1-03【呪夜】―シャルロットSIDE―(※推敲済)
「如何されましたかな?」
振り向いたフォン=バレル三世が怪訝に眉を顰める。 教皇の視線の先には、跳開橋の手前で立ち竦むシャルロットの姿があった。
「い、いえ……なんでもありません」
シャルロットは意を決すると足早に橋桁を渡る。
「ふむ、やはりまだ“チカラ”が足りぬか……」
フォン=バレル三世はシャルロットの不安定な様相を見咎めて、秘めやかに独り言つ。
両者が塔側の石露台へ辿り着くと、まるで訪れた獲物を誘い込む顎の如く巨大な鉄扉が開口する。
「では、参りましょう」
フォン=バレル三世の姿が塔の内側に消える。 僅かに躊躇して、シャルロットも後に続いた。 塔内部を照らす光源は、上方へと続く石段の側壁に備え付けられた燭台の明かりだけである。 一定の距離を置いて踊る蝋燭の炎が、最上階へと誘う道標となっていた。
静寂の空間にシャルロットの靴音だけが反響する。 そこにフォン=バレル三世の足音が混じることはない。 少女はまるで死刑台への階段を上る囚人のような心持に陥る。 それにずっと誰かに見られているような気がしてならなかった。 無論、辺りを見回しても、そのような人影はない。 得体の知れない恐怖に乾いた喉、じっとりとした冷たい汗がシャルロットの額に滲んでいた。
「ふぅ」
シャルロットはゆっくりと息を吐くと、胸元で聖印を切ってそれらの雑念を払拭しようと努める。
更に石段を上り続けると、いつしか少女の靴音に別の音が混じり始める。
「(……水の音?)」
空耳や幻聴の類ではない確かな質感を保った響き。 それは何か液体の様なモノが垂れ落ちる音であった。 そして、律動を刻む音色の発生源が目と鼻の先に迫った時、不意に螺旋を描き続けた石段が途切れる。 正面の闇の中にぼんやりと両開きの扉が浮かび上がっていた。
「……っ!」
シャルロットは口元に手巾帯を当てると、数回唾を飲み込む。 なにかが腐ったような臭いが鼻を突く。
フォン=バレル三世の手指が真鍮製の把手を押し込む。 重厚な両扉は苦鳴染みた軋みを響かせながら内側へと開いていった。 途端に先程とは比べ物にならない強烈な臭気がシャルロットを襲う。
「なに……コレ……?」
シャルロットの瞳が驚愕に見開かれていた。 口元を手巾帯で塞いでいなかったら、悲鳴を上げていたに違いない。 水晶の塔の最上階―――祭壇の間の内壁が赤く斑に染まっていた。 まるで悪趣味な絵画のように、床には引き千切られた内臓や肉片が散乱している。 どのような力を加えればこのような惨状になるのかシャルロットには見当もつかない。
「どうぞお入りください」
フォン=バレル三世が平然と促す。
シャルロットは後退ろうとする両脚を鼓舞して、どうにかその場に留まっていた。
「……聖下、これはいったい?」
室内の惨状から目を背けて問い掛ける。
「これはお目汚しを、聖女殿には些か刺激が強すぎたようですな」
フォン=バレル三世は祭壇の間の中央に座す祭器台へと歩み寄ると、赤黒い液体がなみなみと注がれた玉杯に手を伸ばす。
「人間の血にはまだ抵抗がありましてな。 こうして食用として飼われている家畜の血で渇きを癒しているのです」
フォン=バレル三世が玉杯を掲げると、そこに紅い波紋が生じた。
シャルロットが弾かれたように天井を見上げる。
「―――ヒッ」
シャルロットが声にならない悲鳴を上げる。
天井付近に巨大な丸籠がぶら下がっており、そこには四肢をもぎ取られた様々な獣の生首が詰め込まれていた。
「……どうしてこんな惨いことを」
シャルロットの双眸に涙の雫が滲む。 少女は震える声で訴えた。
「これは異なことを。 生きる為に糧を必要とするのは“貴女たち人族”も同じ筈ですぞ」
