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*狩りを告げる太鼓

 しばらくしてイタチが一人顔を見せて、弓矢と真っ白いツナギのような服を置いて言った。

「着替えるから出てってよ」

 あたしはチェイサーに言った。

「反対を向いているからさっさと着替えろ」

 ああそうですか。

 そうよね。どうせ胸、小さいし。

 あたしは部屋の隅っこに行って服を着替えた。

 イタチがこんな短時間でどうやって用意したのか分からないけど、服はピッタリと体に合った。

「これ何でできてるんだろ。すっごい軽くて伸びるね」

「何でできてるかなんて考えた事もないな」

 チェイサーは背を向けたまま答えた。

「ねえ、あんたの着ているそのマントは何の毛皮?」

「これか? 氷狼の皮だ」

「それがそうなの。それで何匹分くらい?」

「一匹」

「一匹? でかっ!」

「これは群れのリーダーだった狼のものだ。もっと小さいのもいる」

「それが今までの獲物で一番大きなもの?」

「いや、もっと大きいのもいた。これは俺が初めて狩った氷狼だ」

「へえ、妖魔も願い事できるの?」

「俺達はできない。狩りは俺達に与えられた仕事だからな。後で分かるだろうが、人の子が入ると狩りが楽になるのだ。きっと俺達の世界から、その手助けへの礼なのだろう」

 あたしは着替えると、制服とコートをたたんで鞄と一緒に置いた。

「もうこっち見てもいいよ」

 あたしの言葉にチェイサーが振り向いた。

「髪が黒いのを除けば、いっぱしの白魔だな」

「黒いとまずいかな?」

 あたしはチェイサーの白い髪に目をやった。

「いや、狩りは夜だから雪に落ちた木の影と見分けはつくまい」

 チェイサーはそう答えながら床に置いてある弓を手に取った。

「試しに射てみろ」

 最初に、チェイサーが差し出す篭手を受け取った。

 篭手は白い革製で、銀の留め金がついている。

 あたしは篭手を左手にはめ、次にこれもまた純白に仕上げられた弓を受け取った。

 それほど長くない弓で、中央が内側にへこみM字の曲線を描いている。重いのを覚悟して持ったけれど、意外にも軽い。

 あたしは矢を番えずに引いてみた。

 振動をとるスタビライザーがない分、矢が離れる時にぶれそうだ。

「馴れが必要かも」

 あたしが言うと、チェイサーはうなずいた。

「部屋の端から壁に向かって射てみろ」

「壁に穴あくよ」

「構わん。的がいるな」

 チェイサーは壁際まで行くと、地図を示した時のように棒で壁に触れた。

 白い壁に薄墨色の五重の円が浮かび上がった。実際に矢を番えて引いてみると、しなりもよく使いやすい弓だった。

 何よりも矢がよく飛ぶし、威力がある。

 ただ使い馴れない者にとっては、狙った場所に命中してくれない弓でもあった。

「小鳥を射る訳ではないから何とかなるだろう」

 チェイサーが言った。

「外れてあんたに当たっても同じ台詞を言ってよね」

「その時はその時だ」

「狐に当たったら怒るでしょうね」

「カンカンだろうな。見てみたい気もするが」

 その時ドアが開いて、狐が何人か入ってきた。

 あたしが弓の弦を弾いてピンッと鳴らすと、チェイサーが吹き出した。

「なんだよ」

 狐の一人が言った。

「何か面白い事でもあったのか?」

「いや。これから起こるかもしれぬのだ――氷狼の足跡は見つかったか?」


「もちろんさ」

「群れの規模は四、五十頭ってとこだね」

「普通の群れの三倍はいる」


「これだけの寒気だ、それくらいいても不思議ではないな」

 チェイサーが言った。


「三倍なのは群れの規模だけじゃない」

「そう、それだけじゃない」

「あの足跡ならね」

「きっとね」

「大きいはずだ」


 狐が口々にしゃべりだしたので、チェイサーは手を上げて制した。


「一度にしゃべるな」

