口づけは任務のうちに入りますか?
「恋人のフリ?……ほんと、ろくでもない任務ね」
セラは深くため息をつき、任務書類を指先で軽く叩く。ぴしり、と乾いた音が静かな部屋に響いた。
向かいのレックスは、椅子にふんぞり返り、にやりと笑う。
「いいじゃん。俺とだったら、多少は楽しいかもよ?」
――この軽薄さも任務に含まれているというのなら、今すぐ提出先に投げ返したい。
「“一夜限りの偽装恋人”。貴族の舞踏会に潜入して、裏取引の証拠を掴む……」
セラは眉をひそめて読み上げた。
「誰が考えたの、こんな茶番」
「それが、うちの隊長でさ。俺には逆らえなくてね」
レックスは肩を竦めると、わざとらしく目を細めてみせた。
「ま、俺はセラと踊れるなら文句はないけど?」
「やめて。任務中なんだから、気を引き締めなさい」
2人は騎士団の同期。騎士学校時代から何かと張り合い、ぶつかり合ってきた間柄だった。
融通の利かないセラと、飄々としたレックス。反発し合いながら、幾度となく肩を並べて任務をこなしてきた。それでも、今回ばかりはいつもの任務とは勝手が違う。
夜、舞踏会の城館へ向かう馬車の前。礼服姿のレックスが、先に到着してセラを待っていた。
そして現れた彼女に、一瞬、息を呑む。
深紅のドレス。凛とした立ち姿。見慣れたはずの顔が、今夜に限って別人のように見えた。
「……なによ。どうせ似合ってないって思ってるんでしょう?」
セラはむすっとした表情で視線をそらす。
「まさか」
レックスは静かに手を差し出した。白手袋に包まれた手が、舞踏会の礼装にふさわしく整っている。
「行こう、お姫様」
「……その呼び方、二度とするな」
そう言いながらも、セラは差し出された手を取った。
任務なのだから。これはただの偽装。そう、心が波立つ理由なんてどこにもない。
………はずだった。
◇
馬車の中、2人きりの静寂。窓の外に煌めく城館の明かりが近づくにつれ、セラの鼓動は少しずつ速くなっていく。
ただの任務。ただの演技。ただの――ふり。
「……緊張してる?」
「してない」
「なら、よかった。俺はしてる。君があまりに冷たいから」
「……知ってるなら黙ってて」
ツンっとそっぽを向くセラの横顔に、レックスは苦笑した。
「けど、まあ……舞踏会の夜ってのは、何かが始まりそうな気がして、いいよな」
彼のその言葉が、なぜか胸に引っかかる。セラは答えず、窓の外に目を向けた。月を見上げるふりをしながら。
やがて仮面舞踏会の会場へと、2人を乗せた馬車は静かに滑り込んでいった。
◇
夜の城館は、光と音と香りに満ちていた。高天井にはシャンデリアが幾重にも吊るされ、金と銀に輝く仮面の客たちが、優雅にホールを舞っている。
セラとレックスは、それぞれ仮面をつけてその中へ足を踏み入れた。背筋を伸ばし、腕を組んで、まるで恋人同士であるかのように。
表向きは、ある名家の令嬢とその婚約者。裏では、この舞踏会で行われているという密輸取引の証拠を掴むための潜入捜査。
噂によれば、この城館の主は古美術の収集家を装いながら、禁制品の売買を仲介しているという。
「どう? 似合ってる?」
レックスが小声で囁いた。
「誰のふりをしてるの?」
セラは仮面越しに睨む。
「いや、一応君の“恋人”だからさ。ね?」
その言葉に、セラは一瞬だけまばたきをして、何も言わず視線を逸らした。
ホールの片隅では、装飾過多な衣装の貴族たちがシャンパンを傾け、含みのある笑みを交わしている。使用人に扮した騎士団の仲間が、すでに何人か配置についているのが見えた。合図も滞りなく――計画通りだ。
