笑顔の練習
ここは、新月学園1-C最寄りの女子トイレ。
良く清掃されてはいるが、ごく普通の女子トイレに、明らかに場違い(※と言われても本人は困るだろうが)な美人女子高生がいた。
剣麗華だ。
どんな美人であれ、生理現象からは逃れられない。
そんなことは当たり前なのだが、この日ばかりはなにやらいつもとは違っていた。
「ある程度、謎は解けた」
淡々とした口調で呟く、天才美少女こと、剣麗華。
その眼は、ガラスの中の整い過ぎた自分の美顔を、睨むように見つめている。
確かに少し整い過ぎている。疑いようもない美人だ。
彼女自身は(まあ、顔が整っていても悪いことはない)くらいの認識しかなかったが、周囲にとってはそうでないことくらいは知っていた。
特に男性の中には、彼女のBMP能力以上に外見に価値を見出している者も少なくないことは分かっていた。
そして、現在一番近くにいる(※なんせ一緒に住んでいる)少年にとっては、自分の外見のせいで周囲の視線を浴びるのは、若干気疲れする事態であることにも気付けていた。
が。
「悠斗君は、私の顔が整っていない方が良かった?」
と聞いたら。
「そんなもの、美人さんの方が嬉しいに決まってますよ!」
と(※なぜか敬語で)とてもいい笑顔で答えたので、まあ、整った顔が嫌いと言う訳ではないらしい。
しかし、一緒に暮らし始めて4か月になろうとしているのに、未だに自分に慣れておらず、二人で居る時いつもどこか緊張した様子なのは、やはり澄空悠斗になんらかの異常があると考えざるを得ない(※と本人は思っている)。
「まともに対人関係を学んで来れなかった私でさえ、今の生活にずいぶん慣れてきたのに」
呟く麗華。
「けど」
分かった。鍵は『クール系』という言葉だ。
俗語か造語の類だろうから、言葉自体を調べても対して意味はないだろうが、さきほどの話の流れから『いつも隙がなく、厳しそうな女性』のことをイメージしているのは分かる。
思い出してみると、同じ美人でも、緋色瞳さんのような女性を前にしている時は緊張しているが、アローウエポンやエリカを前にしている時は、なんだかデレっとしている(※ような気がする)。
「アローウエポンやエリカとの違い……」
ポイントは……。
それまで以上に真剣な顔で、鏡の中の自分の顔を見つめる麗華。
あの二人にあって自分にないもの。
それはおそらく。
「笑顔」
それも、同性も異性も、見ている者が思わず和んでしまう、穏やかな微笑み。
……超難問だった。
挑むような笑みや、蔑んだ笑いなら、できそうな気もするのだが。
誰かを癒すような微笑みとなると……。
「いや……」
最初から逃げていても仕方がない。
この数カ月は、きちんと人と会うようにしてきたという自覚はある。
今のところあまり活用できてないが、他人の顔を見て学んだ表情のパターンに関するデータの蓄積もある。
そして、なにより。
自分は……剣麗華は、微笑みたくないと思っている訳ではない!
