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6/12

*迷いの森

 森林公園は入口を入ってすぐに駐車場がある。

 管理棟を挟んで、駐車場の反対側が広場になっていて、夏の間は子供達が芝生の上でボール遊びをする。

 管理棟の向こうはフェンスに囲まれたテニスコート。その向こうには浅い人口池のあるアスレチック遊具があり、そこから奥は遊歩道のある森だ。

 夏の間歓声が響く公園も、今は雪に埋もれ閉ざされていた。

 チェイサーとあたしは、入口に張られたチェーンを乗り越えて公園に入った。

 降り積もった雪の上にいくつもの動物の足跡がある。

 チェイサーはしゃがんで足跡を調べた。

「わざわざ踏みならしてある」

「どっちに行ったか分かる?」

「ああ」

 チェイサーは正面の遊歩道を見た。

「あっちだな――行こう」

 木々の根元は雪の吹き溜まりになっていた。

 いつの間にか風はなくなり、吹き溜まりのこんもりとした曲線の上に雪が音もなく降り積もっていく。

 雪明かりに照らされて、チェイサーのマントがチラチラと光った。

「ずいぶんと風が穏やかになったね」

 あたしは前を歩くチェイサーに話しかけた。

「そうだな。氷狼がもう通り過ぎた後なのだろう。あるいは息を潜めて隠れているか」


 やめてよ。

 この雪の中に隠れられたら見分けがつかないじゃない。


 警戒しながら辺りを見回すと、氷が張り付いた黒い枝からぶら下がる無数の白い滴型のものに気付いた。

「チェイサー、あれは何?」

 チェイサーはあたしの視線の先を追った。

「人の子の感情、迷う思い。氷狼の餌だ」

「繭みたい」

「そうだな。春に解けて消えるものもあるし、頑なに何年もぶら下がっているものもある」

「人間の気持ちと一緒だね。あたしの感情もあるかな」

「あるかもな。氷狼が腹を壊すかもしれんが」


 言ってくれるわね。


「チェイサー」

 あたしはちょっとためらった。

 でも、やっぱり訊きたい。

「あんたは人間だったってホント?」

「ああ」

「あんたはどうして人間に戻らなかったの?」

「俺は元々死にたかった――いや、ちょっと違うかな。死にたかった訳じゃないが、生きていたくなかった」

「よく分かんない」

「お前は分からなくていい」

 チェイサーはまた足元を見ながら歩きだした。

 もうそれ以上話してくれないのかなと思った頃、チェイサーがポツリポツリと話しはじめた。

「とにかく自分が生きているのが無意味に感じていたのだ」

 足元で雪がギュッギュッと音をたてる。

「白魔達に捕まった時はむしろホッとした」

 天からの雪が、チェイサーの白い髪に落ちていく。

「俺は生きなくていい。死ななくていい。俺に関する記憶は消され、悲しむ人もいない」

「あんたの願いはどうしたの?」

「俺の大切な人のために使った」

「大切な人がいたのにどうして消えられたの?」

「その人はつらい思いをしていた」

 チェイサーは立ち止まり、あたしを見た。

「俺と一緒にいてつらい日々を過ごすくらいなら、俺なしで幸せになってほしかった」

 あたしはチェイサーの色の薄い、アイスブルーの瞳を見返した。

 チェイサーの大切な人があたしであってほしいという望みと、そうであってほしくないという恐れがせめぎあう。

「ねぇ、それを決めるのはその人だと思った事はない?」

「ない」

 チェイサーはあたしを腕に抱いた。

「自分の選択を後悔した事は、一瞬たりともない――だが、いくつもの冬を追い、いくつもの土地を通り抜けて行くうちに俺の中で何かが変わった。今ならば人間として生きられる気がする。皮肉なものだな」

「チェイサー」

 あたしは顔を上げてチェイサーの頬に頬を寄せた。

「あんたの左斜め後ろに氷狼が三頭隠れてる」

「お前の後ろには五頭いる」

 チェイサーがささやくように言った。

「この森の道は知っているな?」

「もちろん」

 小さい頃から何度も来てる。

「はぐれたら海へ向かえ」

「OK」

「来るぞ。合図したら俺の剣を抜け」

「いいよ」

「一、二の」


 ――三!


 あたしは右手でチェイサーの剣を抜き、振り向き様に払った。

 氷狼が宙返りして下がる。

 チェイサーはあたしの左肩から弓と矢を取っていて、やはり振り向き様に撃ち込む弦の音が聞こえた。

「チェイサー!」

「分かってる!」

 あたしたちは剣と弓を交換して、背中合わせに立った。

 氷狼はあたし達を取り囲み、間合いを取りながら少しずつ近寄って来る。

 あたしが続けて射た三本の矢は、ことごとく氷狼をかすって雪に刺さった。


 ああ、もう!


「あたしの下手くそっ!」

 悔し紛れに叫ぶと氷狼が怯み、チェイサーが笑った。

「落ち着け、チビ」

「落ち着いてるよっ!」

 あたしは弦を引き、今度は慎重に狙いを定めた。


 照準器(サイト)がないくらいどうだっていうのよ。

 こんなデカイ的、外してたまるかっての!


