叶えたい願いがあるという奇跡で
「くそっ……」
走りながら悪態を吐く俺。
どうして気付かなかったのか、と。
気付くきっかけはいくらでもあったのに、と。
「…………」
いや。
本当は気付いていた。
そうでなければ、こんなに混乱していない訳がない。
こんなに、覚悟をもって明日香のもとに走っていける訳がない!
「ガッツ! まだか!」
「も、もう少しだ!」
前を走るガッツが、俺の叫びに答える。
明日香を追いかけているエールからの連絡を、携帯電話で受ける係である。
「す……すみません! 本当は呼びに行くなと言われてたんですが……」
後ろからついて来るハカセが言う。
そう言った明日香の気持ちもわかる。
が、もちろんハカセ達には、礼こそ言っても責める筋合いは全くない。
……間に合え。
◇◆
「明日香!!」
「! んぁ!」
円形闘技場と隣接するビルを繋ぐ空中渡り廊下。
開放的で眺めがいい、と評判のその場所で、姉御は飛び上がるほどに驚いていた。
「ゆ……悠斗! びっくりさせないでよ! 思わず消えるところだったじゃない!」
「わ……悪かった……」
胸元を強く押さえながら叫んでくる明日香に、慎重に謝る俺。
……明日香の身体が透けて来ている。
その向こうの夕日がはっきりと目に入るほどに。
冗談抜きで、ちょっとした弾みで消えてしまいそうだった。
慎重に慎重に。
「明日香、落ち着いて聞いてくれ」
「……なに?」
「お前のこと、何とかなるかもしれない」
「…………」
逆光のせいもあって、明日香の表情が分かりづらい。
だが、言葉を続けるしかない。
「その身体は……、幻影獣のBMP能力なんだよな……?」
俺の問いに明日香が頷く。
「外見は普通の女の人にしか見えなかったけど……。たぶん、悠斗達が迷宮って呼んでる幻影獣なんだと思う」
「そうか……」
質量すら錯覚する幻。
人間を超越する幻影獣のBMP能力。
実際に目の当たりにして、それが幻であるとすら気付かなかった俺に、荷が重すぎるのは分かっているが。
「そのBMP能力……複写する」
俺の宣言に、期待と驚きの混じった声がハカセ達から洩れる。
が。
「無理だよ」
明日香だけは、一言の元に否定する。
「信じろ! BMPヴァンガードに不可能はない!」
もちろん、そんなことはないのだが、こう言わないと話が進まない。
明日香が全面的に協力してくれるなら、賢崎さんを呼んで融合進化すれば、まだ望みはある!
「そんなことは知ってるよ」
「嘘じゃない! 俺なら……? へ?」
知ってる? へ?
「悠斗に不可能なことなんてないことくらい知ってる」
「え?」
明日香が近づいて来る。
表情が見えるようになってくる。
「でも、悠斗。今度は、私、いつになったら、消えられるの?」
明日香は、泣くように微笑んでいた。
「っ!」
俺は言葉を失う。
明日香には、完全に見透かされていた。
明日香が、自立起動する幻で、消滅原因が術者による解除でないとするならば。
消滅条件の変更、もしくは解除。
それが俺の考えた、急場しのぎの策だった。
現在の消滅条件が好ましいものでないのならば、このやり方は正しいのかもしれない。
だが……。
「なんでだよ、明日香……」
「…………」
「今の状況の、どこに『満足』する要素があるんだ……?」
俺にはとても納得できなかった。
たとえ明日香本人が納得していたとしても。
「悠斗……」
明日香の手を握りしめる。
透けて見える程に存在感が薄れても、手のひらから伝わる感触は、とても幻には思えない。
「ただの小学生の女の子として生活するんだろ?」
「もう飽きるくらい生活したよ」
「恋もするんだろ?」
「悠斗お兄ちゃんにゾッコンだし」
「美味しいものいっぱい食べるんだろ?」
「舌も胃袋もないけど……、おごってもらえて凄く嬉しかった」
「勉強とか部活とか……」
「BMPヴァンガード様の妹役以上に面白いことなんてなかったよ」
…………。
だめだ。
予想以上に明日香の物わかりが良すぎる。
肉体が死亡しているせいで、根本的に存在への執着が薄いのか……。
それとも…………。
いや。
「妹の件は、どうするんだ?」
「う……」
そこで、初めて明日香が言葉を詰まらせた。
「だ、だますつもりはなかったのよ」
「…………」
いや、そういう問題ではない。
「こうなった以上は、是が非でも妹になってもらわなければ困る」
「ゆ、悠斗。あんまり乗り気じゃなかったくせに……」
「いや、実はムチャクチャ乗り気だったんだ」
「な……なんて清々しいまでの手のひら返し……。魔人め……」
いや、魔人は関係ない。
「天竜院さんがいるじゃない」
「は?」
天竜院先輩?
「格好良いし、美人だし、強いし、優しいし……。何より面倒見がよさそうだし。悠斗と剣さんの二人でも足りないところを埋めてくれる、素敵な妹さんになれるとおもうんだけどな」
「あんな胸の大きな妹が居てたまるか」
超高校級なんだぞ。
……。
…………。
「…………」
「…………」
「本当はね」
「ん」
「『これはボランティアじゃない』って言われてたんだ」
「え?」
「完全に魂が摩耗して消滅するまで。千年かかる呪い、って」
「…………」
呪い……。
「基本的に、肉体が死亡した段階で心も止めるから。後悔は消えないし、満足はできない。出口があるだけで脱出不可能な魂の牢獄だって」
「そう……なのか」
本当の目的は分からないが。
幻影獣らしいと言えば、幻影獣らしい。
「でも、違った。全然そんなことはなかったよ」
「……明日香」
「悠斗と会ってから、毎日、心が変わっていくの。絶対に忘れられないはずの最期の瞬間も、いつの間にか思い出さなくなったし。みんなとの『今』が面白いとすら感じるようになったし。それどころか、これからのこと。悠斗達と一緒に生きていく、これからのことが楽しいとさえ思えたの」
「…………」
「それはとっても凄いことなんだよ、悠斗」
「…………」
「だから、私は、『満足』なんだよ」
「…………」
「……悠斗」
「……そうだな」
俺も物わかりが良過ぎて使い物にならない。
すがりついて、泣き喚いて、引き留めるくらいでいいのに。
……どうして、こんなに、明日香の気持ちが分かるのか。
……あ。
いや……。
「悠斗。泣かないで」
「…………」
泣いているのは明日香だ。
俺に抱きしめられたまま、大粒の涙をこぼして、一生懸命泣いていた。
「わ……私もね、消え……消えたい訳じゃないんだよ?」
「分かってる」
「悠斗が……世界を助けるところを……ずっと見てたいんだよ」
「ああ」
「ゆ……悠斗は無自覚にモテるから……。ちゃんとした妹は、必要不可欠だと思うの……」
「俺も居て欲しい」
「い……妹としてだけじゃなくて……剣さんと恋人の座を取り合うみたいな……そんなルートもいいと思うの……」
「それはいいな」
薄れていく。
明日香の身体が。
「ねぇ、悠斗」
恨みは全く感じさせず。
「叶えたいことがあるって」
涙の中にも晴れやかな笑顔で。
「まるで奇跡みたいだね」
でも、少しだけ残念そうに。
俺もそう思う、と伝えると。
明日香は少し微笑んで。
大好き、と言ったような気がした。
まるで夕日に溶けるように。
明日香は俺の腕の中で。
消えて行った。