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氷狼―コオリオオカミ―を探して  作者: 中原 誓


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7/12

*海へ続く道

『迷いの森』を抜け、あたしとチェイサーは海沿いの崖の上の道へと出た。

 くねくねと曲がる細い舗装道路で、冬の間は車は通行止めになっている。

 低いガードレールの向こうには冬の海が広がっていて、潮の香りと荒れる波の音がした。


「みんなはどこ?」

 あたしはチェイサーを見た。

「下だな」

 チェイサーは低いガードレールに手をかけて、崖の下を覗き込んだ。

 強い風がチェイサーの白い髪をなびかせている。

 あたしも崖の下を覗き込んだ。

 ガードレールの向こうは険しい崖になっていて、ずっと下の方に砂浜と岩場があるようだ。


 あそこ?


 暗くて下がよく見えない。

「どこから下りればいいの?」

「来い」

 チェイサーはあたしの手をつかんで、海岸沿いの道を少し先まで走った。

「あそこから下りられる」

 チェイサーが指さしたのは、道路脇にある駐車スペースだった。

 奥にはガードレールの代わりに、通行止めの標識がついたポールがあった。近寄ってみると、標識の向こうは手すりのついた階段になっている。

「ここ下りるの?」

 夏場ならどうってことはないのだろうが、延々と下に続く雪まみれの石の階段にはさすがのあたしも躊躇した。

「ここで待つか?」

 チェイサーは下が気になるのか、上の空であたしに訊いた。

「冗談じゃないよ。行くに決まってんでしょ!」

 あたしはプリプリ怒りながら、通行止めのポールをまたいだ。

 風が強い。

 チェイサーはあたしがちゃんと手すりをつかんだのを確かめてから、また下を覗く。

「しまった! あいつら、海から逃げる気だ」

「海からって、どうやって?」

「凍らせてる!」

 チェイサーは、いきなりあたしにキスをした。

 それから真剣な眼差しであたしを見て言った。

「先に行く。お前はゆっくり下りて来い。必ず家に帰してやるからな」

 あたしが黙ってうなずくと、チェイサーは階段を駆け下りていった。

 毛皮のマントが風に翻り、まるで彼自身が冬の狼のように見えた。

 チェイサーがあんなにあたしを帰したがるのは、本当は自分も帰りたいからだ。


 それでもなお、一瞬たりとも後悔したことがないという彼の願いは何だったの?


 あたしは階段を下りながら思った。


 あたしはどうなんだろう。

 あたしとずっといたいと言った彼を、置いていける?

 来る日も来る日も、冬を追う暮らしに我慢できる?

 特別大きな夢がある訳じゃないけど、楽しかった人間の日常を捨てられる?


 階段を真ん中まで下りたところで、下から狐が二匹駆け上がって来た。

「遅いぞ、トムボーイ」

 狐が言った。

「オイラ達の首の毛をつかめ」

 あたしの両脇に狐が身を寄せる。

「つかんだら痛いよ」

 あたしが言うと、狐達は笑った。

「オイラ達が妖魔だっていつになったら分かるのさ」

「その辺の野の獣と一緒にするな」

 あたしは、恐る恐る狐達の首の毛をつかんだ。


「行くぞ」

「おうよ」


「行くぞって?――う、うわぁ―――っ!」


 二匹の妖狐は、いきなり階段を駆け下り出した。

 あたしは狐達に引きずられるように階段を駆け下りた。

 時々、頭から突っ込みそうになったけど、その度に狐達があたしを支えて跳ね返す。あたしは人形のように振り回され、下の砂浜に下りるまで叫び続けていた。


「ったく、やかましいな」

 地面に立って、ゼイゼイと息を整えてるあたしを横目に狐が言った。

「全く。チェイサーはこんなお転婆娘のどこがいいんだか」

「よ……余計なお世話よ……」

 あたしは息の合間で言った。

「根性はあるな」

「ああ。心意気だけはたいしたものだ」


 そいつはどーも


「さあ、トムボーイ、氷狼を狩るぞ」

「オイラ達から獲物を奪えるかい?」

「やってやろうじゃないの」


 あたしは肩から弓を外した。

 狐達は宙返りをしてから砂浜を駆けて行く。

 崖下の砂浜は、岩場と岩場に挟まれてそれほど広くはない。

 冬の海は白波を立てて岩場に打ち付け、波しぶきがこっちにまで飛んできた。ところどころで、青い燐光のようなものが光って暗闇を照らしている。

 白魔達が狐火と呼ぶ光だ。

 青い光に照らされて、イタチや狐と氷狼が格闘しているのが見えた。

 先回りしていた連中も合流したのだろう。数としては互角になったようだった。

 少し高い岩場にはリーダー狼がいて、海に向かって遠吠えをしている。

 あたりを凍らせるような強く冷たい風が、渦を巻くように吹いていた。


 チェイサーは? いた――


 リーダー狼のいる岩場の下で氷狼と争っている。

 氷狼が何頭か海の上にいた。


 海が凍っているんだ。凍らせてるのはリーダー狼だろうか?