 耳元で弦がビュンと鳴る。


 やった! 当たった!


 矢が刺さった氷狼はバランスを崩して倒れ込んだ。

 そこに雪の吹き溜まりを飛び越えて、狐達が現れた。

 狐は鋭い鋼の牙をたて、あたしが射た氷狼にとどめをさした。

「ちょっと! あたしの獲物なのに!」

「オイラの獲物だよ」

 狐が得意げに言う。


 嫌な奴!


 あたしの後ろでチェイサーの剣が何かに当たる音がして、あたしの横に氷狼が倒れ込んできた。

 慌ててあたしは飛びのいたけど、氷狼はぴくりとも動かない。


「急所は二ヵ所!」

 チェイサーが言った。

「眉間と喉だ」


 そんなピンポイントで当たるはずがないっ!


 せめて、あたしの射た氷狼に狐が飛びかかるのやめてくれれば、とどめを刺せるかもしれないけど。

 三頭目をなんとか倒して――やっぱり最後に仕留めたのは狐だけど――ふと顔を上げると、はるか先を走る氷狼の群れが見えた。


「狐、あれ!」


「おやおや……」

「ああ、オイラ達は足止めされてたって訳だ」

「行くぜ、トムボーイ」

「海沿いに追い込むんだ」


 狐達は口々にしゃべりながら、雪の吹き溜まりを飛び越えて行く。

「ちょっと待ちなさいよっ!」

 あたしも吹き溜まりを乗り越えようとして、片足がスポッっと雪に埋もれた。

 身動きが取れなくなったところで、鼻につんと雪の匂いがした。


 秋の終わりに、雪が降る直前に香るあの匂い……何だろう?


 顔を上げると目の前に巨大な氷狼がいた。

 リーダー狼だ。

『喰われる!』と思った。

 幸いだったのは、あたしは悲鳴を上げるタイプじゃなかったって事。

 あたしは手にしていた弓の上端で氷狼の喉を思いっきり突いた。

 グワッと詰まったような唸り声を上げて、氷狼は後ろに飛びすさった。

 急いで矢を番えようとしたけど上手くいかない。


 ちくしょう ちくしょう ちくしょう!


 何だってこんな不様に雪にはまってんのよ、あたしはっ!


 もたつく手で弓を引いた。

 矢は氷狼の頬をわずかに傷つけて後ろに飛んで行った。

「ハルカ!」

 チェイサーの声が聞こえた。


 本当の名前は伏せるのが礼儀じゃなかったの?


 全く場違いな事を思いながら、あたしはもう一本矢を番えた。

 もう少し距離があれば、ライターと松明を取り出せるんだけど……

「伏せろ、ハルカ!」

 チェイサーが叫んでる。


 伏せろ??

 残念ながら、片足が膝まで雪に埋まった状態で人間は伏せられないんだよね。


 妙に落ち着いた気分で、あたしは正面にいる巨大な氷狼を見据えていた。

 飛びかかって来る気配はない。


 何?


 大きな口がガッと開き、白い網のようなものが吐き出された。

 目の前が真っ白になって、体がフワッと浮いた。


 クッションのように弾力のある何かが、あたしの体を包んでいる。

 苦しくはないけれどひどく狭い。

 ひょっとしてあの繭の中?


「ちょっと待ってよ! あたしは餌ぁ?」

 思わず大声で言うと、

「うるさいわね」

 どこからか女の子の声がする。

「誰?」

「ちょっと黙っててよ。眠れないじゃない」

「眠っちゃダメだよ! 氷狼に食べられるよ」

「うるっさいわね!」

 あたしの前にあった薄い膜が下に落ちて、少し離れた所で座っている女の子が見えた。


 小学生?

 ううん、中学生かも。


 淡い水色の入院着を着た女の子が、膝を抱えて座っている。

「静かにしてよね」

 女の子は険しい目をして言った。

「ゴメン」

 あたしは体を揺すって狭い場所から抜け出して、女の子の前に座った。

「あなた本体ね」

 女の子が言った。

「本体?」

「本人ってこと。わたしは心の中の自分なの。体は別の所にいるのよ」

「あ……そうなんだ。でも、ここにいたら氷狼の餌になっちゃうよ」

「いいの。むしろ食べてもらいたいから」

「消えちゃうよ」

 あたしがそう言うと、女の子は顔を上げて無表情な目であたしを見た。

「うるさいなぁ。放っておいてくれる? ここを出たいなら一人でサッサと出ればいいじゃない。この底を破れば出られるよ」

「そうなの?」

「今までにも何人か、そうやって出て行ったよ」


 手で破れるかなぁ。


 あたしは膝の下の厚い和紙のようなものを爪で引っ掻いてみた。

「ナイフ持ってないの? ほら」

 女の子はカッターナイフを差し出した。

「ありがとう」

 受け取ろうとしてドキッとした。

 リストカットの傷があった。

 あたしの視線に気付いたのか、女の子はカッターナイフをくれた後に手首をブラブラと振った。

「これ?」

「……うん」

「たいした傷じゃないの。死ぬ気で切った訳じゃないから」

 女の子はうつむいた。

「切るとちょっとスッキリするの。やめようとは思ってるんだけどね。気がつくとここにいるの」

 人の子の感情、迷う思い――この子はそれなんだ。

「何か悩みでもあるの?」

 あたしの言葉に、女の子は軽蔑したように鼻を鳴らした。

「お悩み相談? やめてよ、バカバカしい。わたしは周りの大人が嫌いなだけ。友達顔してる同じ年の子供が嫌いなだけ。そしてたぶん――」


 たぶん?


