*冬を狩る者
冬じた目を開いた時、最初に見えたのはアイスブルーの瞳だった。
キレイな色――って
「ちょっと、あんた!」
あたしは勢いよく起き上がった。
馬の乗り手は少しのけ反って座り直した。
「あんたねぇ」
あたしは彼の胸倉をつかんで言った。
「よくもあたしのファーストキスを奪ったわねっ!」
「あれがキスのうちに入るのか」
「入るよっ!」
「ただちょっと冷気を送り込んだだけだ。愛情もなければ劣情もない」
馬の乗り手は冷たく微笑み、意味ありげに周囲を見回した。
「それよりもっと気にした方がいいことがあるのではないか?」
あたしは彼の視線を追って辺りを見回した。
「ここどこ?」
あたしがいたのは水墨画のような色のない部屋だった。
家具の類は何もないだだっ広い部屋で、白と薄墨のようなグレーのクッションが散らばっている。
あたしの前には馬の乗り手が、少し離れて取り巻くようにイタチと狐の面をつけた奴らがあたしを見ていた。
「この街に来た時に俺達が使う宿だ」
「あたしをこんなところに連れてきてどうすんのよっ!」
「怒鳴るな、やかましい」
馬の乗り手は面倒くさそうに手を振って言った。
「お前達の世界と俺達の世界は重なり合って存在している。世界と世界の間には共通のルールがあって、お前はその禁を犯した」
「そんなルール知らない」
「知らないのは俺達のせいではない。俺達の姿を見た以上、お前はこちらの世界に住まねばならない」
ちょっと待ってよ。
それじゃあ家族にも友達にももう会えないってことじゃない。
「冗談じゃない! 帰してよ!」
「俺に言うな。俺にはそれを決める権限はないのだから」
「誰に頼めばいいの?」
「分からんね。ただ、帰る方法は一つある」
「何……?」
「狩りを手伝え」
「狩りって……何を?」
「冬を」
冬を狩る?
「秋の終わりに<古い年>が北の地から氷狼の群れを放つ。それがお前達が言う冬だ。<古い年>が死に、<新しい年>が生まれたら、俺達は氷狼を追い立てながら狩りをする。氷狼がいなくなった地は新しい生命が満ちる」
「春ね」
馬の乗り手はうなずいた。
「ああ。そしてお前が氷狼を捕まえることができたら、一つだけ願いがかなう」
願いがかなう?
「何でも?」
「何でも。だからそれで『帰りたい』と願えばいい」
「あたしにできるかな?」
「さあな。だが、やる前から弱気になるのは感心しない」
馬の乗り手はそっけなく言った。
「怯えは体の動きを鈍らせる。氷狼に容赦なく食われるぞ」
うへぇ 食われたくはない。
「よぉし! 絶対に氷狼を捕まえてやる!」
拳を固めて気合いを入れた。
馬の乗り手はうっすらと笑みを浮かべた。
「お前を何と呼べばいい?」
「えっ? あたしはハルカ」
「それはお前の本当の名だろう? 俺達の世界では名は伏せるのが礼儀だ。俺は『冬を狩る者』と呼ばれている。あいつらは――」
馬の乗り手はイタチと狐の面をつけた奴らを顎で示した。
「俺をチェイサーと呼ぶ」
「氷狼の追跡者だからチェイサー?」
「深く考えたことはないがそうなんだろうな。俺がお前を呼ぶとしたら『チビ』かな?」
「チビぃ? やめてよ小犬じゃあるまいし!」
あたしはカッとなって言い返し、遠巻きにあたしを見ているイタチと狐を指差した。
「あいつらよりもデカイし」
「お前は俺よりは遥かにチビだ。それにあいつらはあいつらで好きに呼ぶだろう」
そんないい加減な!
