第2話
ゴトゴトと車輪が石畳を揺らす振動すら、この空間では不敬に思えた。
アークライト公爵家の馬車の中は、走る美術館だった。
座席には夜空を切り取ったような群青のベルベット。窓枠には細密な銀細工。そして向かいの席には、この世の造形美を煮詰めたようなシルヴィス公爵が、頬杖をついてこちらを見つめている。
(……終わった。破産だわ)
私は、自分の膝の上で固く握りしめた手を見つめた。
緊張で汗ばんだ掌からは、いつも以上に大量の「灰」が溢れ出している。
ベルベットの座席は、私が座った瞬間から白い粉に塗れ、動くたびにザラリ、ザラリと不吉な音を立てていた。
「あの、公爵様……」
「なんだ」
「降ろしてください。今ならまだ、座席のクリーニング代は金貨三枚ほどで済むと思います。これ以上乗っていると、張り替え費用まで請求されることに……」
私が真剣に訴えると、公爵はきょとんと目を丸くし、それから喉を鳴らして笑った。
「金貨三枚? 安いものだな。この光景が見られるなら、馬車の一台や二台、安い薪代わりだ」
彼は長い足を組み替え、うっとりと目を細める。
「見てごらん。君が動くたびに舞うその輝き。まるで車内に天の川が流れているようだ」
(……やっぱり、この方、目が悪いのね)
私は確信した。
彼には、私の薄汚い灰が、何か綺麗なものに見えているらしい。
「眼科の名医を紹介すべきかしら」と私が本気で考えている間に、馬車は速度を緩め、停止した。
「着いたぞ。私の城だ」
扉が開く。エスコートのために差し出された公爵の手を、私は思わず避けた。
しかし、彼は強引に私の手を取り、馬車から引きずり出す。
「おかえりなさいませ、旦那様──ッ!?」
整列していた使用人たちの声が、悲鳴のように裏返った。
無理もない。
純白の制服に身を包んだ数十人の使用人たちの前に、全身灰まみれの女が、彼らの「潔癖なる主君」に手を引かれて現れたのだから。
「旦那様、そ、その者は……! 直ちに消毒班を!」
「焼却炉へ運びますか? それとも塩漬けに?」
執事とメイド長が青ざめた顔で駆け寄ってくる。
私は身を縮めた。そうだ、これが普通の反応だ。
けれど、シルヴィス様は氷点下の視線で彼らを薙ぎ払った。
「騒がしい。……湯を沸かせ。最高級の香油と、肌に優しい天然海綿を用意しろ」
「は? し、しかし……」
「聞こえなかったか? この『聖なる客』をもてなすのだ。一秒でも遅れれば、全員解雇する」
その声の冷徹さに、使用人たちは弾かれたように散っていった。
私は呆然と立ち尽くす。
聖なる客? 私が?
「行くぞ、エララ」
彼は私の名前を呼んだ。いつ教えた覚えもないのに、その響きは甘く、熱を帯びていた。
◇
通された浴室は、私の実家の広間よりも広かった。
床も壁も大理石。中央には湯気を立てる巨大な浴槽。
湯面には薔薇の花びらが浮いているが、私が一歩足を踏み入れるたび、床には灰色の足跡が点々と残っていく。
「あぁ、大理石が……目地に入り込んだら取れないのに」
私が絶望して呟くと、背後からガチャリと鍵をかける音がした。
振り返ると、シルヴィス様が腕まくりをしている。
「……公爵様? メイドの方は?」
「下がらせた」
「へ?」
「他人の手垢がついた手で、君の『雪』に触れられるのは我慢ならない。──私が洗う」
「はい!?」
悲鳴を上げる間もなかった。
彼は躊躇なく私に歩み寄ると、灰でゴワゴワになったドレスの背中の紐を解き──さすがに下着姿になる直前で、大きなバスタオルで私を包み込んだ。
「暴れるな。傷がつく」
彼は私を抱き上げ、そのまま浴槽へと沈めた。
ザブン、と温かい湯が体を包む。
一瞬にして、透明だったお湯が濁ったドブ色に染まった。
「ひっ……ごめんなさい! お湯を替えます、すぐに上がりますから!」
汚い。なんて汚いんだろう。
潔癖症の彼が見たら卒倒するはずだ。私はパニックになり、浴槽の縁に手をかけた。
しかし、その手は、大きく温かい掌によって包み込まれた。
「逃げるなと言っている」
シルヴィス様は浴槽の縁に腰掛け、私の手を握りしめたまま、もう片方の手で海綿を手に取った。
そして、私の腕を、優しく、丁寧に擦り始める。
「……っ」
海綿が肌を滑るたび、長年こびりついていた灰が剥がれ落ちていく。
お湯はどんどん黒くなるのに、彼の表情は真剣そのものだ。まるで、泥の中から古代の秘宝を掘り出す考古学者のように。
「……不思議だ」
彼がぽつりと呟いた。
「君、気づいているか?」
「な、何にですか……」
「私が触れている場所からは、新しい『粉』が出ていない」
言われて、ハッとした。
いつもなら、洗ったそばから毛穴から灰が吹き出し、すぐに元通りになるはずだ。
けれど、彼に強く握られている左手首から先は、どれだけ時間が経っても、透き通るような白さを保っている。
「私の魔力が、君の過剰な放出を抑え込んでいるのかもしようだな」
彼は満足げに頷くと、最後の一拭きをして、私の顔を覗き込んだ。
顔にへばりついていた灰色の仮面が、お湯に溶けて流れ落ちる。
視界がクリアになる。
そして、水鏡に映った自分の顔を見て、私は息を飲んだ。
そこには、月光のような銀髪と、宝石のアイオライトに似た青紫の瞳を持つ、見たこともない少女がいた。
肌は病的なまでに白く、けれど傷一つない。
(これ、私……?)
「……ああ」
シルヴィス様が、濡れた指先で私の頬に触れる。
その瞳は、浴室の湯気よりも熱く揺らめいていた。
「やはり、私の目は間違っていなかった」
彼は私の顎をすくい上げ、至近距離で囁く。
「灰を被った姿は、星空のように神秘的だったが……。磨き上げた中身は、直視すれば目が焼けそうなほど眩しい」
「……公爵様、表現が独特すぎます」
「事実だ。──エララ、覚悟しておけ」
彼は私の濡れた銀髪に口づけを落とした。
「この輝きを一度知ってしまった以上、私はもう二度と、君を手放すつもりはない。たとえ世界中が君を『汚れ』と呼ぼうとも、私だけは君の輝きを知っている」
ドブ色に濁ったお湯の中で、私だけが発光しているかのような錯覚。
心臓が、痛いほど早鐘を打っていた。
それはお湯の熱さのせいなのか、それとも、初めて向けられた「純粋な肯定」のせいなのか。
私は、握られた手を振りほどくことができなかった。
止まっていたはずの灰が、胸の奥でだけ、熱を持ってくすぶっているような気がした。