「君、そろそろ笑って。じゃないと、恋人には見えない」
レックスの声が、ふと耳元に落ちる。
「恋人の仮面はつけても、女の顔までは演じられないの」
「へえ……そのわりにはドレス姿、似合ってるけどな」
彼はさらりと流すように笑った。
彼女は何も返さず、シャンパングラスを受け取ると、揺れる泡に目を落とす。
――あくまで任務。
そう言い聞かせるたび、胸の奥の何かが微かに軋む。
「始まったみたいだ」
彼が目線を送った先、奥の一角で主宰者が姿を現し、私語の絶えなかった場がすっと静まり返る。
獣の皮を模した仮面の男。穏やかな笑顔の裏に何が隠れているのか。
セラはグラスをテーブルに置くと、レックスの腕に力を込める。それが無言の合図になる。彼は小さく頷いた。
いよいよだ。
華やかな音楽が再び流れ出す。それに誘われるように、仮面の客たちが踊り始める。セラとレックスもまた、ゆるやかにホールの中央へと歩き出した。
不意に音楽が変わり、弦の旋律が甘く艶を帯び始めると、仮面の客たちが自然にホール中央へ集まってゆく。舞踏の時間だ。
「さあ、お相手願えますか、お姫様?」
レックスが片手を差し出し、もう片方の手を胸にあててお辞儀をした。仕草のひとつひとつがどこか芝居がかっていて、しかも妙にさまになっているのが腹立たしい。
セラはわずかに睨んだが、やがて観念したようにその手を取った。
「…調子に乗らないで」
「乗ってない。むしろ、今夜いちばん真面目だよ」
足を踏み出す。二人の影が、柔らかな灯りの下、床に交差した。ドレスの裾が空気を切り、彼の黒の礼装が、その隣で優雅に翻る。
誰が見ても絵になる――そう思わせるほどに、二人の息は合っていた。けれどその視線は、互いではなく、ホールの端々へと向けられている。
「見た? あの白髪の老紳士」
レックスが低く囁く。
「ええ。あの主宰者と何か話してたわ。合図みたいなものがあった」
「腰のリング、サファイアが反射してた。印かもしれない」
くるりと回りながら、セラはレックスの視線の先を追う。人の波の向こう、ソファに腰かける若い男が何か小包のようなものを懐に入れるのが見えた。
「……あれも。受け渡し?」
「そうだろうな」
レックスの目が細められる。
ひととおり踊りきると、二人は静かに列を外れた。シャンパンを受け取るふりをして、ホールの奥を伺う。だが、主宰者も、あの白髪の老紳士も、どこかへ姿を消していた。
「裏手か、上の階か……」
セラが呟いた瞬間、レックスはそっとグラスを置いた。
「俺、ちょっと抜けてくる」
「待って、単独行動は――」
「平気。ここは俺に任せて。そろそろかっこいいとこ見せないと」
軽くウィンクすらしながら、彼は仮面を正し、踵を返した。その背に向かってセラは一歩、踏み出しかけて、踏みとどまる。
この場で怪しまれずに行動できるのは、確かにレックスのような男だ。世渡り上手で、人の目を読むのがうまくて、いつもふざけているようで――
肝心なところで、真剣になるから、困る。
「……だからって、勝手に動かないでって、言ったのに」
◇
薄暗い回廊の先、香水とワインの甘い香りに混じって、どこか鉄錆のような匂いが漂っていた。
レックスは静かに扉を押し、足を踏み入れる。薄い帳の向こう、積まれた木箱のひとつに、紙片が貼り付けられていた。
――〈特殊薬品:貴族宴席用〉。
更に、その下には、ぼやけた文字で「刺激性・注意」と記されている。
「これだな」
彼は声を潜め、懐から小型の記録具を取り出し、手早く中身を記録しようとした――その時。
「……お客様、そちらは関係者以外、立ち入り禁止でございますよ」