剣麗華は、覚悟を決めて、鏡の中の自分に向かって、微笑んだ。
◇◆
エリカは初めに『ソレ』を見た時、純粋な恐怖を感じた。
第五次首都防衛戦の時より、BMP管理局籠城戦の時より、怖かった。
そして、次の瞬間『ソレ』は見てはいけないものなんだと気がついた。
『彼女』が悪いのではない。それを見た自分が悪いのだ。
今日のこの時間、1-C最寄り女子トイレに本郷エリカが来た、という事実ごと『ソレ』を見た事実を封印してしまうのが最善だと結論付けたのは、あまりにも当然の帰結だった。
……帰結だったのだが。
『ソレ』の衝撃があまりにも強すぎて、回れ右をしようとした時に豪快に転倒してしまうエリカだった。
「エリカ?」
いつもの無表情(※でも、やっぱりあり得ないくらいの美顔ではある)に戻って、女子トイレの床に女の子座りをしてしまったエリカに問いかける剣麗華。
そのことに少しほっとして、未だ力の入らない足でなんとか立ち上がるエリカ。
床が揺れてなくて良かった。
「どうしたの、エリカ? 顔色悪い」
全く悪意のない様子で聞いてくる剣麗華。
「れ、麗華さんこソ、どうシタんですカ? す、凄い顔してましタけど……」
実際には『凄い』程度の形容詞で表現できる表情ではなかったが……。
「ん? 笑顔の練習だけど」
「は、ハイ!?」
甲高く語尾を上げるイントネーションで返事をするエリカ。
「コンセプトは、納期直前、連夜の徹夜残業を乗り越え、一週間ぶりに帰宅した夫を迎える、新妻の笑顔。……だったんだけど、違ってた?」
「ぜ、全然、違いマス! むしろ、一週間後に保険金殺人する予定の旦那さんにデモ見せちゃいけない類の顔でしタよ!」
鏡越しに見た麗華の表情があまりに衝撃的だったせいか、珍しく大きな声で反論してしまうエリカ。
「うーん。結構、難しい」
呟く、麗華。
『難しい』というレベルの問題ではなかった気もするが、エリカはそれ以上に気になることがあった。
「そもソモ、どうして、いきなり笑顔なんて気にするんデスか?」
「ん?」
予想外の質問だったのか、麗華がきょとんとした顔を向けてくる。
「ひょっとして、さっきの話……気にしてるんデスか?」
「もちろん。パートナーとして、悠斗君にマイナスとなる要素はできるだけ排除しておく必要がある」
「…………」
くらっとした。
そして、危なかった。
エリカが男性だとしたら、今のセリフで、間違いなく惚れていたことだろう。
そんな麗華が微笑ましくて、そんな気持ちを受ける悠斗が少し羨ましくて。
エリカは薄く微笑んだ。
と。
麗華の手が、エリカの頬に伸びてきた。
「え? エ?」
「エリカの微笑みは凄く自然。魅力的……なんだと思う」
魂を抜かれそうな程に美しい瞳で、エリカを見つめてくる麗華。
「どうしたら、そんな表情を作れるの?」
「ど、どうしタラと言われましテモても……」
完全に混乱しているエリカ。
「教えてほしい」
顔を近づけてくる麗華。
と、物音と息を飲むような気配がした。
次の瞬間、黄色い奇声とともに、誰かが逃げ去っていく。
なにか誤解されたかもしれない。
いや、そんなことより。
「で、デモ、麗華さんも、表情だいぶ柔らかくなってマスよね?」
「え?」
それは、完全に予想外のセリフだったらしい。
麗華の顔が離れた。
女子トイレの鏡を見つめて。
「そうかな?」
「そうデスよ。入学式で初めて会ったときとハ、別人デス!」
別にお世辞ではない。
本当に、そう思うのだ。
しかし。
「自覚がない」
本人に自覚がないらしい。
「ほんの少しデスけど、微笑んでいると思うんデスけど……。ほんとに、心当たりがないデスか?」
「ない、と思うんだけど……」
言いつつ、もう一度思い出してみる。
澄空悠斗が、哀れなくらいに慌てた様子で、朝までに終わらなかった宿題の手助けを求めてくる時。
三村が馬鹿なことをやった時。
峰が大真面目な顔で持論を展開し、澄空悠斗が助けを求めてくる時。
緋色先生に遠まわしに責められて、澄空悠斗が困っている時。
エリカの頬笑みを見て、自分まで和んでしまった時。
「笑ってた……かもしれない」
「デスよ!」
勢い込んで答えるエリカ。
正直、普段の麗華の表情には、他人から見て微笑みと分かるようなものはあまりなかったが、エリカには雰囲気で麗華も結構笑っているのが分かる(※ような気がしていた)。
「焦る必要はナイと思いマス。麗華さんは、少しずつ素敵な微笑みを身につけていると思いマス」
その言葉は、本心からのものだったが。
鏡からエリカの方に振り返って。
「ありがとう、エリカ」
と言う彼女の。
薄く笑みの形を作る顔を見て。
エリカは思った。
(麗華さん……。これ以上可愛くなって、どうするつもりなんでしょうカ?)