フォン=バレル三世は悪びれた様子も無く論じた。
一方、シャルロットは絶句していた。 フォン=バレル三世は今なんと言ったのか? その言葉が何を意味するのか、少女はずっと感じていた違和感の正体に気づく。
「屍族―――」
左手の咬痕が熱をもって疼いていた。
「ようやく気づかれましたか」
フォン=バレル三世の両眼に僅かな燐光が燈る。
「どうして……?」
「世界は不完全すぎるのだ。 聖人や賢人がどのような理想を唱えようとも、人間の本質はなにも変わりはしない」
フォン=バレル三世はシャルロットの疑問には答えず、静かな声音でそう零した。
「世の中に完全なものなどありませんわ。 それに―――」
シャルロットは表情を強張らせると、胸に溜めた心情を吐露するように続ける。
「それに、人は変われます……。 多くの人が望めば世界だって変えられる筈です」
それは定められた一生を歩むことを運命付けられた少女の衷情でもあった。
「確かに聖女殿の意見は正論だ。 そして気高き理想でもあるのだろう。 だが予は絶望したのだよ。 メナディエル正教を統べる教皇座に就き、信徒に賢聖と讃えられても、予が成したことなど刹那の灯火のようなものだ。 依然として権力者は“古き利権”にしがみつき、旧態依然とした体質はどのような手段を講じても絶やすことは出来なかった。 なまじ改革が成されたところで、支配者とその代弁者たちは自己を正当化し、新たな既得権を生み出し続ける。 無知な民はそれを否定する知恵を持たず、半ば理解できても抵抗する力など到底持ち得ない」
言葉が重なるごとに、フォン=バレル三世の顔から表情が消えていく。
「聖下は弱き者を助け、教会内に蔓延した悪しき風習を断つ為に、様々な改革をお進めになりました。 そして今も聖公会と白十字教、対立する二大宗派を融和へと導かれようとご尽力なさっておられます。 それは聖下の理想ではないのですか?」
シャルロットの衷情が悲壮に響く。 しかし、フォン=バレル三世は静かに首を横に振った。
「だが、それも予の意志を継ぐべき者が絶えれば、易々と水泡に帰すだろう。 人は弱く容易に欲望に屈する。 世界を正しく導く為には永久に変わらぬ意志を持った存在が必要だ。 そして、それは死すべき定めの者には勤まるまい」
「だから屍族になられたと仰るのですか? 不死を得て世界を変えるために?」
シャルロットの硬く強張った表情に、困惑の影が差す。
「勘違いをされては困る。 世界を変えるのは予ではない。 予はそれを見届ける為に不死となったのだよ」
フォン=バレル三世の言葉に呼応して、場の空気が変貌した。
教皇の足元から伸びた影が、獲物を狙う大蛇を形象化するように螺旋を描きだす。 その渦に祭壇の間を彩る血液が呑み込まれ収束していく。 何か奇妙な芸術のように見えざる技巧によって、それらはひとつのカタチへと練り上げられ―――
ひとりの少女として具現化した。
薄闇のなかで、真っ赤なドレスが音もなく揺らぐ。
「いつまで待たせるつもり? さっさとそのニセモノから霊環を奪い取っちゃってよ♪」
無邪気な子供のような声。
年齢はシャルロットよりも幾許か幼く見える。 流れるような銀髪に、すらりと伸びた細い手足。 蒼みを帯びた白い肌は、この世のものとは思えないほど幻想的な輝きを放っていた。 まるで夜の妖精のような少女。 しかし如何に可憐であろうと、それは人間の持つ美しさではない。 あどけない表情を彩る口唇から覗く一対の乱杭歯。 隠そうともせずに屍族たる本性を剥き出しにしている。 元は人間であるフォン=バレル三世とは根本から違う。 魂から闇に染まった存在であった。
「ラールウェア様……我が主よ。 出来うる限り事を大袈裟にはしたくないのです。 理由を話せばきっと聖女殿にもご協力頂ける筈ですぞ」
