第1話
ザラリ、と乾いた音がした。
視線を落とすと、王家の威信をかけた深紅の絨毯の上に、うっすらと「灰色」が積もっている。
それは天井から落ちてきた塵ではない。私の指先から、ドレスの裾から、吐き出す息から溢れ出した、呪いの残滓だ。
(ああ、いけない。この絨毯、毛足が長くて掃除が大変なのに)
私はそっと足を引いた。けれど、動けば動くほど、体からサラサラと灰がこぼれ落ち、赤い床を浸食していく。
まるで、ここだけ世界の色が死滅しているようだった。
「──聞いているのか! エララ・フォレスター!」
鼓膜を叩く怒号に、私は顔を上げた。
王宮の大広間。数百の貴族たちが遠巻きにする中心で、王太子カイル様が顔を真っ赤にして叫んでいる。
その隣には、義妹のマリエル。彼女はハンカチで口元を覆いながら、カイル様の腕にしがみついていた。
「貴様のような薄汚い女との婚約を、今ここで破棄する!」
カイル様の宣言が響き渡る。
周囲からは、待っていましたと言わんばかりの嘲笑と、露骨な嫌悪のさざめきが押し寄せた。
「ゲホッ、……ああ、埃っぽい」
「近くにいるだけで喉がイガイガするわ」
「どうしてあんな『死の灰』を撒き散らす女が、今までこの場にいられたの?」
彼らの視線は、私という人間ではなく、私の周囲半径三メートルに広がる「汚れ」に向けられている。
誰も近づかない。近づけない。
そこは、私だけに許された孤独な生存領域だった。
(婚約破棄、ですか。……まあ、そうでしょうね)
悲しみよりも先に湧き上がったのは、諦めと、妙に冷静な納得だった。
私の体は、生まれつき呪われている。
生きているだけで、焼却炉の底のような「灰」を撒き散らすのだ。
今夜のために新調した紺碧のドレスも、肩や裾に灰が積もり、まるで廃墟に放置されたカーテンのように薄汚れている。
「何か申し開きはあるか! マリエルのドレスを切り裂き、お茶会で泥水を浴びせた罪、認めるな!?」
カイル様が柳眉を逆立てて問いただす。
もちろん、身に覚えはない。ドレスが裂けたのはマリエルが自分で転んだからだし、泥水に見えたのは、私が触れてしまった紅茶が灰で変色しただけのものだ。
けれど、全身が灰色に燻んだ私と、満開の花のように愛らしいマリエル。
誰の目にも、悪役がどちらかは明らかだった。
「……いいえ、殿下。何もございません」
私はカーテシー(膝折礼)をした。
ドレスの裾を持ち上げると、フワリ、と微細な粒子が舞い上がる。
最前列にいた貴族令嬢が、「キャッ」と短い悲鳴を上げて後ずさり、その拍子にグラスを落とした。
ガシャン、という破砕音が、私の社会的死刑の合図のように響く。
「私の存在が、皆様の空気を汚してしまいました。直ちに退室いたします」
「待て! 誰が逃がすと言った!」
カイル様が一歩踏み出す。が、すぐに鼻を押さえて足を止めた。私の周囲に漂う、乾いた焦げ臭さ──何かが燃え尽きた後の、寂しい匂いに気圧されたのだ。
「貴様は国外追放だ。いや、それでは生ぬるい。その薄汚れた体で二度と人前に出られぬよう、北の孤島の焼却場がお似合いだ!」
「まあ、お姉様……かわいそう」
マリエルが潤んだ瞳で私を見る。その瞳の奥に、昏い優越感が揺らめいているのを私は見逃さなかった。
(焼却場……。あそこなら、どれだけ灰が増えても誰にも迷惑をかけないかしら)
私の人生は、常に「残りカス」のような扱いだった。
実の親には不吉だと捨てられ、フォレスター伯爵に拾われた後も、暖炉の灰かきとして扱われてきた。
「お前が歩くと床がザラつく」
その言葉は、私の心臓に焼き付いた呪詛だ。
私が顔を上げ、最後の謝罪を口にしようとした、その時だった。
重厚な扉が、乱暴に開け放たれたのは。
「──遅れたな。随分と粉っぽいが、掃除の途中か?」
広間の気温が、一瞬で五度は下がった気がした。
現れたのは、一人の青年。
夜闇を煮詰めたような漆黒の礼服に、白銀の飾緒。短く刈り揃えられた髪は、月光をそのまま糸にしたような銀色。そして何より目を引くのは、他者を一切寄せ付けない、鋭利な氷柱のような蒼い瞳。
シルヴィス・アークライト公爵。
王国の剣であり、史上最年少で筆頭公爵位に就いた英雄。
そして──極度の「潔癖症」として知られる男。
(うわ、一番来ちゃいけない人が来た)
私は反射的に身を縮めた。
彼は、他人の呼気が混ざった空気すら嫌うほどの潔癖だという。そんな彼が、この粒子舞う空間に入ってきたら?