「オイラがしゃべる」

 一人が他の仲間に言った。

「一番大きな足跡は、他のものの三倍はあった」

「それはまたでかい獲物だな」

「街は食い物だらけだよ。あれじゃあ、でかくなるのも早い」

「氷狼の食べる物って何?」

 あたしが訊くと、狐達はまた口々にしゃべりだした。


「何でもかんでも」

「動物の命を」

「虫の命だって」

「落ち葉も芝生も」

「夏の記憶を」

「秋の憂いを」

「人の子の声さえも」


 チェイサーが顔をしかめて手を振り、狐達を黙らせた。


「要するに冬が飲み込む全ての物事を奴らは喰らう。喰らうからこそ、冬はすべてを雪と氷で覆い尽くす」

「一度雪で覆われれば、野山には食うものがないのさ」

 狐が言った。

「野山の生き物は冬眠するからね。でも、街に住む人の子ときたら季節も時間もお構いなしだ。おかげで氷狼は大きくなるばかり」

「おまけに人の子の知恵を飲み込んで賢くなっている」

 と、チェイサー。

「ここ数年の狩りは大変だ」

 確かにここ数年間の天気は変だ。

 記録的な寒波が何度もきたり、大雪が降ったり。

「人間のせいで環境破壊が進んでるって事だよね?」

 あたしが言うと、狐達は笑った。


「その言の葉自体が人の子の傲慢さ」

「そうそう。人の子ごときに世界は変えられぬ」

「黙っていてもすべては変わるもんさ」

「良くも悪くも」

「同じであり続けるのがいいとは限らない」


「何があっても、俺達は冬を狩るだけだ」

 チェイサーが言った。

「氷狼がこれ以上大きくならないうちに狩りを始めよう」

「今夜だね?」

 狐が言った。

「ああ。日暮れと共に狩りを始める」





 日没までにはもう少し時間があって、弓の練習の他にすることもないあたしは暇だった。

 チェイサーに『ここの屋上へ行ってみるか?』と言われ、二つ返事で後をついて行ったのは退屈だったから。

 それだけ。

 絶対にそれだけ。

 石造りの砦のような古い建物の屋上からは、雪に覆われた街が見えた。

 空は信じられないほど真っ青で、空気がピンと張り詰めているようだ。少し先にあたしの学校が見えた。

「ここって、普段のあたしには見えないんだよね」

「ああ。空地か無人の古い建物にしか見えないだろうな」

「生まれてからずっと住んでる街なのにな。変な感じ」

「雪が解けたらこの景色がどう変わるのだろうと、いつも思う」

「最初にアスファルトの黒い色が見える。それから桜でピンク色に染まって、若葉の緑。夏空の青、白い雲、ヒマワリの黄色。秋のモミジの赤になって――」

「また冬の白か」

 チェイサーが身を屈め、あたしの唇に唇を重ねた。

 口から冷気を吹き込まれ、少しずつ自分が人間ではなくなっていく気がした。

 唇が離れ、あたしはアイスブルーの瞳を見つめた。

「あんたが夏の間に住む所ってどんな?」

 あたしが訊くと、チェイサーは微かな笑みを浮かべた。

「一年中、大地が凍っている永久凍土だ。それでも短い夏の間は表面が解けて、苔が地を覆う。太陽は完全に沈まないで、明るい藍色の空のまま明けていく」

「寒くて泳げないね」

「俺達は寒さを感じない。透き通る水をたたえた三日月湖で泳ぐこともある。少し足を伸ばせば氷山の浮かぶ海で白クマと泳ぐこともできるぞ」

「楽しそう」

「お前も行くか?」

 再び唇が重なった。今度は少し多く冷気を入れられたのか、頭がクラクラした。

「連れて行ける訳がない。忘れていい」

 チェイサーはあたしの口元でささやくように言って、また唇を重ねた。

 あたしがおとなしくキスを受けているのは、冷気で頭がぼうっとしているせい?

 それともキスがステキだから?

 しばらくしてチェイサーが顔を上げた。

 あたしは彼の胸に頬を寄せて黙って抱かれていた。

 もしも

 もしもあたしが氷狼を捕まえられなかったら、こうやってこの人と一緒にいられるんだろうか?

 待って!

