初嵐と案山子
長い雨がようやく降り終えて、日差しが雨の後を残らず乾かし、しばらく経った頃。そよ風が通り過ぎた田畑は、一面が鮮やかな緑色に覆われています。
若々しさに溢れた畑達から遠く離れた場所に、一つ、色あせた畑がありました。
ミミズはいなくなって久しく、土はとっくに栄養をなくしてボロボロで、先の雨もただ土を流すばかりで、岩ばかりの周りの荒地と、遠目には何も違いがありませんでした。
そんな畑もどきの中央には、一本の案山子が立っています。
この案山子ときたら、大層な捻くれ者で、おまけに酷い寂しがり屋で、その癖呆れるほどにめんどくさがりでした。
捻くれ者なので、こんな育つ見込みのない畑に立ち尽くし、寂しがり屋なので、どこかに行きたいと思っても、めんどくさがりなので、どこにも行きたくはありませんでした。
だから案山子はいつもいつも、何も変わらない空を眺めて、たまに遠くを飛ぶ鳥や花びらを見て、時折風に乗ってくるどこか遠くの音を聴いて、その日その日を凌いでいました。
ある日、いつもよりやや強い風が、案山子の体を揺らしました。案山子はいつもより畑に深く脚を刺しながら、
「今日は馬鹿に風が強いな」
と、そんなふうに思っていました。程なくして、遠くの空から一羽の鴉が飛んできます。鴉はどこかを目指して羽ばたいていましたが、畑に突っ立っている案山子を認めると、スーッと降りて来ました。
「こんにちは。なんだ、お前さんは初嵐を見に行かないのかい?」
「初嵐? 何だいそりゃあ」
「初嵐を知らないのかい!」
鴉は呆れたように大声をあげて、
「暑さが増した頃、秋を連れに大きな風が吹くんだよ。みんなでそれに乗って空を揺蕩ったり、風に煽られる葉や花びらを見るのはとても楽しいんだ。みんなその話で持ちきりだぜ?」
「飛べないのに空に浮いても怖いだけだし、風に煽られる葉や花びらなら、ここでも何回も見ているよ」
「みんなで、と言っただろう? 一人で星を見上げるのと、友達と星を眺めるのとでは、味わいが全然違うんだ。そういうことだよ」
「僕に友人なんていないよ」
「名前を知っている奴だけが友人じゃないさ。ほら、お前もこいよ。どうせ行く先は一緒だ。俺が連れて行ってやるぞ」
案山子は面倒臭いと思いましたが、鴉が勝手に連れて行くのなら、と、渋々首を縦に振りました。
鴉の爪が案山子の肩に食い込み、案山子を力強く引き抜きます。案山子は文句を言いましたが、鴉は知らん顔。
そのまま一羽と一本で空を飛んでいると、ふと風に吹かれて、一枚のトタン板が飛んできました。
「やぁ鴉くん。君も初嵐を見に行くのかい?」
「応とも。君もそうか。あぁ、紹介するよ、彼は荒畑の案山子だ。トタン板君は会ったことは無いだろう」
「初めまして、案山子さん。ふむ、なかなか素敵な召物だね。……そうだ、一ついいものがある」
トタン板がくるりと空中で身を翻すと、綺麗な紺色の着物をどこかから引っ張り出して来ました。
「どうだい。手に入れたはいいものの、私の身体には合わなくてね。案山子さんならとても似合うと思うんだ」
「こいつはいい。お前さん、随分と見窄らしい格好だろう。それを着て、少しはマシになるといい」
案山子は自分の格好を見窄らしいと言った鴉と、自分の姿を変えようとしてくるトタン板に嫌な気分になりましたが、今鴉に爪を離されては堪らないと、大人しく首を縦に振りました。
「うん、似合う似合う。よければその着物はあげるよ。大事にしておくれ」
「君はいつもそうやって易々と自分のものをあげるね。そろそろ私にも何かくれてもいいんじゃないか?」
「馬鹿を言うな。こう言うのは一期一会さ。出会いの記念として渡すからこそ意味があるんだよ」