背後から、低く落ち着いた声。
振り返ると、仮面をつけた従者が、ひとり、静かに立っていた。
気配すらなかったのに、と彼は内心で舌打ちする。だが顔には笑みを浮かべたまま、気軽な口調を崩さない。
「ああ、これは失礼。迷ったみたいで……。いや、ちょっと香水の匂いが気になってね。恋人がそういうの、うるさくてさ」
「……左様でございますか。しかし、この先は主の私室となっております。ご退室願えますか」
彼が答えかけたその瞬間――
「レックス、ここにいたのね」
すらりと現れたドレス姿のセラが、仮面越しに微笑みながらレックスの腕を取った。
「探したじゃない。……やっぱり、また余計なことしてたのね?」
「はは、ごめん。君のこと放っておいて。俺もただじゃ済まないな」
そのまま彼女は彼を軽く引いて歩き出す。従者は一礼しただけで、それ以上は追ってこなかった。
扉が閉まり、音楽が再び聞こえてくる。2人は無言のまま、ホールの光の中へ戻っていく。
そのタイミングで、ダンスの音楽がちょうど終わった。
旋律の余韻が消え、広間が静寂に包まれる。
タイミングが悪すぎた。
仮面の下に視線が集中する。
2人に、注目が集まっていた。
「……戻るタイミング、最悪ね」
セラがぼそりと呟く。
「まあ、でも、演じ切るしかないさ」
そう言って、レックスは自然な動作でセラを抱き寄せた。驚きに目を見開く彼女を、そのまま自分の影にかばうように包み込む。
そして、仮面の下の瞳を見つめながら、そっと唇を重ねた。
一瞬だった。けれど、永遠にも思えるほどの。
静寂が弾け、再び音楽が流れ始める。
客たちの関心は他へ移っていったようだ。
キスはほんの一瞬のことだった。
仮面の下、吐息が触れ合う距離。セラにとっては、ひとつ深呼吸する余裕さえないまま、心に波紋が広がっていた。
「……なに」
ようやく言葉を絞り出したセラは、視線をレックスに向けることができなかった。
「演技のうちさ」
彼はあっさりと言ったが、笑っている。どこか、誤魔化すように。
「……あれが“恋人のふり”なら、少しやりすぎじゃないかしら」
「それは悪かった。つい、気持ちが入っちゃって」
「……は?」
レックスは肩をすくめる。
「役者だからさ。ほら、君の演技もなかなかだったよ。手、震えてたし」
「っ、それは……!」
セラはレックスから一歩離れようとした。
だが彼はその手を離さなかった。
「まだ、演技の途中だろ?」
「……そうね」
セラはようやく、彼の顔を見た。仮面越しの視線。その奥にある熱は、確かに伝わってきた。
――任務、なのよ。
――これはただのふり。恋人の――。
そう何度も自分に言い聞かせながら、セラは手を解かずにいた。心の奥に、小さく、確かに灯った火を抱えたまま。
「……ターゲット、まだ現れてないわね」
セラはわざと話題を切り替えた。
「そうだな。でも、そろそろ動きがある頃だ。俺が――」
「単独行動はしないで」
セラの声が鋭くなる。
「……さっきだって、危なかった。見つかっていたら、ただじゃ済まなかったわ」
「でも、証拠は掴めた」
「だからって、無茶はだめ」
言ってから、セラは自分の言葉に気づいて小さく口をつぐんだ。彼はそんな彼女を見て、少しだけ笑った。
「心配、してくれた?」
「してない」
「……そっか」
そう言いながらも、彼の顔には満足げな笑みが浮かんでいた。
「ほら、音楽が変わった。また一曲、付き合ってよ。任務の続きってことで」
からかうような言葉と共に、彼はまた手を差し出す。彼女はひとつ息をつき、今度は自分からその手を取った。
音楽が重なる。
