最終話
「ふざけるな! これがエララだと? そんな嘘が通じると思っているのか!」
カイル様の絶叫が、優雅なダイニングに不協和音として響き渡った。
彼は充血した目で私を睨みつける。その視線は、かつての蔑みではなく、理解の範疇を超えたものへの恐怖と、醜い執着に満ちていた。
「エララは灰色のゴミだ! こんな……こんな目が眩むような美人が、あいつであるはずがない!」
「現実逃避もそこまでいくと哀れだな」
シルヴィス様が冷ややかに切り捨てる。
カイル様は逆上し、テーブルを回り込んで私に手を伸ばしてきた。
「こっちへ来い! 確かめてやる! その顔も肌も、どうせ魔法で化けているだけだろう! 剥がしてやる!」
「──ひっ!」
私は身を竦めた。
けれど、彼の手が私に届くことはなかった。
ドロリ、と。
カイル様の背後にいたマリエルの口から、何かが溢れ出したからだ。
「う、げ……ぇ……?」
「マリエル?」
マリエルは白目を剥き、痙攣していた。
彼女の口、鼻、そして目から、コールタールのような粘り気のある黒い液体が噴き出し、ピンク色のドレスを汚していく。
それだけではない。彼女の体から放たれる悪臭が爆発的に強まり、ダイニングの花瓶の花が一瞬で枯れ落ちた。
「な、なんだこれは!? 汚い! マリエル、貴様何をした!」
カイル様が悲鳴を上げて後ずさる。
シルヴィス様は私を背に庇い、ハンカチで鼻を覆いながら憐れむように言った。
「言っただろう。エララは『焼却炉』だったと。彼女がそばにいて、その身を焦がして灰になりながら浄化していたからこそ、マリエル嬢の持つ『汚染毒』は無害化されていたのだ」
シルヴィス様は、汚物にまみれてのたうち回る二人を見下ろす。
「だが、エララはもういない。当然、溜め込んでいた毒は溢れ出し、発生源である自分自身を腐らせる。……自業自得という言葉すら生ぬるいな」
「いやだ……助けて、殿下ぁ……」
マリエルが助けを求めてカイル様の足にしがみつく。黒いヘドロがカイル様のズボンにべっとりと張り付いた。
「うわあああ! 離せ! 僕まで汚れるだろうが!」
カイル様は愛するはずの婚約者を足蹴にし、必死に振り払おうとする。
その光景は、あまりにも醜悪で、滑稽だった。
(ああ……。私、なんでこんな人たちの顔色を窺っていたんだろう)
胸の中にあった、小さな恐怖の欠片。
それが今、音を立てて砕け散った。
残ったのは、からっぽの呆れと、清々しいほどの決別だけ。
私はシルヴィス様の背中から一歩踏み出し、彼らに告げた。
「カイル様、マリエル」
私の声に、泥沼の二人が動きを止める。
「私はもう、あなた達の『掃除機』ではありません。その汚れは、どうぞご自分達で舐めとってください。……お似合いですよ、今のあなた達は」
それが、私からの最後の手向けだった。
直後、激しい足音と共に、王宮の近衛騎士団がなだれ込んできた。
シルヴィス様が事前に通報していたのだ。
「ご報告通りですな、公爵閣下! 王都に異臭を撒き散らす発生源を確認しました!」
「うむ。その二名が、重要文化財汚損および公衆衛生法違反の現行犯だ。城の地下牢へ連行しろ。……ああ、移送用の馬車は、後で焼却処分にするように」
「はっ!」
「待て! 離せ! 私は王太子だぞ! エララ、戻ってきてくれ! やり直そう! 君が必要なんだ!」
カイル様が騎士に引きずられながら、無様に手を伸ばす。
けれど、その手はヘドロにまみれ、もう二度と私に触れることはできない。
マリエルの絶叫と共に、二つの「汚物」は公爵邸から綺麗に掃き出されていった。
静寂が戻る。
窓を開け放つと、初夏の風が部屋の澱んだ空気を洗い流していった。
「……終わったな」
シルヴィス様が、強張っていた私の肩を抱き寄せる。
その体温を感じた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、私は彼の胸に顔を埋めた。
「……はい。綺麗に、なりました」
「ああ。これからは、私の目だけでなく、誰の目にも君の輝きが映るだろう」
彼は私の涙を指先で拭い、優しく微笑んだ。
「帰ろう、エララ。私たちが暮らす、塵ひとつない白銀の世界へ」
◇
それから、一年が過ぎた。
カイル元王太子とマリエルは、王籍を剥奪され、北の果てにある「廃棄物処理施設」での強制労働に従事しているという。
彼らが動くたびに汚染物質が出るため、一生そこから出ることは許されない。皮肉にも、かつて私に言い渡そうとした罰を、彼ら自身が受けることになったのだ。
一方、私は。
「エララ、じっとしていてくれ。まだ光が足りない」
「もう十分です、シルヴィス様……。これ以上宝石を飾ったら、重くて首が折れてしまいます」
公爵邸のサンルーム。
私はソファに座らされ、シルヴィス様によって着せ替え人形にされていた。
今の私は、以前のように「灰」を出すことはない。
その代わり──。
「綺麗だ……。私が愛を囁くたびに、君から溢れるこの『光の粒子』は」
シルヴィス様が私の頬に触れると、フワリ、と金色の粉が舞い散る。
私の呪いは、愛する人と触れ合うことで「ダイヤモンドダスト」のような光の結晶を生み出す祝福へと変化していた。
おかげで公爵邸は、常にキラキラと輝く幻想的な空間になっている。
「君は、私が磨けば磨くほど、予想を超えて輝いていく」
彼は満足げに目を細めると、私の前に跪き、そっと左手の薬指に口づけをした。
そこには、私の瞳と同じ色の、大きなアイオライトの指輪が嵌まっている。
「愛しているよ、エララ。君がこの世の誰よりも美しい」
「……もう。知っています」
私は苦笑しながら、彼に抱きついた。
舞い上がった光の粒子が、私たちを祝福するように包み込む。
かつて、床のシミを気にして俯いていた灰被りの少女はもういない。
ここにあるのは、世界で一番清潔で、甘やかで、眩いばかりの幸福だけだった。