 あたしはライターを取出して松明に火をつけた。

 火花がはじけ、炎があがる。

「イタチっ!」

 あたしは大声で呼びながら走った。

 一番近くにいたイタチが振り向いた。

「どうした、トムボーイ?」

「松明! あるなら、もっとちょうだい。っていうか全部ちょうだいっ!」

 イタチは棒を二本よこした。

「他にも持っている者がいる」

「ありがとう!」

 火のついた松明を振り回し、氷狼達を蹴散らしながら、あたしはイタチから松明を集め続けた。

 小脇に棒を抱えて走りまわっていると、

「何か面白いことでも思いついたのかい、トムボーイ?」

 狐があたしの横について走りながら言った。

「まあ、見てなさいって! それより、氷狼にあたしの邪魔をさせないで」

「ガッテン承知!」

 狐は鋼の牙をむき出して笑った。


 松明は二十本ほど集まった。

 火を使えないくせに、こんなに用意してるなんて気が知れないけど。

 あたしは海に目をやった。

「まあ、これくらいあればいいか」

 岩場の方は波が打ち付けていたけれど、砂浜の方は静かだ。

 波打際まで行くと、思った通り海水が凍りついていた。あたしは松明を砂にさして等間隔に立て、次々に火をつけた。

 まるで打ち上げ花火のようにいっせいに火花が散り、砂浜が一気に明るくなった。

 氷狼達が海から後ずさりする。

 これで、氷狼は凍った海に逃げられない。

 火を消そうとしたら、海の氷を解かして波をたてなければならない。

 あたしは岩場の上にいるリーダー狼を見上げた。


 あんたは、海の上に仲間を残したまま氷を解かしたりしない。

 浜に仲間を残したまま逃げたリもしない。


「ここから逃げる道はあの階段だけだよ」

「すげぇ!」

 狐がゲラゲラと笑った。

 あたし達は階段を背に、氷狼の群れを待ち受けた。

 リーダー狼が岩の上で唸る。

「来るぞ」

 イタチが言った。

 すべての氷狼が、いっせいに挑みかかってきた。

 数の多さで突破する気だ。

 あたしは弓を引いた。

 矢で射た氷狼を狐が引き倒す。

「だから! なんであたしの獲物を横取りすんのよっ!」

 あたしは狐に怒って言った。

「だってイタチがそうしろって言うんだもの」


 何だって?


「あんた達ねぇ!」

「チェイサーのために一肌脱ごうかと」

 イタチが悪びれもせずに言う。


 愛情なんだか、友情なんだか、妖魔にもそんな感情があるんだろうか。

 たぶんあるんだろう。

 違う言葉なのかもしれないけどね。


 当のチェイサーは、仲間達の気持ちを知ってか知らずかこっちに向かって走って来る――


 えっ? こっち?


「チェイサー! 何やってんの?」

 あたしは側に来たチェイサーに言った。

「リーダー狼を追ってたんじゃないの?」

「あいつは最後までこの海岸から出ない。先にお前だ」

 チェイサーは弓を持つあたしの手を支えた。

「引いてみろ。まだ離すなよ。矢の先を見て」

 あたしは言われた通りにした。

「矢の先の向こうに何が見える?」

「え……氷狼」

「眉間を狙え」

「無理! 走ってるもの」

「いいから、狙ってうて!」

 矢は見事にそれた。

「ほら、ね?」

「次は左肩を狙え。こっちに来る奴だ。引きつけてから」


 左肩?


「今だ!」


 あたしは弦から手を離した。

 矢が氷狼の左目に当たった。


「惜しい!」

 チェイサーが舌打ちする。

「それがその弓を使った時のお前のぶれだ。修正してやる時間はないから、とにかく左肩を狙え」

「分かった」

 もう一度左肩を狙ってうってみる。

 今度は鼻先をかすり、氷狼が首を振って払った。

「もう一度! 頑張れ!」

 何かがあたしの記憶をかすめた。


 もう一度……頑張れ……ショウ君?

 待ってよ、ショウ君って誰?


 あたしは矢を番えた。

 頭は冴え渡っているのに、心はざわついている。

 弓を持つ手は落ち着いているのに、胸が熱い。

 狙うのは氷狼の左肩。

「行け、チビ」

 チェイサーが抑えた声で言う。


 指が離れ、

 弦が鳴り、

 矢は少し上に逸れて――


 あたしの放った矢は、氷狼の眉間を射ぬいた。

 真横に倒れ込んだ氷狼を見て、チェイサーが『よくできた』と、まるで自分の事のように誇らしそうに言った。

「矢を抜いて『家に帰りたい』と願え」

 チェイサーが言った。

「まだだよ。みんなにお別れを言いたいし、狩りが終わるまでいる」

 あたしは氷狼のリーダーを指差した。

「あいつを倒すまでは」

「頑固だな」


 そうだよ。

 あんたが一番よく知ってるじゃない。


「では少しだけ待っていろ。あいつを狩ってくる」


 チェイサーは岩場に向かって駆けて行った。

 その後ろ姿をあたしは目で追った。

 あの背中をあたしは知っている。少しずつ記憶がよみがえる。


 ショウ君――あれはショウ君だ。


 ああ


 なんでこんな大切なこと、忘れていられたんだろう。



 お向かいの家の十歳年上のお兄ちゃん――それがショウ君だ。

 毎日のように一緒に遊んでくれた。

 縄跳びも、自転車も、全部あの人が教えてくれた。


 大好きで、

 大好きで、

 幼い心の無心な愛情で、あたしはあの人を愛した。

 あの人はどこに行ったの?