 何考えてんの、あたし?

 それじゃあまるで――

 あたしは弾かれたようにチェイサーから体を離した。

 アイスブルーの瞳があたしを見つめている。

 あたしは……あたしは……

 ひょっとして、生まれて初めて恋に落ちた?


「少し冷気が強かったか?」

 チェイサーはあたしの頬に手をあてて言った。

 うわぁ――――ぁ

 やめて! 意識しちゃう。

「チビ?」

 誰ぁれがチビだってぇ?

 一気に正気に戻った。

「チビじゃないっ!」

 普通、身長160センチの女を『チビ』とは呼ばない。まあ、チェイサーは普通じゃないけど。

 あたしより頭一つ大きいし。

 人間でさえない。

 人間だったらよかったのに――気づけばそう思っている。

「チビと呼ばれたことはないのか?」

「ないよ――ううん、あったかも。でもずっと小さい頃だよ」

「そうか。では、俺も他の者のように呼ぶしかないな、トムボーイ」

「ハルカって呼んでくんない?」

「言ったであろう? それは無礼なことなのだ」

「あんたにも本当の名前がある?」

「もちろん」

「教えてくれる?」

 チェイサーは口を開きかけ、また閉じた。

「知る必要はない。お前は元の世界に戻って俺を忘れてしまうのだから」

「忘れないかもしれないじゃない」

「間違いなく忘れてしまう」

「忘れなくてすむ方法はないの?」

 チェイサーは首を横に振った。

「そんなことを思ってはいけない。願い事を無駄につかう事になるぞ。『家に帰りたい』とだけ強く思っていろ」

「忘れたくない」

「俺が覚えている。ここで一緒に見た景色も。お前が教えてくれた冬以外の景色も」

 あたしは泣きたくなった。


 どうして?

 あたしには初恋の思い出さえ残らないの?

 ちがう ちがう ちがう

 これは恋なんかじゃない。


 あたしは、チェイサーの白い髪に手をやった。

 チェイサーがあたしに近づき、少し顔を傾ける。


 これは恋なんかじゃない。

 絶対に。

 たとえ、彼の唇があたしに触れても

 たとえ、心臓が壊れそうなくらい鼓動をうっていても

 たとえ、あたし達が固く抱き合ったとしても

 これは恋なんかじゃない。

 だって

 だって、これが恋なら切なすぎるもの。




 日没がくる。




 あたしはチェイサーに『好き』とは言えない。

 本当にそうなのか、あたしだって確信を持てずにいるんだもの。


「上からの眺めはどうだったね?」

 下に戻ったあたしにイタチが訊いた。

「キレイだったよ」

 チェイサーのアイスブルーの瞳も。

「何もかもが白銀の世界で」

 チェイサーの髪のように。

 ――ダメ あたし重症だわこりゃ。

「チェイサーはずいぶん念入りに冷気を入れたと見える」

 イタチはクックッと笑った。

「唇が紅いな、トムボーイ。まるでたっぷりと口づけされたようだ」

 えっ、嘘!

 顔が熱くなった。

「ほう、あの堅物でも娘に心動かされることがあるのだな」

 イタチは面白がるように、少し離れた場所で狐達と話しているチェイサーに目をやった。

「どうだね、トムボーイ。いっその事、我らとずっと冬を狩っては?」

「あんた達の仲間になれって事? 御免だわ」

「いやいや、チェイサーの恋人になれという事だ」

「それもできない」

「あれは孤独な男だ。楽しむ事を忘れてしまっている。あなたの時間を少しくれないか?」

 イタチは食い下がるように言った。

「せめて一冬か二冬」

「中途半端な事ならしないほうがいいと思わない?」

 一瞬、心は動いたけれど、あたしは首を横に振った。

「忘れるあたしはまだいいけど、彼はどうなるの?」

「何もないよりましという事もあるぞ」

「それを決めるのはチェイサーだよ」

「あなたが残ると言わぬ限り、あれはあなたに帰れと言うだろう。たとえ心が違う望みを叫んでいても」

 イタチは哀れむように言った。

「それを心に留め置いていておくれ、トムボーイ」

 肝心のチェイサーがどう思っているのか分からないのにこんな話は馬鹿げてる。

 彼はただ『一緒に行くか?』とあたしに言っただけ。

 ほんの気まぐれじゃないって言える?