「自分が一番嫌い」

「どうして?」

「うるっさいわね。嫌いなの! 外見も、性格も! そっちはどうなのよ。自分のこと好き?」

「好き……かな? 欠点はあるけどね」

「幸せな人!」

「幸せだと悪いみたいに言うんだね」

「ほらね。自分のこういう所が嫌いなの。素直じゃないし、いつも怒ってる」

 女の子は肩を落とした。

「なるべく期待しないようにはしてるんだけど」

「期待って?」

「誰かがわたしを好きになってくれるんじゃないか、わたしのこと理解してくれるんじゃないか、って期待」

「家族はいないの?」

「いるよ。だから余計にムカつくの。うちの親って、わたしのやること全部否定するんだ」

「それは頭にきて当然だよね」

「でしょ? でもね、本当は全部わたしが悪いんじゃないかなって思う」

 あたしは驚いた。

「どうして?」

「わたしに悪い所があるんだろうって、そう考えていると人を許せるから。絶え間なく怒りを覚え続けるのはもう疲れた。わたしにだってなりたいわたしがいたはずなんだけど、もう思い出せないの」

「何もかも悪い人なんていないよ」

「どうかもう放っておいて。真実を見つめたら心が壊れるもの」


 嘘でかためた繭の中ならば、痛みもなく穏やかでいられるの?


 それから少女は急に背中を丸め、膝を抱え、鋭い目つきであたしをにらみつけた。

「もう行って! わたしの心が怒りで満ちないうちに」

 あたしの目の前でゆっくりと半透明の膜が閉じていく。


 孤独な夢を見るために、女の子の姿は再び膜の向こうに隠れた。

 あたしの手に残ったのは――カッターナイフだ。


 あの子はもう眠っただろうか。

 まだ目覚めているならよく見ていて。


「道具はこうやって使うもんだよっ!」


 あたしは足元の和紙のような底を切った。

 生きている証が欲しくてあの子が自らを傷つけた道具で、あたしの希望のために閉ざされた繭を切り開いた。

 雪の山にドサッと仰向けに落ちた。

 見上げると太い枝にぶら下がっている無数の繭の群れが見えた。

 押しつぶされるか、乗り越えられるか、どちらかしかない思いが一つ一つに詰まってる。

 氷狼は――冬はあの迷いをまるごと飲み込み、雪や氷に変えるんだろう。

 浄化するみたい、と思った。


「ハルカ!――チビ、無事か?」

 チェイサーの声がする。

 あたしは仰向けのまま手を上げて振った。

 程なくチェイサーがあたしの横に立った。

「怪我はないか?」

「ない。氷狼は?」

「行ってしまった。俺を足止めしたかったようだな」

「追わなきゃ。起こしてくれない?」

 のばした両手をチェイサーがつかんで、あたしを立ち上がらせた。

 バランスをとろうとして、また足首が雪にはまった。

「あんたの方が重いはずなのに、なんであたしだけこうなるのよ」

 あたしはぶつぶつ言いながら、チェイサーの手を借りて雪の山から下りた。

「俺は白魔だからな」

 チェイサーはおかしそうに言った。

「冬を狩る者が雪に足を取られるわけにはいくまい?」

「そりゃそうだけどね。あー、カッコ悪い」

 あたしは、バタバタと足踏みをして雪を払った。

「あんな間近で氷狼を見ても冷静に戦えたのはたいしたものだ。カッコよかったぞ」

 あたしは顔を上げてチェイサーを見た。

「人間にしておくには惜しいくらい?」

「そうだな」

「でも、人間だから役に立っているんだよね?」

「ああ」

「何年か頑張れば、立派な白魔になれると思う?」

「やめておけ」

 チェイサーはあたしが落としていた弓をくれた。

 それからあたしの髪を手櫛ですいて撫でつける。

 やっぱり前にもこうされた気がする。

「お前は妖魔の暮らしに飽き飽きするだろう。俺と違って」

 チェイサーが言う。

「どうしてそう思うの? 好きになれるかもしれないじゃない」

「なれないよ。来る日も来る日も冬だけを目にする。俺は気楽だから妖魔になったが、この生活がいいと思っている訳じゃない」

 チェイサーはあたしの頭を胸に抱いた。

「お前とずっといたいが」


 あたしだって一緒にいたい。


 あたしは心の中でチェイサーにそう告げた。

 あたしの中にも迷う心はある。

 でも繭の中にとどまりはしない。

 いつだって選択肢なんて、そう沢山あるわけじゃない。その中から選んで前に進むだけ。

 あたしはこの迷いを乗り越えてみせる。


 必ず。



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