あたしは憤慨して立ち上がると、イタチと狐の面をつけた奴らをぐるっと見回した。
「あたしはあんた達を『イタチ』と『狐』って呼ぶからね。どいつがどいつだか分かんないけど」
「結構だ」
一匹のイタチが言った。
「我らはあなたを――」
「『トムボーイ』がいいんじゃないか?」
狐が口を挟んだ。
「なにそれ?」
「お転婆娘という意味だ」
チェイサーが説明する。
あいつ……絶対にあたしに踏んづけられた狐だ。
「あんた方、英語が母国語?」
「我らが通り過ぎる場所で多く使われる言葉だ。あなたのお国の言葉がいいのならそれで呼ぶが? あるいは他の言葉でも」
イタチが言う。
「ああもう、面倒くさい。好きに呼んで!」
どっちにしろ意味は変わらないんでしょうよ。
「では少し狩りの説明をしよう。初心者もいることだし」
チェイサーが言った。
お気遣いどーも。
チェイサーは立ち上がると、手にした棒のような物で地面を軽く叩いた。白い床に、墨を流したように線が浮かび上がった。
どうやら地図らしい。
「昨夜の嵐の通り道を見れば、氷狼はここ『玻璃の谷』と『迷いの森』の間をうろついている」
「ハリの谷?」
「玻璃はガラスのことだ」
裁縫の針じゃないんだ。
「この地図ってあたしの住んでる街じゃないの?」
「お前の街だが、俺達の側から見ると少し変わる」
あたしが見たところ、『玻璃の谷』はオフィス街から駅までの繁華街で、『迷いの森』は郊外の森林公園と場所が同じだ。
「まずは氷狼の数を把握する」
「そいつはいつも通りおいら達が」
狐が言った。
「数が把握できたら、我々は『玻璃の谷』から『迷いの森』の方へすべての氷狼を追い込む」
棒が道筋をなぞる。
「そして海沿いの崖まで追い込んでできるだけ多くを狩る」
「全部は狩らないの?」
あたしは素朴な疑問をぶつけた。
「数が多すぎて狩れない」
チェイサーが答える。
「必ず取りこぼしは出る。小者は取りこぼしても問題はない。ただ常に群れのリーダーは確実に狩らねばならない。リーダーに逃げられると、後々厄介だ」
「厄介って?」
「リーダーに逃げられると、ここより北にいる氷狼を取り込んで群れが大きくなる。そうなれば狩りが難しくなるし、我々は一定の期間のうちに狩りを終えねばならんのだ。分かるな?」
分かるかっ!
「夏まで氷狼がうろついていては困るのだよ」
イタチが口を挟んだ。
「我らは武器の整備を始めるとしよう――トムボーイ、あなたの武器はどうする?」
「どうするって?」
「剣と槍と弓。どれにするね?」
「ライフルとかじゃないんだ」
「人の子の武器だな? 我らは火器は使わぬ」
氷狼が熊より獰猛じゃないことを祈りたい。
「弓で」
「経験があるのか?」
チェイサーが言った。
「部活でアーチェリーをやってる」
「部活?」
「ああ……その、学校でやりたい人だけが集まって弓の修行をするんだ」
「ならば、弓を一つ先に整えるとしよう」
イタチが言った。
「狩りに行く前に慣らしに射るといい」
「後は、着る物だな。こんなに色が多くては氷狼に気づかれる」
チェイサーの言葉にイタチがうなずく。
「では、それも用意しよう。トムボーイ、少し採寸させておくれ」
何の因果か知らないけれど、あたしはコートを脱いで白魔のイタチにスリーサイズを測られた。
「胸まわりは女にしては小さいな」
大きなお世話だよっ!
ふと見ると、チェイサーが笑い出したそうに目をきらめかせていた。
あたしはツンとそっぽを向いた。
「あんた達の……何ていうか、種族に女っているの?」
「いるとも」
イタチは肩幅を測りながら答える。
「夏の間を過ごす北の地には女神のように美しい女達がいるぞ」
「そんな美女に相手にしてもらえるの?」
「もちろん」
イタチはクックッと笑うと、顔のお面をずらした。
おわっ!
面の下にあったのは、人間離れした、整った美しい顔だった。
CGみたい……
「もっともチェイサーは、そんな美女にも見向きもしないが」
イタチは面を戻した。
「どうだねチェイサー、狩りなどやめさせてこの娘を遊び相手にしては? 人の子ならあなたの心も動くだろう?」
「チャンスを与えるのがルールだ」
チェイサーが答えた。
「相変わらずお堅い男だ。つまらぬな」
イタチは呆れたように言った。
っていうかさ、あたしの意見はどうなる訳?
「戯れ言はそのくらいにしておけ」
チェイサーは冷たく言った。
「狩りの準備にかかるぞ」
「がってん承知!」
白狐たちが宙返りを一つして走り去る。
「お前達もだ」
「仰せのとおりに」
イタチが慇懃に頭を下げた。
「チビはこちらへ」
だーれがチビよっ!
「呼ばれたら行くのだ、トムボーイ」
イタチが軽く背中を押した。
「我らも狩りの支度をせねば」
そうして、あたしとチェイサーだけが部屋に残った。
あたしはチェイサーの前に立った。
「あたしは何をすればいい?」
挑むように見上げて言う。
チェイサーはあたしの顎に手をやると身を屈めた。
えっ?