仮面の下、微かに揺れる感情の波を隠しながら、二人は再び舞踏の輪の中へと溶けていった。
華やかな音楽が再び響く中、主宰者が仮面越しの笑みを浮かべて壇上に姿を現した。その動きに合わせるように、会場の給仕たちが一斉にグラスを配り始める。
「乾杯のご挨拶を。どうぞ、皆さま、今宵の出会いに」
主宰者の口上に続いて、細長いグラスがひとつずつ手渡されていく。
セラの手元には、赤く色づいた果実酒。レックスには、通常の白ワインが差し出された。
「女性には飲みやすい果実酒を」――そう添えた給仕の言葉に、場慣れたはずのレックスが一瞬、眉をひそめる。
――なんだ、この違和感。
彼女への「気遣い」にしては、不自然なほど丁寧すぎる。給仕の目線が、ほんのわずかにセラの胸元へ流れたことも、レックスは見逃さなかった。
グラスを見比べる。
色も香りも違う。
自分のものに異変はない……が、セラの果実酒には妙に甘い匂いが混じっていた。
主宰者の乾杯の声が響く。
「……乾杯」
レックスは一瞬だけセラの手元を見やり、そして迷いなく、自分のグラスと彼女のものを取り替えた。
「レックス?」
問いかけが終わるより早く、彼は果実酒を口に含む。
――甘い。けれど、ただ甘いだけじゃない。
舌の奥で、ぬるりとした違和感が残る。まるで、花の蜜を凝縮したようなねっとりとした甘さが喉に絡みつく。
これは、毒じゃない。だが、もっと厄介な――
「どうしたの? さっきのに何か……」
「いや、大丈夫だ。セラ」
レックスはかすかに顔を歪めつつ、彼女の背に手を当て、そっと引き寄せた。耳元に唇を寄せ、低く囁く。
「……具合いの悪いフリをしろ」
「え?」
戸惑うセラの体が一瞬強張る。その反応を覆い隠すように、レックスの腕が自然に彼女の腰を支えた。
「果実酒に何か仕込まれていた。たぶん、媚薬だ。……一旦下がるぞ」
「……え、ええ」
わずかに顔色を変えたセラは、レックスの肩にもたれるようにして動きを合わせた。その姿にすかさず反応するように、あの従者がどこからともなく現れる。
「お客様。具合いが悪いようでしたら部屋をご用意しております。どうぞ、こちらへ」
有無を言わさぬ言葉とともに、広間の隅の扉が開かれた。
仮面の客たちは、ちらりと二人に視線を投げるが、再び音楽と笑い声の渦に飲み込まれていく。
レックスとセラは、従者に導かれながら、そっとその場を離れていった。背後に響くダンスの調べと、喧騒。そのどれもが、次第に遠ざかっていく。
案内された部屋は、舞踏会の喧騒とは無縁の、静まり返った一室だった。厚いカーテンに閉ざされ、窓の外の月光さえ届かない。仮面を脱いだ2人は、深く息を吐いた。
レックスはドアに背を預けたまま、額に手を当てる。
「……くそ、思ったより強いな……」
最初は冷静だった。
果実酒の異変に気づいた瞬間から、どこか身体の内側でざわめいていた熱。それが、確実に輪郭を帯びて迫ってくる。体温が上がり、呼吸が浅くなり、意識が徐々に外の世界から引き剥がされていく。
レックスの足がよろめいた。
その体を支えるようにしてセラが内鍵をかける。
カチリ。
音がやけに響いた。
鍵の音に、レックスがわずかに顔を上げた。
熱に潤んだ目が、セラを捉える。
「レックス……!」
セラが机の上の水差しに手を伸ばす。布を水に浸し、彼の額に当てようとしたその手を、レックスは力なく払いのけた。
「やめろ……俺に触るな」
「でも」
「……さっき、あの会場の一角…控え室らしき部屋に、“寝台と手錠のついた檻”があった……人身売買の可能性もある……」
セラの喉がひゅっと鳴る。
まさか、媚薬もそのため?
