ああ……それはあるかもね」

 狐が口を閉じた。

 それから首を振り、憐れむように言った。

「前のあんたなら怒ってくるところだよ。無理しちゃって……」

「無理なんかじゃないよ。あたしはこの十年間、チェイサーなしでやってきたんだから」

「記憶がなかったからさ」

「そうなんだよね」

 あたしは引きずらないように毛皮のマントの裾を持ち上げた。

「でもね、あたしは後悔してない」

 イタチが微笑んだ。

「そのマントを着るつもりなら、丈を詰めなくてはな」

「こんなのあたしが着るなんて、馬鹿げてるよね」

「そうでもないぞ。チェイサーは長いことビーズ玉のブレスレットをしていた。あなたからもらった物だと思うがね」

「あー」

 あたしは恥ずかしくて顔を覆った。

「幼かったからね。くだらない物、たくさん押し付けプレゼントしてたんだ」

「狩りの途中で紐が切れてな、とても残念がっていた」

「あんな物、大事にしていてくれたんだ」

「あなたの事をとても大切に思っていた。冬にこの街に来る度に、あなたの部屋の窓を見上げていたよ。わたしはてっきり彼の家だとばかり思っていたが」

「そういえば」

 狐達が言う。


「幾冬か前、あんたを見たよ」

「そうそう『玻璃の谷』で」

「夜に勉強にする所で」


 それって塾かな?


「あんたは楽しそうだったよ、トムボーイ」

「女の子と男の子といた」

「チェイサーは嬉しそうで」

「寂しそうだった」

「知り合いかと訊いたんだったよな?」

「きいた、きいた」

「『覚えていない』て言った」


 あたしはいつかチェイサーがやったように、手を振って狐達を黙らせた。


「いっぺんに話さないで」

「じゃあオイラが話す。チェイサーはあんたの思い出を大切にしてた。あんたを見かけた後、ひどく落ち込んでた」

「ねえ、あんた達」

 あたしは鼻をすすった。

「あたしを泣かせてどうすんのよ」

「チェイサーの心を知っておいてもらいたいのだ」

 イタチが言った。

「十分に分かったよ。あんた達があたしの狩りの邪魔をしようとした訳もね」

「我らはあの男が好きだった。真っ直ぐな心を敬愛していた。もっとも、あの純粋さでは人の子としては生きづらかっただろうが」

「今は大丈夫だよ。あんた達と色々な場所で狩りをして、色々な経験をして、今なら人間として生きられそうな気がするって言ったもの」

「それを聞いて安心した」

 イタチが微笑んだ。

「さて、と! 次の狩りに行くんでしょ?」しんみりとした雰囲気を吹き飛ばしたくて、あたしは明るく言った。

「そうなのだが……トムボーイ?」

「何?」

「もし……もしもだよ、もう一つ願いがかなうとしたら、あなたは何を望むね?」

「そうだなぁ――」

 あたしは少しだけ考えて言った。

「やっぱり人間に戻りたいかな」

 できることなら、人間に戻ってチェイサーの側にいたい。愛しい人の側で、今度こそ傷つきやすい心を抱きしめてあげたい。

 幼い子供じゃない今なら、それができるのに。


 ――やだ、また涙が溢れてきた。

 しっかりしなさい! 泣かないって決めたでしょ?

 あたしの代わりに、きっと彼を幸せにしてくれる人がいるはずだよ。


「どうしてそんな事、訊くの?」

 イタチは言うか言うまいか迷っているようだった。

「なによ。言いなさいよ」

「その……トムボーイ、あなたの髪の色が……まだ黒いままなのだよ」


 はぁ?


