第3話
翌朝、私が目覚めたとき、世界は驚くほど軽やかだった。
(……喉が、痛くない)
毎朝の日課だった、口の中のジャリジャリとした砂を吐き出す作業が必要ない。
シーツは雪原のように真っ白なままだし、空気は甘い花の香りで満たされている。
そして何より──私の左手は、眠っているシルヴィス様の大きな手に、しっかりと包み込まれていた。
「……ん。目覚めたか、私の銀雪」
低く寝ぼけた声と共に、長い睫毛が震え、あのアイスブルーの瞳が開かれる。
朝陽を浴びた公爵様は、絵画に描かれた天使も裸足で逃げ出すほどの破壊力だった。
「おはようございます、公爵様。……その、手」
「ああ。魔力の充填を繋いでおいた。君の体内の『焼却炉』が暴走して、また灰まみれにならないようにな」
彼は悪びれもせず、私の手の甲に挨拶代わりの口づけを落とす。
昨晩、お風呂上がりの私に彼は言った。『君は周囲の穢れを吸い込みすぎて、キャパシティオーバーを起こしている。私が魔力を循環させれば、灰化は防げる』と。
おかげで今の私は、肌も髪も、昨日鏡で見た「知らない美女」のままだった。
ふわりと波打つ銀髪に、透き通るような白い肌。
これなら、誰も私を「灰被り」とは呼ばないだろう。
「さあ、朝食にしよう。最高のシェフに、白い食材だけのフルコースを用意させた」
「徹底してますね……」
◇
公爵邸のダイニングは、窓の外に広がるローズガーデンを一望できる特等席だった。
運ばれてきたのは、ホワイトアスパラガスのポタージュに、白身魚のムニエル、そして純白のパン。
どれも絶品で、私は久しぶりに「灰の味」がしない食事に感動していた。
しかし、その平穏は唐突な騒音によって破られた。
「通せ! この無礼者どもが! 私は王太子だぞ!」
「臭い! この屋敷はなんでこんなに洗剤臭いんだ!」
バァン!!
ダイニングの扉が乱暴に蹴り開けられる。
ドカドカと踏み込んできたのは、昨日私を捨てたばかりの元婚約者カイル様と、義妹のマリエルだった。
けれど、私はフォークを取り落としそうになった。
彼らの姿が、あまりにも異様だったからだ。
(……なに、あれ)
カイル様の金髪は脂っぽくベタつき、マリエルのピンクのドレスには、どす黒いシミのような影がまとわりついている。
そして何より──臭い。
生ゴミを真夏の太陽の下に放置したような、鼻が曲がるほどの腐敗臭が、彼らと共に流れ込んできたのだ。
「エララ! どこだ、あの薄汚い灰女は!」
カイル様が怒鳴り散らす。
シルヴィス様が優雅に紅茶のカップを置き、氷のような視線を向けた。
「朝から随分と騒々しいゴミ収集車が来たものだ。……何の用だ、殿下? 私の屋敷に悪臭を持ち込まないでいただきたい」
「黙れシルヴィス! 貴様がエララを連れ去ってから、王宮がおかしいのだ!」
カイル様は鼻をつまみながら叫んだ。
「城中の花が枯れ、食事はすぐに腐り、下水のような臭いが充満している! あいつだ、あの灰女が去り際に呪いを残していったに違いない! 浄化させるから今すぐここへ出せ!」
(えぇ……)
私は呆れ返った。
それは呪いではない。私が今まで、自分の身を焦がして灰にしながら、吸着して燃やし続けていた王都の「穢れ」そのものだ。
私が(というより高性能空気清浄機が)いなくなったから、本来の汚れが浮き出てきただけに過ぎない。
「お姉様、ひどいわ……こんな迷惑をかけるなんて」
マリエルが涙ぐむ。が、彼女が瞬きをするたび、黒い澱のようなものがパラパラと落ちるのが見えた。
そうか、シルヴィス様には、最初から世界がこう見えていたのか。
「……それで? エララをどうするつもりだ」
シルヴィス様が淡々と尋ねる。
「決まっている! 城の地下牢に繋いで、死ぬまで空気を浄化させる! それが『灰被り』にお似合いの末路だ!」
カイル様が唾を飛ばして喚いた、その時だった。
彼の視線が、シルヴィス様の隣に座っている私に止まった。
「……ん?」
カイル様の目が、釘付けになる。
私の銀髪、真っ白な肌、そして宝石のような紫の瞳を、食い入るように見つめた。
「お、おいシルヴィス……。そちらの麗しいご令嬢は、どなただ?」
「は?」
私は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
カイル様は、あからさまに頬を赤らめ、先ほどまでの剣幕が嘘のように猫なで声を出した。
「いや、驚いた。この国にこれほどの美姫が隠されていたとは。……初めまして、美しい方。私は王太子カイルだ。あー、今は少々、城の配管トラブルで匂うかもしれないが、普段はもっと清潔なんだよ?」
彼は髪をかき上げ(ベタついているので形が崩れた)、ウインクを飛ばしてきた。
「貴女のような宝石が、なぜこんな堅物の公爵と食事を? もしよければ、この後、王宮の庭園を案内しよう。……ああ、今は枯れているんだった。なら、私の私室へ」
(気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!)
私は背筋が凍る思いだった。
昨日まで「薄汚い」「視界に入れるな」と罵倒していた相手に、見た目が変わっただけでこの態度。
これこそが、この人の本性。
「……ぷっ」
静寂を破ったのは、シルヴィス様の吹き出す音だった。
彼は肩を震わせ、やがて堪えきれないように高らかに笑い声を上げた。
「ははは! 傑作だ! まさかここまで『節穴』だとは!」
「な、何がおかしい!」
「滑稽だから笑っているんだ。……殿下。貴方が今、鼻の下を伸ばして口説いているその女性が、誰だか本当に分からないのか?」
シルヴィス様は立ち上がり、私の肩を抱き寄せた。
「彼女こそがエララ・フォレスター。貴方が『薄汚い灰女』と呼んで捨てた、元婚約者だよ」
「……は?」
カイル様とマリエルの表情が、同時に凍りついた。
鳩が豆鉄砲を食らったような、あるいは幽霊でも見たような顔で、私と公爵様を交互に見る。
「ば、馬鹿な……。嘘をつくな! エララは黒い煤まみれの化け物だぞ! こんな、月の雫のような美女であるはずがない!」
「いいや、彼女だ」
シルヴィス様は私の左手を持ち上げ、カイル様に見せつけるように、その白魚のような指にキスをした。
「彼女の体から出る『灰』は、汚れではない。この国に蔓延る悪意や穢れを、彼女が高潔な魂で焼き尽くした『聖なる残滓』だ。彼女が全てを引き受けてくれていたからこそ、貴方たちは薄汚い本性を隠して生きてこられた」
公爵様の瞳が、鋭い刃となって二人を貫く。
「だが、もう終わりだ。私の愛しい『清浄の聖女』は、二度と貴様らの掃除機にはならない。……さあ、とっとと自分の腐臭まみれの城へ帰って、カビの生えたパンでも齧るがいい」
「な、な、な……ッ!?」
カイル様は顔を真っ赤にし、マリエルは「嘘よ、私の方が可愛いはずよ!」と金切り声を上げる。
けれど、彼らの足元には、自分たちの体から出た黒いシミが、見るも無惨に広がっていた。
私は、隣で堂々と宣言してくれたシルヴィス様を見上げた。
胸の奥の「灰」が、熱く燃えるのを感じた。
それは今までのような苦しい熱さではなく、生まれて初めて感じる、胸のすくような痛快な炎だった。