「つまり、このパーティは見せかけで、裏では、もっと酷いことを……」
セラの手が僅かに震える。
レックスは懐から小さな革袋を差し出した。中には、闇取引に使われていた名簿の写しと密輸された薬物の小瓶。
「セラ…これを持って、先に逃げろ」
息も絶え絶えに言いながら、レックスは壁に片腕をつき、自身を支えた。
「俺も、落ち着いたらすぐに……追いかける」
「そんなの……!」
「いいから! 早くいけ!」
怒鳴るような声。
セラの肩がびくりと震えた。
「傍にいたら……俺が、我慢できなくなる……!」
レックスの瞳が、熱に浮かされたように赤く染まっていた。普段の飄々とした男とは違う、激しい、むき出しの感情。それが、セラの奥底に何かを刺し貫いた。
「でも……私を庇ったせいで、あなたが……」
部屋の奥、レックスは呼吸を荒げ、苦しげにソファに倒れ込む。上着を脱ぎ捨て、シャツの襟を引き下げた。頬は火照り、吐く息は浅く荒い。額には玉のような汗が滲み、目には焦点がない。
手袋を外したセラが額に手を当てると、肌はひどく熱を帯びていた。
「レックス……意識はある?」
返事はない。ただ、わずかに眉を顰めて唇を噛む気配だけ。喉の奥で呻くような音が鳴った。
レックスの肌は火照り、触れた指先に焼けるような熱が伝わる。
「レックス?」
声をかけた瞬間、腕を引かれた。
引き寄せられた身体がソファに沈む。その上から、レックスの体温が覆いかぶさってくる。
「……っ、待って、レックス……?」
瞳が合った。
熱に潤んだその目は、普段の軽薄さの欠片もなかった。ただ、切羽詰まった欲と、抗いがたい衝動だけが宿っている。
「セラ……おまえが……目の前にいるのに……」
苦しげに吐かれる声。
次の瞬間、唇が塞がれた。
さっきのキスとは違う。
深く、激しく、何度も、まるで、水を求めるように貪ってくる。
「あっ、……んっ……!」
セラは彼を押しとどめようとしたが、震える手に力が入らない。レックスの熱が、身体の芯まで伝わって、思考を溶かしていく。
キスの合間、レックスの手がセラの髪をほどき、首筋へ滑る。
「こんな、抑えきれない……っ。俺、おまえに、ずっと――」
呟くたび、唇が肌をなぞる。耳の下、鎖骨のあたりへと。セラの喉がひくりと鳴る。
「レックス、やめ、て……正気に……戻って……」
懇願に、彼の動きが一瞬止まった。
深く息を吸い、彼はそのままセラの肩に顔を埋めた。肩を震わせ、まるで自分を戒めるように、強く強く歯を食いしばって。
「……ごめん、セラ……違う、こんなつもりじゃなかった……」
苦しげな声が、服の布越しに染みた。
セラは、震える彼の背中にそっと手を這わせた。
「…分かった。2人でここを突破するわ」
「…セラ?」
「貴方を置いていけないもの」
瞳に決意を込めたセラが強く頷く。
状況からして、ドアの外に見張りがいる可能性が高い。狙われているのはセラだ。
「ひとまず騎士団へ戻るわよ。解毒薬の入手と証拠の報告を」
彼女の腕がレックスの体を支えた。
内鍵をカチリと開けるのが合図。
可能な限り腰を落としてドアを開ける、と同時に廊下に向かって一直線に走り出した。
セラがレックスの手を引く。
「走って!」
セラはドレスを捲ると内腿に隠し持っていた小型ナイフをシュッと投げ捨て、追手を足止める。
何事か騒ぎを聞きつけた男女が広間から顔を出すが、使用人に紛れていた同じ騎士団の仲間が応戦してくれた。
正面の玄関から外に出た2人は無事に馬車に辿り着く。
「レックス、早く乗って!」
「セラ、後ろ!」