「ふーん。 面倒なら殺しちゃえばいいのに、ほんとに人間の価値観はよくわかんない」
ラールウェアと呼ばれた少女は、ふわりと祭壇に飛び乗って不服そうに呟いた。 フォン=バレル三世は苦笑すると、改めてシャルロットに向き直る。
「聞いての通り無駄話をしている暇はないようだ。 我が主が霊環アシュタリータを欲しているのだ。 素直にご提供頂ければ身の安全は保障しましょう」
「うんうん♪ アタシにはその三神具のチカラがどうしても必要なの」
ラールウェアの指先が、シャルロットの首元で鈍い輝きを放つ霊環を指す。
「この霊環はわたしが聖女である証。 おいそれとお渡しするわけにはまいりません」
シャルロットの精神を恐怖が鷲掴みにしていた。 しかし、聖女としての尊厳までは縛られてはいなかった。
「アハ♪ でもシャルロットちゃんは聖女でもなんでもないんだよ」
「なにを言って……」
シャルロットは吹きつける毒気にあてられて言葉を失う。
「貴女のなかを流れる血は、純血な聖女のそれではない。 その真偽は先の聖誕祭で予自身が確かめておる」
「―――っ!?」
シャルロットの脳裏に甦る忌まわしき光景。
屍族に血を吸われた生物は夜の眷属となり、従属・隷属を強られる。 吸血した屍族の格の違いにより程度の差こそあるが、そこに例外はない。
シャルロットの動揺を見透かしたように、フォン=バレル三世が更に続ける。
「そちらの不安は杞憂に終わろう。 生来の屍族ではない予に他種族を屍族化するほどの力はない。 だが、僅かなら強制力を発揮するようだ。 聖女殿がここにいるのもそういった“力”の賜物であるのだろう。 周囲に群がる邪魔者を遠ざける為、有効利用させて頂いた」
フォン=バレル三世が提示した真実は、シャルロットには受け容れ難く、そして突拍子も無いものだった。 渇いた喉に舌が張り付いて、巧く言葉がでない。 唾を飲み込むことさえ困難だった。
「わ、わたしは……シャルロット・アルジャベータ・リュズレイです。 それ以外の何者でもありませんわ……」
シャルロットは下唇を強く噛むと、消え入るような声でそれだけを口にする。
「予にも紛いものである貴女が、どのような経緯で聖女として育てられたのかはわからぬ。 それは貴女自身で確かめればよかろう」
「う、嘘です」
シャルロットが血の滲むような声で否定する。
信じたくない、いや信じられるわけがない。 だが、フォン=バレル三世が進んで偽りを述べる理由もわからない。 なにより、事の成否を確かめる術がなかった。
「我々には貴女が何者であろうと関係は無い。 だが、貴女が聖女ではないという事実は枢要である。 その霊環は聖女を縛る呪具、聖女の資質を所持する者が身に着けている限り、何者にも外すことは叶わぬからだ」
フォン=バレル三世は呆然と立ち尽くすシャルロットに音も無く近づく。
「如何に信じられなくとも、これで答えは証明できよう」
フォン=バレル三世は、骨ばった指先をシャルロットの頼りなげな両肩に置く。 そのまま身悶えする可憐な肢体を、苦もなく床の上に押し倒していた。 床に広がる血だまりから血潮が跳ねて、純白のドレスに赤い華が咲く。
「何をするのですか―――放してっ……」
シャルロットは必死に抵抗するが、その身体はフォン=バレル三世によって完全に組み敷かれてしまう。 吐き出される生臭い息が顔にかかり少女は眉を顰める。
「失礼を。 だが、貴女に霊環を手放す意志がない以上、多少扱いが手荒になることは許して頂きたい」
皺だらけの骨ばった手指が、剥き出しになったシャルロットの首元に触れる。 白い柔肌に一斉に鳥肌が立ち、張り詰めていた糸が切れたように少女の身体から力が抜ける。
シャルロットの意識は暗闇のなかに落ちて消えた。