2-03【涜聖】―シャルロットSIDE―(※推敲済)
蒼穹の輝きも失せて、黄昏に染まった神都の石畳に囚人馬車の影が伸びる。
罪人の名はミルフィーナ・ド・グラドユニオン。 その端麗な容姿だけでも十分に人目を惹く彼女だったが、聖女の守護役を代々務めるグラドユニオンの家名を知らぬ者など、この聖地アレシャイムでは皆無であろう。
だが、その名声も今は地に堕ち汚泥に塗れている。 沿道から投掛けられる侮蔑と憎悪の視線、視線、視線―――それら全てをミルフィーナは直立不動の姿勢で受け止めていた。
鋼鉄の車輪が横切る甲高い金属音が響く。
沿道の一角、喪に服した神都に溶け込むように、漆黒の外衣を纏った三者が囚人馬車を見守る。 耳元まで覆われた頭套に口元は黒布で隠されており、その正体を傍目に窺い知る術はない。
「あっ……」
内の一人、目深に被った頭巾の内側から少女の声が漏れる。 そこに覗く紅眼はシャルロット・アルジャベータ・リュズレイのものであった。
「フィーナ……」
シャルロットは人垣の隙間からミルフィーナの姿を認めて下唇を強く噛んだ。 まるで、猛り狂う凶獣でも捕縛したかのように、ミルフィーナの頚部と手首は三つ穴式の金属板に拘束され、囚人服から剥きだしになった右上腕部には、逆さ十字を模した異端の烙印が刻まれていた。 姉のように信頼するミルフィーナの無残な姿に、シャルロットは居た堪れなくなり再度俯いてしまう。 いや、少女を最も深く傷つけたのは、大衆がミルフィーナへと投掛ける負の感情の連鎖だったのかもしれない。 獄窓の住人へと容赦ない悪罵と石礫が飛ぶ度に、左右に控えた護送の騎馬隊から制止と叱咤の声が響いていた。 数を頼み、それに溺れた大衆の制御は困難を極めているようだ。 それほどまでに民衆から賢聖とまで謳われたウェルティス・フォン=バレル三世の死は神都に深刻な陰りを生じさせていた。 一時は暴徒と化した住民が守護騎士団の宿舎を取り囲む事態に発展するなど、反乱する情動の大波が各所に打ち寄せていた。
「何も知らない民衆に罪はありません」
シャルロットの心裡を見透かした言葉が背後から掛けられた。 その清冽な声はゆっくりと諭すような調子で続く。
「彼らの義憤は教皇殺害の咎人に対して覚えられています。 ミルフィーナ卿が無実の人であるのならば、彼女の名誉は必ずや取り戻せましょう」
振り返ったシャルロットの眼前に、己と同様に漆黒の佇まいがあった。 頭套の首元より流れ落ちる黒髪と袖口から伸びる手指の白さが病的な対比と映る人物である。
「ファティマ様……」
シャルロットはわき上がる激情を嚥下すると小さく頷く。
「ご婦人方、無駄話はそれぐらいにしないかい?」
両者の会話に割って入る三つ目の影。 この人物もまた黒衣の人であった。
「アレを見失ったら元も子もないだろう?」
その人物は囚人馬車が通り抜けた方角に向け顎をしゃくる。
「この青年の言葉通りです。 まずはミルフィーナ卿から直接、真実を聞きだせねばなりませんわ」
「ファティマ・イス猊下。 俺にはエドゥアルト・ラガ・ディファルという立派かどうかは判断しかねるが、とりあえずは呼び名には困らない程度に名前があるのだが……」
三人目はヴィルヘルムの指示で道連れとなったエドゥアルトであった。 もっとも、それを拒絶しなかったのは、彼持前の“興味本位”や“お節介”といった類の悪癖の賜物でもある。
「あら、わたくし些細なことには拘らない主義なのよ」
ファティマ・イスはエドゥアルトの軽口を手馴れた感で煙に巻く。
「どの部分が些細なのか詳しくお聞きしたいところだが―――やめておくとするか」
エドゥアルトにもそれは伝わっているようで、戯けたように舌先を突き出していた。
「賢明ですわ」
「お二人ともふざけ過ぎです」
シャルロットの叱咤を、ファティマ・イスは深謝の態、エドゥアルトは惚けた口笛と両者其々の姿勢で感受する。
「これは然り。 このまま聖女さまのご機嫌を損ねては神聖冒涜に値するな。 そうなると俺まで牢獄行きか?」
少々度が過ぎる軽口を叩くエドゥアルト。 シャルロットは青年をきつく一瞥すると、両の拳を握り締めて、ひとり歩みを進めてしまう。