唇が重なって、冷気が体の中に流れ込む。今度は気が遠くなることはなかった。
「今のは何?」
あたしの問いにチェイサーは微かな笑みを浮かべた。
「冷気をその体に入れた。急に大量に入れると凍死するからな。少しずつ入れねば」
「ねえ、どうして冷気を入れるの?」
「狩りの準備だ。寒さを感じなくなる」
「それ、元に戻るんでしょうね」
「人の世界に戻れば少しずつ」
「少しずつぅ? 何よそれ!」
「やかましい娘だな。急に戻れば体が腐り落ちるのだぞ」
「げっ! ああ……少しずつでいいです。はい」
自然解凍ってことね。
「何度も言うようだが、俺に決定権がある訳ではない。俺はこの世界のルールに乗っ取っているだけだ」
「じやあ、そのルールを決めているのは誰なの?」
「知るか。お前の世界にも誰が定めたのか分からぬ決まり事があるであろう? 生き物はなぜ年老いて死ぬのだ? なぜ夜の後に朝が来る?」
「それは――」
「仕組みは分かるだろうさ。だがそれを定めたのは誰だ?」
「神様……かな」
「俺が言う『ルール』とはそういった類の決まり事の事だ。いちいち突っ掛かるな」
突っ掛かるなと言われてもなぁ……
今感じてる不安とか不満は誰にぶつければいいっての?
「俺に当たったところで物事は解決しない」
そりゃそーだ。
「憂さは晴れるかもしれぬがな」
「はぁ……何でこんなコトになっちゃったんだろ」
あたしはため息をついて言った。
「真夜中は妖魔と夜出歩く動物達のための時間だ。人の子は眠るものだ。ましてや外など見るものではない」
「今の世の中、街は眠らないの。24時間やってるコンビニって店知ってる?」
「そういう場所の明かりは見たことがある。なぜそうしているのかいまだに理解できないが」
「便利だからよ」
「その利便性を得る代わりに何かを失うはずだ」
「別に悪いことしてる訳じゃないじゃない」
「悪いとは言わぬ。だが、人の子にしろ妖魔にしろ全てを手にできる訳ではない」
「ねえ、氷狼を捕まえたら何でも願いがかなうんだよね」
「ああ」
「世界平和とか願ったらどうかな」
「俺の考えだと、その途端に人の子は滅ぶだろう。そうすれば世界は平和になる」
「そうか……そういう事もありえるんだ」
チェイサーはもう一度あたしに口づけた。
冷気が体のすみずみまで染み渡る。
「願い事は慎重にな」
あたしは魅入られたようにアイスブルーの瞳を見つめた。
チェイサーの顔はさっき見たイタチの素顔よりも親しみが持てた。
もう一度顔が近づき、唇が重なった。
チェイサーの片手があたしの頭を支え、反対の手が腰に絡み付く。ゆっくりと唇があたしの唇をさぐり、背筋がゾクッとして膝から力が抜けた。
最後に軽く冷気が体に入ってきた。
「今のも狩りの準備?」
あたしが言うと、チェイサーは首を横に振った。
「今のはキスだ」
「怒らないのか?」
チェイサーが訊いた。
「怒らせたかったの?」
あたしはチェイサーのアイスブルーの瞳を真っすぐに見た。
自分でもどうして怒らないのか分からない。
「いや」
「じゃあなぜキスしたの?」
「したかったから。ほんの気まぐれだ」
「あたしも、怒らないのはほんの気まぐれだよ」
「次は怒る事もあるのか」
「次はない」
「あるとも」
チェイサーはもう一度あたしを抱き寄せた。
「少なくとも俺はキスしたい」
唇が重なる前に思いっ切り蹴りを入れた。
チェイサーがスッと体を引いたので効果は半減してしまったけれど。
「気の強い娘だな」
チェイサーは面白がるように言った。
「それくらい気迫があれば氷狼を捕まえられるだろうよ。捕まえられなくとも、俺と来ればいいしな」
「絶対にこの街で捕まえる!」
あたしは意地を張るように言った。
「家族や友達が心配するもの」
すると、チェイサーは打たれたように怯んだ。
「家族は心配しない。俺達の世界にいる間、お前は人々の記憶から消えるのだ」
消える?
「それは……誰もあたしを覚えていないってこと?」
チェイサーはうなずいた。
「まるで最初から存在していなかったかのように」
「もしこのまま帰る事ができなくても、誰も悲しまないの?」
「そうだ」
そんなの嫌だ
だってそれじゃ、あたしが生きてきた十七年という月日が何の意味もなくなるじゃない。
「お前が帰れば元に戻る。帰ることだけ考えていろ」
チェイサーは言った。
それからふと思いついたように、
「人の子の世界で、お前の毎日は楽しいのか?」
と訊く。
「大体はね」
「やりたい事はできるのか?」
「上手く行かないことの方が多いかな」
「俺が訊いているのは結果ではなく、過程の事だ」
「過程って?」
「例えば、走りたいと思った時に走ることができるのかと尋ねているのだ。速くではなくとも」
「ああ……大抵の事はできるよ」
「そうか」
チェイサーはニッコリと笑った。
驚いた。こんな屈託なく笑えるんだ。
「あんたはやりたい事、できないの?」
「俺は冬を狩らねばならぬ」
チェイサーはそう言うと、身を翻してあたしから離れた。