艶やかな紺色の着物を纏って、トタン板と鴉に連れられながら、案山子は双方の会話を聴いていました。鴉の爪が自分の肩に食い込んでも、声を出さないようにして、二人の邪魔をしないように、じっと身を縮こまらせて、黙って聴いていました。
一羽と一本と一枚が暫く飛んでいると、下から彼らを呼ぶ声が聞こえます。見ると、一匹の山猫が並走していました。
「おぉ、山猫じゃないか。声が小さくて全然聞こえなかったよ」
「そりゃあすまんね。鴉の小さな耳には俺の声は拾いきれなかったか。ん? なんだ、見覚えのないのがいるな」
「荒畑の案山子さんだよ。これからみんなで初嵐を見に行くんだ。君もどうせそうだろう?」
トタン板が口を挟むと、山猫は愉快そうに笑って、
「どうせとはなんだ。そりゃあ確かに、私はいつも見物に行っているがね。しかし案山子さん。私は君を見たことがない。ひょっとして初めて見に行くのかい?」
「まぁね」
「そうか! それはいいことだ。なら一つ私が、初嵐の見方というのを教えてやろう……」
そうして、走り出した一匹に合わせて、一羽と一本と一枚は、先ほどよりもゆっくりと空を舞いました。
「まず初嵐というのは、この季節に吹く強い風のことでね、みんなそれを見にあちこちからやってくるのさ」
山猫はとても口が回り、案山子に丁寧に初嵐のことや、見にくる他のもの達のことを教えてくれて、案山子も最初はうんうん、と億劫ながらも返事をしていましたが、
「みんな気のいいやつさ。黙ってみてるだけじゃもったいない。自分から声をかけに行って、友達を作りに行くといい。友人はいいぞぉ、君の心を豊かにする。特に今はもう絶好の機会さ。何せ今日を逃したら、次の初嵐はずっと先なんだからね。しかもやってくる場所もいつもと違うときたものだ……」
聞いた覚えのある説明ばかりで、おまけに自分のことをそこはかとなく馬鹿にしているようにも聞こえたので、途中から返事をするのも面倒になり、しまいには山猫の話を聞き流しながら、案山子の上で楽しそうに話している鴉とトタン板の方をチラチラとみていました。
下から聴こえる山猫の音を無視して、だんだんと強くなっていく風に着物が飛んでいってしまわぬよう、袖を両手でしっかり掴みながら、案山子は、早く広場に着けばいいのに、と、心の中でぼやきました。
一羽と一本と一枚は、風に揺られながら、大きな広場へと降り立ちました。そこには燕の群れや、投棄ゴミの兄弟、栗鼠の家族と、様々な者達が集まっていました。上を見上げれば、物干しハンガーに繋がれた靴下たちが、ハンガーが引っかかっている木の枝を揺すりながら、まだかまだか、と声をあげています。
地面に降ろされた案山子は、それらから隠れるように鴉の後ろに立ちました。
皆の騒ぎ声が大きくなった頃、広場に緩やかな風が吹きます。遠くから花びらや緑の葉が大きな渦を巻いて近づいてきました。
「おぉ、来たぞ!」
鴉が声を上げるのと同時に、渦が広場に降り立つと、凄まじい音がみんなを包み込みます。靴下達はハンガーから離れ、花びらと共に風に乗り、キャッキャと声をあげて笑っています。
鴉は他の鳥達と一緒に風をうまく使い、いつもより羽ばたくことなく、いつもより高いところへとぐんぐん登っていきます。トタン板を見ると、彼は風の届かない木陰に移動し、鴉や靴下たちの騒ぎを楽しそうに聞いていました。
案山子がどこへ行こうかとオロオロしていると、
「たーすーけーてー!」
耳元で声がして振り返ると、鳥たちの真似をしようとしたムササビがバランスを崩し、初嵐に攫われそうになっていました。案山子は思わずその首根っこを掴むと、飛ばされないよう自分の足を地面に深く突き刺しました。
「あ、なにそれ楽しそう!」
「僕も僕も!」
