*桜咲く日
向かいの家から翔くんが出て来た。
犬の散歩らしい。
足元で白い小さな犬が、嬉しそうにクルクル回っている。
あたしが退院してから、もう一ヶ月以上たつ。
あれから翔くんは――この漢字を使うのだってことも含め――事あるごとにあたしに記憶を取り戻させようとする。
いくつかは、あたしの十年前の記憶と重なるエピソードもあったけれど、残りのほとんどは知らない話だ。
翔くんが誰かと過ごした思い出を、あたしを相手としてすり替えられたように思えた。
だんだんと、あたしは無口になり、最近は翔くんを避けている。
周りの誰もが『ケンカでもしたの?』ときく。
友達にきいてみると、翔くんの印象はとても薄い。
無理もない。
本当は彼のことを知らないのだから。
翔くんがふっと顔を上げて、あたしの部屋の窓を見上げた。
まるで、あたしがいることを知っているように、こっちを見ている。
ヤバイ!
あたしは慌てて床に座り込んだ。
馬鹿みたい。何隠れてんだろ
間もなくケータイが鳴った。
――何隠れてんの?
あたしも自分にそう尋ねたところよ
「隠れてなんかいない」
――出て来いよ。散歩につき合え。待ってるから
返事しないうちに切られた。
仕方ない、行ってくるか。
「ママ、翔くんと犬の散歩行ってくる」
キッチンに向かって声をかけると、『いってらっしゃい』と返事。
その後に、『いい加減、彼女にしてもらえばいいのに』ってブツブツ言っているのが聞こえた。
大きなお世話だよ。
翔くんはあたしの家の前で腕を組んで立っていた。
無表情な顔はチェイサーを思わせた。
「来たよ」
あたしはぶっきらぼうに言った。
翔くんの犬は白いパグ。
黒い大きな目で、怯えたようにあたしを見上げた。
犬の祖先は狼だっていうけど、この子は絶対に違う。
なんだってこんな弱そうな犬がいいわけ?
翔くんは右手に犬のリードを持って、左手を黙って差し出した。
川沿いの桜並木の下を、あたし達は手をつないで歩いた。
春の風はまだ少し冷たいけれど、桜の木は淡いピンク色に包まれていた。
今年はいつもの年よりも春が来るのが早い気がする。
ひときわ大きな桜の前で翔くんは不意に立ち止まり、上を見上げた。
「綺麗だな」
翔くんがしみじみと言った。
「そうだね」
あたしも桜を見上げた。
「遥」
桜を見上げたまま、翔くんがボソッと言った。
「俺を嫌いなのか?」
「好きだよ」
「ずっと避けてるのに?」
「好きだけど、気詰まりなんだ」
あたしはうつむいた。
「悪いけど、たぶんあたしはこの先もあたし達の事は思い出せない」
存在しないものは思い出せない。
「ずっと、俺達は特別なんだと思っていた」
「特別だよ」
「何も覚えていないくせに、どうしてそんな事が言える?」
「記憶って、とても曖昧なの。時には大切なことも朧げになってしまう」
あたしは目を上げて翔くんを見た。
夏の海を思わせる青い瞳と目が合う。
「でも、それでも、あたしはあなたが大好き。ずっとずっと大好き」
翔くんはじっとあたしを見つめた。
「無理に思い出させようとしなかったら、一緒にいてくれるか?」
「そうしてくれれば嬉しい」
あたしがそう言うと、翔くんは口元を強張らせた。
「ゴメン。つらかったんだね?」
あたしは頷いた。
「あなたの期待に応えられない事が」
「俺はただ、以前のように遥といたかったんだ」
「それは無理」
「無理って何だよ。俺を好きって言ったじゃないか」
あたしは手を伸ばして、翔くんの前髪を直した。
「大好きだよ。ただ、あたしは大人になったの。今まで通りの二人には戻れない」
大好きな幼なじみに守られていた子供には、もう戻れない。
「お前と離れたくない」
「離れるんじゃないの。あたし達は一緒に新しい思い出を作ろう」
翔くんが、あたしを女の子として見る事はないかもしれない。
それでも、あたしは彼が誰かに恋するまでは一緒にいてあげたい。
「一緒に?」
「一緒にだよ」
あたし達は先に進もう。
大丈夫。大切な思い出は、あたしが全部覚えているから。
いつかあたし達が別々の道を歩く事があっても、あなたを愛してる。
春の強い風が吹いて、桜の花びらが風に舞って、まるでピンク色の雪のように、あたし達の上に降り注いだ。
それから、あたし達は毎日を一緒に過ごした。
桜の下を歩き、
緑の草の上に座り、
川に石を投げ、
梅雨の季節は一つの傘で。
勉強も一緒。
遊びに行くのも一緒。
時々、翔くんは戸惑ったようにあたしを見る。
分かってる。十年前はそんな物なかったものね。
あたしは、彼が知らない物の使い方をさりげなく教える。
「夏休みは海に行こうね」
あたしの言葉に翔くんは目を丸くした。
「俺達、受験生だぞ」
「一日くらい平気だよ」
海へ行こう!