「もう少し聖女さまの心情を慮ってくださいまし」
ファティマ・イスはエドゥアルトの耳元で小さく告げると、少女の後を追う。
「おやおや、俺が悪者なのか? 場を和ます冗談のひとつぐらい広い心で許容して欲しいものだな」
エドゥアルトは溜息混じりにそう呟くと、肩を落として二人を追従する。
相縁奇縁、この奇妙なとり合わせの救出隊が実現したのは今から三日ほど遡ることになる―――
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「貴女が……」
エドゥアルトに伴われヴィルヘルムの執務室に帰還したシャルロットを艶やかな微笑が出迎えていた。
「いえ、ファティマ様がなぜここに?」
愛用の肘掛け椅子に腰を落とすヴィルヘルムの傍らに立つ人物。 それは老卿と同色の枢機卿衣を纏ったファティマ・イスだった。 もっとも、シャルロットが驚くのも仕方が無い。 先日の白の間の一件がなければ、接点など皆無に近い両者である。
「わたくしが助力を申し出たことがそんなに不思議かしら?」
ファティマ・イスはシャルロットの抱く疑念を先読みしたかのように真意を質す。 その言葉からこの女枢機卿が件の協力者であることを少女は理解した。
「い、いえ……、けっしてそのようなことは」
シャルロットの紅玉眼が困ったように宙を泳いでいる。 心にも無いとはこれ正にだが、他に適当な返答が浮かばないようだ。 暫くの間、ファティマ・イスは少女の動揺を愉しげに見守っていたが、不意に真顔に戻ると再度口を開いた。
「三日後、ミルフィーナ卿は烙印刑に処された後、投獄執行に先立ち神都を引き回される筈ですわ」
それはシャルロットを現実へと立ち戻らせるには十分な内容だった。 その表情が自然と強張った。
「どうして……それではまるで」
晒し者である―――そう言い掛けて言葉を呑む。 ミルフィーナは守護騎士の聖務に対し実直過ぎる嫌いもあったが、騎士としてのみならず信徒しても模範となる高潔で崇高な人柄であった。 その無実を信じるシャルロットにとって、不当に彼女の尊厳を傷つける行為を黙って見過ごすことなどできるわけもない。
「どうにかして取止める手立てはないのですか?」
シャルロットが切羽詰った口調でファティマ・イスに訴えかける。
「それはできませんわ。 この付加刑はわたくし自身が枢機卿会議で提言したものですから」
「なぜ……」
思いも掛けない返答に立ち尽くすシャルロット。
「ワシもファティマ殿の意見には賛成じゃ。 聖下亡き今、無用に臣民の不安を煽るわけにはいかぬからの」
少女の心に更なる悲嘆を重ねたのはヴィルヘルムだった。 シャルロットは味方と目していた老卿に裏切られ不満を露にする。
「フィーナが贖罪の牢獄へと収容されることは、審問会の決定事項とお聞き致しました。 彼の牢獄から生きて帰還した囚人が皆無だとも……。 既に極刑に等しい処罰が下った者に、更なる厳罰を重ねることが正しい行いとは到底思えません」
シャルロットは尚も食い下がる。
メナディエル正教の教会法の下では、その信徒たる者に死罪は適用されない。 それは如何なる理由があろうと遵守されるべき古き伝統でもある。 故に通例なら極刑に値する重罪を犯した信徒、特に社会的地位の高い人間は、元老院の与り知る不帰の収容所“贖罪の牢獄”へと送還される慣わしであった。
「この件を内々に処理すれば、教会内外に無用な歪が生じかねんのじゃ」
老卿は疲れたように瞑目すると、大きな鷲鼻にかかる老眼鏡を軽く押し上げる。
「予てより咎を犯した高位聖職者や貴族たちは、金銭供与によってその罪を軽減されておった。 贖罪の牢獄の存在は、そういった不正の温床となっていると実しやかに囁かれておる。 なかには端から贖罪の牢獄など実在せず、元老院との裏取引の媒体として作り出された空想虚言の類だと噂する輩もおるぐらいじゃて。 もっとも、ワシも古書・聖書の類で得た知識のみで語っておる故、偉そうなことは言えぬがの」
要するにヴィルヘルムは、そういった流説に対する事前策だと言いたいのだろう。 確かに教会にとって都合の悪い噂の流布は好まざるところであろう。
「元老院がそれを望んだのですか?」