セラは押し込めるように彼を馬車に乗せると、後ろから追ってきた敵の顔面めがけて華麗な蹴りをお見舞いする。
彼女の真っ赤なドレスの裾がふわりと舞った。
「危ねってば!」
慌ててレックスがセラの手首を掴んで引き寄せ、代わりに自分が前に出ると、怯んだ敵にとどめの一撃をかまし、ドアをガチャリと閉めた。
やがて2人を乗せて走り出した馬車は夜の闇に消えるようにスピードを上げていった。
◇
「…騒ぎになっちゃったわね」
馬車の後ろを確認しつつ、セラは一息つく。
レックスはまだ微熱を残していた。だが、意識ははっきりしており、すでに服を整えて馬車に腰を下ろしている。
「……悪かったな。おまえにまで、こんな姿……」
額にうっすら汗を浮かべながら、俯いて言うレックスを、セラはじっと見つめた。まだ胸の奥がざわついている。さっきのキスが、熱が、忘れられない。
「いまは任務の優先を。あなたの責任じゃないわ」
冷静を装ったその声に、レックスがほんの少し目を伏せた。
月はとっくに沈み、夜の闇だけが窓の外に広がっていた。
◇
騎士団本部。
任務は一応、完了。証拠も、記録も、無事に持ち帰った。解毒薬はすぐに処方され、レックスも元に戻った。
次の日。
セラが報告書に目を通していた執務室の扉が、ノックもなく開いた。
「よっ。騎士様はまだお仕事中?」
飄々と入ってきたのはレックスだった。いつもの調子だが、どこか様子がおかしい。笑っているのに、目が笑っていない。
「……ノックぐらいしなさいよ」
「だって、待ってたら逃げられそうだったから」
「逃げる理由がないけど」
「そう?俺にはあるけどね、いっぱい」
ふざけたように肩をすくめてから、レックスは急に真顔になる。
「なあ、セラ」
レックスがぽつりと口を開く。
「……あのキス、怒ってないのか?」
瞬間、セラは動きを止めると、再び報告書に目を通す――フリをした。
顔を上げずに答える。
「……任務だったわよね?」
その言葉に、レックスが眉を上げる。
「セラ。俺、たぶん……いや、間違いなく、おまえのことが好きだ」
空気が止まった。
セラは一瞬、冗談だと思って笑おうとして、その目を見てやめた。
「……媚薬のせいじゃないの?」
「もちろん、あれで理性はボロボロだったよ。だけど、あんな状態でも“おまえが欲しい”って思ったのは、薬のせいじゃない。ずっと、隠してただけだ。喧嘩してる方が、楽だったから」
そう言ってレックスは、椅子の背に肘をかけ、少し照れくさそうに笑った。
「ほんとはさ、任務に入る前から言いたかったんだよ。でも、真面目なセラのことだから『職務中にふざけないで』とか言われそうでさ。いや、今も言いそうな顔してるけど」
セラは唇を引き結んだまま、何も言わない。
「……返事は急がなくていいよ。わかってる。俺のこと、信じられないかもしれないし」
そこでレックスは一瞬だけ目を伏せる。
けれどすぐに、またいつもの軽い調子に戻った。
「でも、伝えないと気が済まなかった。こう見えて、俺、結構一途なんだよ?信じられないだろ?」
「……信じないとは言ってない」
セラが小さく呟くと、レックスは目を見開き、それから嬉しそうに目を細めた。
「おっ?もしや、脈あり?」
「調子に乗らないで。今は報告書の続きがあるの」
「はーいはーい。じゃ、退散するよ」
くるりと背を向けたリオが、ドアに手をかけてふと振り返る。
「……あの夜、俺があんなに必死だったの、お前のこと、守りたかった。今も、それだけは変わらないよ」
そう言って彼は去っていった。
残されたセラは、報告書を前にして動けなかった。彼の言葉が、胸の奥で何度も、何度も、響いていた。