そんなムササビと案山子を見てなにを思ったのか、栗鼠やカエルといった小動物達が案山子に捕まると、まるで風にたなびく旗になったかのように身を浮かせてはしゃぎ始めます。彼らの楽しそうな笑い声や、鳥達がぶつかり合っては上げる小さな悲鳴や、調子に乗りすぎて目を回した靴下達がヒラヒラと地面に落ちる姿や、そんな彼らを見たトタン板のケラケラという笑い声を聞いて。
案山子は、いつもと違う気持ちになって、小動物達がしがみついている紺色の着物の袖を、より強く握り締めました。初嵐が案山子の体を大きく揺らすたび、小動物達が楽しそうに悲鳴を上げて。
その楽しそうな悲鳴には程なくして、案山子の声も混ざりましたが、気づくものはいませんでした。
風が緩やかになり、宙を舞っていた様々が、地面へと降り立っていきます。案山子にしがみついていた小動物達も、大きく深呼吸をしながら離れていきました。
みんなが頬を赤くして、興奮冷めやらぬ様子で飛び跳ねています。案山子も彼らに混ざり、まだ空を見上げていました。
「すごかったね!」
「鳥になったみたいだった!」
「あんな高くまで飛んだのは初めてだよ!」
みんなが興奮を語り合うのを聴きながら、案山子も何かを言おうと、何度か口を開きます。
「案山子さんもありがとう! すごく楽しかった!」
「うん! 案山子さんがしっかり地面に刺さってくれたから、すごく安心できたよ!」
けれど、カエル達にそう言われると、案山子は開きかけた口を閉じて、恥ずかしそうに身を縮こまらせてしまいました。
カエル達がまた何かを言おうとすると、
「どうだい案山子さん。凄かっただろう? 僕もここまですごい初嵐は初めてだよ。他の連中も驚いている。どうだろう、僕はこれから池で水浴びをしながら、今日のことをみんなと語り合おうと思うんだ。良ければ一緒に行かないかい?」
山猫が、カエル達と案山子の間に割り込んで言いました。
「あぁ、案山子さんのお友達かい? じゃあ邪魔をしちゃいけないね」
カエル達はそう言って小さくお辞儀をすると、小動物達で集まって去って行きます。
小動物のみならず、余韻に浸っていた参加者達は、やがてポツポツと、その場を後にします。案山子が周りを見回すと、鴉もトタン板も、他の人達とお話をしていました。
「案山子さん、聞いているかい?」
案山子は、山猫が親切で声をかけてくれていることに気付いていました。けれど捻くれ者だったので、
「いや、僕はもう少しここに残っているよ」
彼の親切に応えてやる気になれませんでした。
山猫が去った後、トタン板の所へ行くと、彼もまた、何処かへ移動するところのようでした。
「やぁ、案山子さん。これから靴下君達と一緒に、夏を追って南に行こうと思うんだ。君も来るかい?」
案山子は、靴下達の乱暴な言葉を思い出します。小さく首を横に振って、トタン板と別れました。
鴉の所へも行こうとしましたが、広場にはもう彼の姿はありませんでした。
向こうを見ると、小動物達が移動を始める所です。案山子は暫くそれを眺めていましたが、彼らは案山子に気付かず、遠くへ行ってしまいました。
広場には、案山子だけが残っていました。
案山子は寂しがり屋だったので、何処かに行きたいと思いましたが。
「そうだ、次に初嵐が来たら、またみんなここに集まるだろう。その時に備えて待っていてやろう」
面倒くさがりだったので、何処にも行けませんでした。
「今度はもっとたくさんの小さな奴らを支えられるように、深く深く、足を刺しておかないとな」
そう言って、案山子は広場の中心に深く脚を刺すと、そのまま、空を見上げます。
そうして、次の初嵐が来るのを待ちました。
秋が来て、冬が過ぎて、春を抜けて、夏が終わって。
何度も巡る季節の中で、紺色の着物がボロボロになっても、馬鹿みたいに待ち続けていました。
いつまでも、いつまでも。
そんなだから、案山子はいつまでたってもひとりぼっちなのです。