あなたがずっと見ることができなかった夏の海へ。あなたの瞳の色を見に。
親達にはブツブツ小言を言われたけれど、夏休みの一日だけ、あたし達は海へ行った。
子供に戻ったようにはしゃいでいて、不意に翔くんが『中学の時もお前と一度来たよな』と言った。
「そうだっけ?」
あたしはとぼけた。
翔くんの記憶は、そうであってほしいという望みなのかもしれないと思った。
「遥」
「何?」
「俺達って付き合ってるのか?」
「そうだよ」
「俺達はカップル?」
「もちろん」
少なくとも周りのみんなはそう思ってる。
「じゃ、こっちに来いよ」
何だろうと思って側に行くと、翔くんはあたしにキスをした。
チェイサー
あたしはそっとキスを返した。
「なあ。お前、何か急いでいないか?」
翔くんが言った。
「急いでるって?」
「まるで時間がないように、色んな事しようとしてるぞ」
だって十年間を取り戻さなきゃ。
「あんまり急ぐな。時間はたくさんあるんだから」
「うん」
「お前がどこかに行きそうで、何だか心配なんだ」
「どこにも行かないよ」
って、笑い飛ばしたけれど、数ヶ月後には笑い事では済まなくなった。
秋の終わりに、あたしは街中で氷狼の群れを見た。
まだ体が小さな狼達が、南の方に向かって駆けて行く。冬が来るんだ。
次の日は初雪が降った。
そして、鏡に映るあたしの瞳の色がやけに薄く見えるようになった。
「髪、染めた?」
何人かの友達に言われた。
「ううん。どうして?」
「光りの加減かな。すごい茶髪に見える」
どうしよう。あたしは白魔になりかけてる。
もともと、普通の願い事で帰って来た訳じゃない。
今までここにいられた事の方が、奇跡なのかもしれない。
ううん。諦めちゃダメ。
あたしはやりたい事を自由にできるはず。
翔くんが願ってくれたんだもの。
冬がすべてを覆いつくして年が明け、天気が大荒れになった翌日、あたしは街に出た。
コートのポケットにライターと美咲ちゃんのカッターナイフを忍ばせて。
夕暮れの街を行くあてもなく行ったり来たりしていると、白い大型犬が近寄って来た。
「よう、トムボーイ。どうした? 浮かない顔してるぜ」
犬がしゃべった。
「狐?」
「何だ。オイラが分かるのか?」
「犬にしか見えないけどね。話ははっきり聞こえる」
「一緒に狩りに行くかい?」
「もう狩りは始まってるの?」
あたしはしゃがんで狐に話しかけた。
「ああ、チェイサーがいないと、やりづらくてしょうがないがね」
「悪いけど、あの人はダメよ」
あたしは顔をしかめて言った。
「残念! 今年の狩りに連れて来た人の子ときたら、全然使い物にならなくてな。あんたの方がまだましだ」
ほめてるのか、けなしてるのか。
「ねえ、あたし変じゃない? ここのところ色が抜けてきてる気がするんだ」
狐は目を細めてあたしを見た。
「そういやぁ、人の子にしては影が薄いな。まだ火は使えんだろ?」
「うん」
「細けぇことはあいつらの方が分かると思うぜ」
狐が顎で指した方を見ると、白いコートを着た子供が歩いて来る。
「イタチ?」
近くまで来たその子に声をかけてみた。
「トムボーイ! あなただったのか。こ奴が狩りをサボっているのかと思ったが」
「ゴメン。あたしが引き止めてた」
「トムボーイは、影が薄くなってるって心配してる」
狐が言った。
イタチもまた目を細め、あたしの回りをグルッと回った。
「うむ、確かに人の子にしては」
「あたしはまだ人間?」
「我らと行くほどではないな。わたしはどう見えるね?」
「子供に。でも声は普通に聞こえるし、冬の初めには氷狼も見た」
「我らと狩りをした記憶は消えていないのだな」
「こっちに戻って来ても消えなかった」
「チェイサーはどうだね?」
「あの人は十年分の年も取らなかったし、その間の記憶は一切ないの――っていうより、違う記憶を持ってる」
「違う記憶?」
「思い出が全部すり替わってるような。あたしの事も、一緒に育った幼なじみだと信じてる」
ハッと気付いた。