 あんなに大切だった人がどうして記憶から抜け落ちていたの?

 それは、ショウ君が妖魔になってしまったから。

 チェイサーが彼だから。

 あの背中に見覚えがあるはずだ。

 毎日、学校へ行く後ろ姿を二階の窓から見送ったもの。

 早く帰って来てねと願っていたもの。


 巨大な氷狼は岩場を下り、チェイサーを待ち受けていた。

 チェイサーの後から二匹の妖狐が駆けて行く。

『待っていろ』とチェイサーは言った。

 あの日も『待っていろ』とあの人は言った。


「帰って来なかったじゃない、バカ」

 あたしはそっと呟いた。


 もう待つのは終りだ。

 あたしは、一人で彼を追えるくらい大きくなった。


「どこへ行くのさ、トムボーイ?」

 走り出したあたしを別の妖狐が二匹、追ってきた。

「あんたはもう氷狼を仕留めただろ?」

「あたしはリーダー狼を狩る。あんた達に横取りできる?」

「言ったな。取ってみせるさ!」

 狐は飛び跳ねるようにあたしの横を走った。


 大きい……


 一人で狩るには、あまりにも氷狼は大きかった。

 狐が二匹、左右からかかっていったが、軽く跳ね飛ばされた。

「あんた達も行って!」

 あたしは横の狐達にそう言って、矢を番えた。

 氷狼はチェイサーの切っ先を軽くかわした。

 妖狐は四匹になったけれど、たいして変わりはないようだ。

 大きさの違いを考えて、あたしは左肩の少し上を狙って矢を放った。

 矢は氷狼の耳をかすめた。

 チェイサーが雄叫びを上げて切りかかる。


 正攻法じゃ無理だって。大きすぎるよ。


 チェイサーの剣は氷狼の首に傷を負わせたけれど、激しく頭で振り払われ、チェイサーは吹っ飛ばされた。

「チェイサー!」

 あたしの声に氷狼がこっちを見た。

 琥珀色の目があたしを見据える。

 雪まじりの強い風が、あたしの髪を揺らした。


 ああ、そうか――


 あたしは妙に納得した。


 あれこそが<冬>だ。


 貪欲にすべてを飲み込み、吐く息はすべてを凍らせる。

 汚れのない純白さは荘厳で美しくさえあるけれど。立ち向かえるとは思えないほど大きいけれど。


「白魔達は冬を狩り、春を呼ぶのかも知れないけど」

 あたしは呟くように言いながら矢を番えた。

「あたし達人間は冬を畏れ、冬と共に生き、冬をねじ伏せて来たんだ」


 弓の弦を力一杯引き絞る。


「負けない!」


 大いなる冬の主、銀の毛皮の氷狼がニッと笑ったように見えた。

 ブンッと弦が唸った。

 外した!

 矢は氷狼の左目を射抜いた。

 怒りの唸り声を上げて、氷狼は真っ直ぐに跳んで来た。

「チビ!」

 チェイサーの叫び声が聞こえる。

 スローモーションのように見えたのに、避ける暇もなく、あたしは氷狼の下敷きになった。

 倒れた時に弓は弾き飛ばされ、今のあたしは丸腰だった。

 氷狼の口から、ものすごい冷気が出ている。


 なんとかしなきゃ。負けないんだから。


 氷狼の息がかかる。寒い。

 チェイサーに冷気を吹き込んでもらったけれど、それでは間に合わなかったみたい。気が遠くなりそう。

 薄れる意識に<冬>が語りかけてくる。


『我が前に膝を折りこうべを垂れよ』


 嫌だ。それでは死んでしまう。


 あたしは力を振り絞り、身をよじらせた。何かが体にあたる。

 はっとして手にした物は、カッターナイフだ。

『迷いの森』で女の子がくれたカッターナイフ。

 チェイサーと狐達が氷狼にうちかかり、氷狼をあたしから引き離そうとしていた。

 あたしはカッターナイフを手にした。

 急所は二カ所――眉間と喉。その喉が目の前にある。

 あたしはカッターナイフを片手で握りしめ、力いっぱい突き刺した。

 意外にもナイフは新雪に突き立てたようにスッと埋まり、次の瞬間、そこから強烈な冷気が噴き出した。

 指が痺れる。

 あたしは悲鳴を上げた。

 冷気と共に、氷狼が飲み込んだ迷いが空中に撒き散らされていくのを感じた。

 どれもこれも浄化され、新しい希望を含んで空に散っていく。


 あの中にあたしの迷いもあるのだろうか。


 冷気が涸れると、氷狼が音もなく静かにあたしの上に倒れ込んできた。

 重みで息がつまった。誰かが何か叫んでる。

 体に無数の手が添えられ、引っ張られ、急に呼吸が楽になった。



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