 あたしは自分の髪を指でつまみ上げて、横目で確かめた。


「ホントだ。黒いままだ。どうして?」

「思うに、あなたはまだ人の子のままなのだと思う」

 他の白魔たちがざわめいた。


「まさか!」

「そんな事、聞いたこともない」


 あたしは、波打ち際でまだ燃えている松明に目をやった。


「ねえ、あんた達はあの松明を持てるの?」

「炎がない時は」

 イタチが答える。

「燃えていれば手をかけることもできない」

「試してみる」

 あたしは、ゆっくりと波打ち際に歩いて行った。

 火はだいぶ弱まっていたが、それでもまだ辺りを照らすくらいには燃え続けていた。

 あたしは身をかがめ、砂に刺さっている松明の柄に手をかけた。松明はスッと砂から抜け、あたしの手に納まった。

 あたしは振り向いて白魔達を見た。

「持てるよ。どういうこと?」

「あなたは人の子だということだ」

 イタチが言った。

「あなたは妖魔にはならない」

「やめてよ。妖魔にならないで、どうやってあんた達と行けばいいの?」

「トムボーイ、あんた、帰れるんじゃないか?」

 狐が呆然としながら言う。

「待てよ」

 別の狐が言った。

「オイラ達を見たら、『帰りたい』という願い事をしなきゃ帰れないはずだろ?」

「それは、それ以外の願い事では妖魔になってしまうからだ」

 と、イタチ。

「願い事を告げてなお、妖魔にならないのなら帰れるかもしれぬ」

 あたしの心臓は息が詰まりそうなくらいドキドキした。


 神様お願い。

 あたしの願い事をもう一つだけかなえて。


「チェイサーの願い事を覚えているか?」

 イタチの問いに他の白魔達がうなずく。

「ああ。あれは忘れようたって忘れられない」

「あんな願い事をしたのは、後にも先にもチェイサーだけだ」


 どういう事?


「トムボーイ、あなたの真の名は『ハルカ』だったね?」

 あたしは頷いた。

「十の冬の前、チェイサーはあなたのために願い事をした」

「それは知ってる」

「たいていの人の子は『家に帰りたい』と願う。時々、父や母の病が治るようにと願って妖魔になる孝行者もいる。だが、彼の願いは前代未聞だった」

 イタチはあたしを真っ直ぐに見た。

「彼はこう願ったのだよ。『ハルカが、やりたい事を何でも自由にできるように』――と」


 意外だった。


「あたしの病気が治るようにとか、ドナーが見つかるようにとかじゃなかったの?」

 イタチは頷いた。

「最初にチェイサーから『ハルカ』は病の床に伏せっていると聞いていたのでね、わたしも不思議に思って彼に尋ねたのだ。彼は『不幸なのは病であることではなく、病のせいでやりたい事が制限されることだ』と言っていた」


 ――やりたい事はできるのか?


 あたしに訊いたチェイサーの言葉がよみがえる。


 ――俺がきいているのは結果ではなく、過程の事だ

 ――例えば、走りたいと思った時に走ることができるのかと尋ねているのだ。速くではなくとも


 チェイサー

 ショウ君

 あたしは今までずっと、あなたの願い事に守られて生きてきたんだね。

 あたしの幼い愛情をあなたがどれくらい大切にしていてくれたか、今よく分かった。


「それで、だ」

 イタチが言った。

「ひょっとして、チェイサーの願い事はまだ有効なのではないかと思うのだ」

「そりゃそうだろ。あの願い事じゃ、トムボーイが生きてる限り――そうか!」

 狐が素っ頓狂な声をあげた。

「あんたは、やりたい事を何でも自由にできるんだ!」

「そうらしいね」

「ああもう、鈍いな! チェイサーの願い事が有効なら、あんたはやっぱり人の子のままなんだよ。だって本心じゃ妖魔になりたくないんだからな」

「それなら、帰れるんじゃないか?」


 他の白魔達が口々に言う。


「願ってみろよ、トムボーイ!」

「帰れるかどうかやってみろ!」


 やってみろって……どうやって?


「強く願いなさい、トムボーイ。あなたが今、身にまとっているその毛皮こそがチェイサーの願い事の証しだ」

「そんな事をしていいの?」


 あたしの問いに、白魔達は頷いた。


「もう十分に狩りの手伝いをしてもらった。我らにはあなたを引き止める理由がない。世界が許せばあなたは人の子の世に戻れるだろう。許されなければまた共に狩りに行こう」


 あたしは頷き、チェイサーが残した毛皮のマントの端を握り、口元によせた。

「お願い。あたしは家に帰りたいの。チェイサーの、ショウくんの側にいさせて」


 お願い。あたしを帰して。


 目の前がチラチラと光りだした。

 白魔達が薄れていく。

 ああ、本当に帰れるのかも!


「みんな、ありがとう!」

 あたしは薄れていく白魔達に言った。

「あいつに伝えてよ」

 狐の声が聞こえた。

「狩りは楽しかったって」



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