「そのせい? あたしは人間に戻ったんじゃなくて――」
「人間でいたいから、い続けている――おそらくは」
イタチがうなずいた。
「チェイサーの記憶がすり替わって、願い事の効力が薄れているのやも」
「あの人に本当の記憶を取り戻してもらえばいいのかな」
「それが一番だが、危険も伴うぞ。すり替わった記憶の方を思い出せば、あなたが我らの方へ近づく」
「そうか……」
「今すぐという感じではないな。だが、このままでは次の冬には――」
あたしは目を閉じた。
もともと帰って来るつもりはなかった。翔くんと過ごしたこの一年は贈り物だ。
ないよりまし。
いつかイタチが言った通りだったかも。
「もしダメだったら、連れて行ってくれない? 来年ここで待ってる」
「それは構わぬが」
「弱気になるなって、トムボーイ」
狐が慰めるように言った。
「あんたらしくないぜ」
あたしは笑った。
「そうだね」
「時にトムボーイ」
イタチが言った。
「チェイサーがこっちに来るぞ。あなたはつけられていたのではないか?」
振り向くと、翔くんが人の間をぬってあたしの方に来るのが見えた。
「行って。あの人には会わないで」
「しょうがねぇな。じゃあなトムボーイ、しっかりやんな」
「どっちにしろ来年ね――あっ! ちょっと待って」
あたしはポケットからライターを取り出した。
「種火はいらない?」
白魔達は声を立てて笑った。
「ありがたく頂いて行こう」
まもなく、翔くんがあたしの横で立ち止まった。
あたしは、しゃがんだまま目を上げる。
「具合悪いのか?」
翔くんが心配そうに言った。
「ううん。今、犬を撫でてたの」
「犬?」
「もう行っちゃったけど」
「誰か待ってるのか?」
「待ってないよ。どうして?」
「さっきから、同じ所を行ったり来たりしてる」
あたしは立ち上がった。
「いつから見てたの?」
翔くんはあたしを真っ直ぐに見た。
「家から」
文句があるなら言ってみろと言わんばかりだ。
「こんな暗くなってから一人で出かけるなんて、心配して当然だろう?」
「頭をスッキリさせたかったんだ。思ったより受験勉強ってこたえるよね」
翔くんは目に見えてホッとしたようだった。
「あんまり思い詰めるなよ。浪人するくらいどうってことないさ」
「何よぉ、あたしは浪人決定?」
「違うのか?」
「言ってなさいよ」
あたしは翔くんの肩を叩いて、先に歩きだした。
「どこ行くんだ?」
「帰るの!」
翔くんはあたしの後ろを歩いて来る。
「せっかく出て来たんだから、コーヒーでも飲んで行かないか?」
あたしはクルッと振り向いて、翔くんの横へ行き彼と腕を組んだ。
「賛成」
あたし達はファーストフードのお店に入ってコーヒーを頼んだ。
窓側の席に陣取って、寒そうに道行く人々を見る。
「後一ヶ月で終わるさ」
翔くんが言う。
聞き返すように見返すと、
「受験だよ」
「ああ、そうだね」
「お前、何だか顔色悪いぞ」
「疲れてるのかも」
翔くんは、あたしのおでこに手をあてた。
「熱はないみたいだな」
手の平が温かい。
血の通った人間の温もりだ。
ねえ
たとえあたしが人間の世界を去る日が来ても、あたしも自分の選択を後悔しないよ。
「翔くん、明日世界が滅びるとしたら、今何したい?」
「何だよ急に」
「教えて」
「そうだな……ここでお前とコーヒーを飲む」
「何それ」
あたしは笑った。
「明日世界が滅びるとしても、俺は特別な事はしたくない。いつもと同じように生活したいね」
それがあなたにとっての『生きる』ということ?
なら、あたしもそうしよう。
最後まであなたと普通に生きていこう。
窓の向こうで風がうなりを上げた。
街角を氷狼が駆け抜け、追い立てる白魔の一団が見えた。
狩りに行きたい。
風の太鼓の音が、あたしの中の白魔の部分を駆り立てる。
騒ぐ心を押さえ付け、あたしは翔くんに目をやった。
夏の海のような瞳が優しくあたしを見つめていた。
あなたとずっといたいのに……
春を迎え、この人と桜の下を歩くのは、今年が最後かもしれないと思った。