 いつかきっとチェイサーと同じ妖魔の女の子が、彼の孤独を癒してくれる。


 その方がいい。

 彼のためには。

 多分、あたしのためにも。


「あんたは弓にしたんだ」

 狐が声をかけてきた。

「蹴りだけでも氷狼を倒せそうだけどな」

「あんた、あたしが踏んずけた奴?」

「そうさ。ひょっとして、まだオイラ達の見分けがつかないの?」

「分かんないよ。みんなお面をつけてるんだもの」

「嫌だなぁ」

 狐は頭を振って言うと、近くにいた別の狐を引き寄せた。

「よく見ろよ。全部少しずつ違うんだぜ」

 そう言われて初めて気がついた。二つの面のうち片方は目の縁が青、もう片方は赤。

 見渡すと、他にも目の大きさが違ったり垂れ目だったり。

 イタチの面だってそれぞれ特徴がある。

「へぇー、分かんなかった」

 あたしが感心したように言うと、狐はニヤリと笑った。

 この表情のある面にだけはなじめないな。

「それをつけるのって何か意味があるの?」

 あたしの問いに赤目狐がうなずいた。

「もちろんさ。一つには狩りの時に顔を守るため。もう一つは氷狼を撹乱させるため――あいつらは色が分からないから見分けがつかないのさ」

「狐とイタチの違いは何?」

「これは、部族を表してる。このグループには俺達だけだが、他の面の部族もいるんだ」「チェイサーは面をつけないんだね」

「あいつはでかいからね。つけたところで、ごまかせやしない。それにどこの部族にも属してないし」

 えっ?

「どうして?」

「やれやれ、その目はお飾りかい、トムボーイ?」

 赤目狐はそう言って自分の面をずらした。

 細面の美しい顔だ。

 イタチとは明らかに違った顔立ちだったけど、どちらもコンピューターグラフィックみたいに生命感がない。

「チェイサーとは違うだろ?」

 面を元に戻す。

「そうだね。気を悪くしないでほしいんだけど、あんた達の顔立ちにはなじめないな」

「いいよ、無理もない。チェイサーの顔ならなじめるだろ?」

 あたしはコクンとうなずいた。

「あいつは元は人の子だったからね」


 チェイサーが人間?

 じゃあ、彼は氷狼を捕まえられなかったの?

 ううん、違う。

 チェイサーのマントは彼が初めて狩った氷狼の毛皮って言わなかった?

 チェイサーは人間の世界に帰らないで、別の願い事をしたに違いない。

 ――いったい何を?

 その願い事は、かなったんだろうか?


 不意に、チェイサーがあたしの方を見た。

 あたしはアイスブルーの瞳を見返しながら考えつづけた。


 どうして会ったばかりのチェイサーにこんなにも惹かれる?

 あたしは人間だった時の彼を知っていたんだろうか?

 記憶の中を探っても彼の顔はどこにもない。


 ――俺達の世界にいる間、お前は人々の記憶から消えるのだ


 チェイサーはそう言っていたっけ。


 ――まるで最初から存在していなかったかのように


 そんな事、本当にありえるの?



「日没だ!」


 誰かが言った。


「狩りだ!」

「狩りの始まりだ!」


 (ときの声が上がる。


「狐火を燈せ!」

「風を吹き鳴らせ!」


「弓を持て、トムボーイ」

 赤目狐が短剣を手にして言った。

「狩りを始めるぞ」

 狐達はそれぞれ短剣を一本口にくわえ、さらに両手に一本ずつ持って、見事な宙返りをして変身した。

 体長は大型犬くらいはあろうか。

 鋼の牙と爪を持つ白い妖狐があたしの周りを飛び跳ねる。

「弓を持て、人の子!」

 狐達が言う。

 あたしは弓と矢筒を担いだ。

「来い、チビ」

 チェイサーがあたしを呼んだ。

「氷狼を捕まえるぞ」


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