激怒して、私をその場で斬り捨てるかもしれない。
モーゼの海割りのように、貴族たちが左右に道を開ける。
シルヴィス公爵は、カツ、カツ、と正確なリズムで歩を進めた。その足元には一点の曇りもなく、彼が通った後の空気さえ浄化されたように澄んで見える。
彼はカイル様の前で止まる……かと思いきや、一瞥もくれず素通りした。
そして、真っ直ぐに私の方へ向かってくる。
「あ……」
「こ、公爵! 近づいてはなりません! そいつの灰を吸い込めば肺が腐りますぞ!」
カイル様の制止の声が飛ぶ。
けれど、公爵は止まらない。
私の生存領域である「半径三メートル」の灰の結界を、彼は躊躇なく踏み越えた。磨き上げられた革靴が、私の落とした灰を踏みしめる。ザリ、と微かな音がした。
(来ないで。汚れてしまう。貴方のその美しい靴が、白銀の髪が、私の灰で真っ白に……!)
私は後ずさろうとした。しかし、足がドレスの裾に絡まり、無様に体勢を崩す。
サラサラと流れる砂のように、私の体から灰が溢れ出し──。
倒れる、そう思った瞬間、強靭な腕が私の腰を抱き止めた。
「……ッ!?」
悲鳴すら出なかった。
ふわりと、私の鼻孔をくすぐったのは、高山の頂のような、清冽な空気の匂い。
至近距離にあるシルヴィス公爵の顔は、彫刻のように整いすぎていて、心臓が痛いほど跳ねた。
「汚れます、離して……!」
私がもがくと、私の腕から舞い上がった灰が、公爵の漆黒の礼服に降り注ぐ。肩にも、胸にも、白い粉雪のように積もっていく。
ああ、終わった。処刑だ。
私は目をぎゅっと閉じた。
しかし、聞こえてきたのは罵倒ではなく、深く、陶酔したような吐息だった。
「……なんと」
恐る恐る目を開ける。
シルヴィス公爵は、私の頬──灰色に汚れているはずの頬──に、素手の指を這わせていた。
手袋すらしていない、貴族にあるまじき直接の接触。
彼は、指先に付着した私の「灰」を、まるでダイヤモンドの粉末でも見るかのような、熱っぽい瞳で見つめている。
「……ずっと探していた。これほどの『純白』を持つ者が、まだこの国にいたとは」
「は……?」
「おい、シルヴィス! 気でも狂ったか!? その女はゴミだぞ! ただの燃えカスだ!」
カイル様の叫び声にかき消されることなく、公爵の低い声は私の耳奥に直接響いた。
「燃えカス、か」
公爵はゆっくりとカイル様を振り返る。その瞳は、先ほど私に向けていた熱情とは打って変わり、絶対零度のアイスブルーに凍てついていた。
彼は鼻で笑うと、再び私に向き直り──次の瞬間、信じられない行動に出た。
私の汚れた指先を掴み、その灰まみれの甲に、恭しく唇を落としたのだ。
会場中が、息をのむ音。
静寂。
時が止まったかのような空間で、公爵は口元を吊り上げ、獰猛かつ優美に微笑んだ。
「殿下、貴方の目は硝子玉か、あるいは曇っているようだ」
彼は私を軽々と横抱きに抱え上げる。
灰が彼の顔にも服にも移っているのに、彼はそれを「聖なる加護」のように堂々と纏っていた。
「この国で最も美しい『銀雪の乙女』をゴミ呼ばわりするとは。──これだから、俗物は嫌いだ」
公爵は私を抱いたまま、呆然とする群衆を背に歩き出す。
私は混乱の中、彼の胸に顔を埋めた。
私の目からこぼれた涙が頬の灰を濡らし、一瞬だけ煌めいたような気がした。