「いいえ、先程も申しましたが、この件に関しては、わたくしの独断ですわ」
シャルロットが吐き出した疑問をファティマ・イスが受ける。
「聖宮内警備の不備や亡き聖下の名誉を守る為にも、信徒の感情を鎮める最善の策としての付加刑です。 もっとも、元老院が教皇の死に関連する何らかの真実を、秘匿せんと目論んでいるのならば、その当事者であるミルフィーナ卿が民衆の前に姿を晒すことは、別種の危険性を孕んでいる筈ですわ。 故に元老院の抱く危惧を煽るには十分過ぎますわね」
現状を考慮すれば、元老院も枢機卿会議で議決した請求を無視できる筈もない。 己の透察に確固たる自信があるのか、ファティマ・イスの端整な顔にも余裕の色が窺えた。
「そんなことの為にフィーナを犠牲にしたのですか?」
だが、如何に理に適っていようと、結果としてミルフィーナを貶める企てにシャルロットが首を縦に振るわけもない。 少女の敵愾心に満ちた紅眼がファティマ・イスを射抜く。 己の意見が利己的で大儀とは程遠いことを理解してはいても、糾弾せずにはいられなかったのだろう。
「あら、早合点しないでくださいましね。 そうすることはミルフィーナ卿の、強いては聖女さまの為でもあるのです。 これで生死さえ定かではなかった彼女の所在を確かめられるのですから」
シャルロットの両の瞳孔が開く。 どうやらファティマ・イスの意図するところを汲み取ったようだ。 このままミルフィーナの処遇を秘密裏に進められては、救出など夢物語に終わるだろう。 現に手詰まりに陥っていたからこそシャルロットはここに居るのである。 付加刑の議決は元老院に視えざる楔を打ち込み。 囚われたミルフィーナを陽の元に誘いだす格好の手段でもあった。
「護送隊を襲ってミルフィーナ卿を助け出すのかい?」
執務室の壁に背を預けて、会話の成行きを見守っていたエドゥアルトが興味あり気に尋ねる。
「いいえ、それでは何の解決にもなりませんわ。 ミルフィーナ卿の経歴に新たな罪状が追加されるだけです」
「それならどうするのですか?」
これはシャルロットの質問だ。
「護送隊の後を追えば贖罪の牢獄へと案内してくださりますわ。 あとはミルフィーナ卿から直接ことの真相を聞き出せば宜しいかと思われます」
ファティマ・イスは穏やかな口調で理路整然と述べる。
だが、シャルロットはどこか釈然としない。 それは女枢機卿の言葉に揺らぎや淀みといったものを全く感じなかった為である。 更に両者の目的にも決定的な差異が生じている。 シャルロットの望みはあくまでミルフィーナの救出であり、真実の有無など二の次であった。 しかし、ファティマ・イスが重視するのはあきらかに後者である。 恐らく、ミルフィーナの無実が証明されない限り、救出の手助けには加担しないつもりだろう。 もっともそれが故に、女枢機卿の言葉は嘘偽りない本心からのものであるともとれた。
「しかし、不可解だな」
エドゥアルトはヴィルヘルムを窺うように一瞥した後、ファティマ・イスへと向き直る。 その視線は目上の者に向けられているとは思えぬほどに太太しい。
「あら、なにか疑問でもありますのかしら?」
「会話の内容から察するに、ファティマ・イス猊下とミルフィーナ卿は到底有縁とは言い難い。 こう言っちゃ悪いが、地位も名誉もある人間が赤の他人の為にそこまでする理由に皆目見当がつかないものでね」
エドゥアルトは意図的に先方の感情を逆撫ですることで、何らかの反応を引き出そうとしているようだ。 言葉を釣り糸にした駆け引きはヴィルヘルムの最も得意とする所だが、この直弟子も同様らしい。
「他人の良心を素直に信じられないなんて、随分と狭隘な殿方ですわね」
「捻くれているのは生まれつきでね。 あらぬ誤解を招くことも多いが、そのお陰で命拾いもしている」
青年と女枢機卿の視線が絡まる。 暫し無言の小康状態が続くが、それに終止符を打ったのはファティマ・イスだった。
「いいでしょう。 どのみち全てお話するつもりでしたしね。 それに遅かれ早かれ公になることですから、主席枢機卿がご一緒な今が最良の時かもしれません」
ファティマ・イスは小さく吐息を漏らすと、群雲を払うように語り出した。