3話:キミを守ると誓った日
晴れ渡る空がリリーを迎え、暖かな風が頬を撫でた。市場が近く、甘い焼き菓子や、何かの肉を揚げた香ばしい匂いが広がり食欲がそそられる。一体いつぶりの外出か、リリーは数えることすらも忘れていた。庭で見る景色ばかりで飽き飽きしていた風景が、今は周り中どこを見渡しても新鮮で、自然とリリーの胸は高鳴っていく。キョロキョロとあちこちを見る落ち着きのない仕草に、ベネディクトが軽くリリーへ注意をしてからその場を離れる。しかしリリーの好奇心はベネディクトの言葉を薄れさせていた。少しばかりの罪悪感がベネディクトの胸をチクチクと刺している。リリーが外に出ることが出来なかったのは、ベネディクトからの許可がなかなか出なかったためだ。場所や時間、時期などに拘り、ベネディクトの許可を取るのはリリーにとって難易度の高いクエストだった。それもベネディクトがリリーを思うが故であり、またそれを理解しているリリー自身、外出の願いのためにベネディクトを困らせてしまうのは本意ではなかった。リリーにとって、外出はベネディクトよりも優先される事項ではない。そんなリリーを無理矢理外に連れ出す人間も、ベネディクトへ過保護にもほどがある、なんて指摘をする人間も、あの屋敷には存在しない。
リリーの後ろをついて回るケイレブも、物珍し気にあたりを見まわしていた。
ケイレブの報告により、ベネディクトはリリーの外出計画を立てることとなった。騎士団がつき、周囲を警戒している様子は物々しく、けれど街は浮足立っているような空気があった。今まで久しく隠されていた娘がようやくまた街に出てくるというのだから仕方もない。ベネディクトもそれは承知している。だからこそ、同年代のメイドたちを着飾らせ、誰がリリーなのか分からないように画策した。木を隠すなら森の中といった具合だ。おかげで常にリリーの隣にいることは敵わないベネディクトだが、その視界の端でリリーを捉えるよう動いていた。
「まさかお兄様から外出に誘ってもらえるなんて思わなかったわ」
「ご主人様、お声が……」
「ああ、ひそひそ話さないとね」
くすくすと楽しそうに笑うリリーを見て、ケイレブは愛おしそうに頷いた。リリーはケイレブの腕を引き、その耳を自身の口元へ近付けるよう示す。「お兄様へのプレゼントを選びたいの」と、とびきりの秘密を打ち明けるよう呟く少女の姿に、ケイレブはまた、より一層顔を綻ばせた。先日壊れてしまった魔道具の指輪は、ベネディクトが修理した後に、またリリーへ贈る手筈となっている。そのお返しになるものをリリーは探していた。ベネディクトの隙をついて、二人はこっそりと雑貨店へ足を運ぶ。
「キャル?これ何かしら」
「……手配書のようですね」
裏道に入ったところで、レンガの壁に貼られた紙が二人の視界に入る。描かれていたのはライオンの獣人だ。内容を確認すると、どうやら最近このあたりを騒がしている暴漢のようだった。ライオンは獣人の中でも力の特に強い種族だ。記載によれば、獣人を連れている人間が狙われているという。ふとリリーがケイレブの顔を見上げると、強い嫌悪感を以てその手配書を見つめているようだった。
「キャル?」
「ご主人様、危ないですよ。こいつ、獣人を連れている人間を襲うようですから。ベネディクト様のお近くへ戻りましょう」
「ええ、でもまだプレゼントを選んでいないわ」
「……ではあの雑貨店を見たら、すぐに戻りましょう」
「ありがとう、キャル」
突然、リリーの足元の影が伸びる。疑問に思い後ろを振り返ると、そこには見知らぬ男が立っていた。獣人だ。短い耳がピンと立っている。見知らぬ男ではあるが、リリーには見覚えがあった。それは手配書の――
「ご主人様!」
声を上げてケイレブがその獣人へと攻撃魔法を向ける。雷が一本の矢のように獣人の頭上から振り落とされた。獣人は軽く一歩下がると、その場には焦げた跡が残った。「きゃあ!」と悲鳴を上げて咄嗟に逃げ出したリリーを、ケイレブが背後へ隠すように庇う。
獣人は焦げ跡のついた地面を見つめたかと思えば、ケイレブを嘲笑うように短く息を吐いた。獣人の体格は圧倒されるほど良く、ケイレブの数倍硬く分厚い筋肉に覆われている。その図体に見合わぬ速度でケイレブとの間合いを詰めた。ケイレブが驚くよりも先に、獣人の拳がその鼻先に届く。流れ落ちる血がケイレブの足元を濡らした。
「キャル!」
即座にケイレブは気付く。その獣人はケイレブよりも圧倒的な強者であると。簡単な攻撃魔法を使うことはできるが、当てられなければ意味がない。けれど、先ほどの雷の音と、消えたリリーの存在によって、ベネディクトがすぐに騎士団を連れて、あるいは一人であってもこの場に迅速に駆け寄るであろうことも予測できた。それまでの時間、獣人の意識をリリーから逸らし続けることが自身の仕事である。そう、ケイレブは判断した。
ケイレブの放つ雷を、獣人は一歩下がって避ける。雷鳴にかき消されたケイレブの声を、真後ろにいたリリーだけがその耳に入れた。
「ご主人様、どうにか隙を作るので、とにかく逃げてください」
「何を言ってるの、逃げるのはキャルの方でしょう。だってこんなに血が……」
傷ついたケイレブを、どうにか助けなければ。リリーはそればかりを考えていた。彼を置いて逃げる選択は、リリーには出来なかった。たとえそれが現実的な選択であっても、リリーには選ぶことが出来ない。
そんなリリーの言葉を、ケイレブは理解出来ずにいた。意図を測りかねて、リリーの表情をちらりと窺い見る。その僅かな隙を獣人は見逃さない。一瞬の間に、ケイレブの目の前に再び筋肉質なその身体が現れる。
「弱いな」
「グ、ッ」
ケイレブが軽々と蹴り飛ばされていく。「キャル!」と叫びながらリリーはケイレブの元へと走った。獣人は、痛みで蹲るケイレブの姿をつまらなそうに見つめている。
「ご、ご主人、様……ダメです、はやく、にげないと」
「何言ってるの、できない、キャル……きゃあ!」
獣人がリリーの髪を掴んで持ち上げた。白銀の髪がハラハラと抜け落ちていく。リリーは痛みに顔を歪めた。
「離せ!」
痛みに喘ぎながらも、ケイレブは立ち上がり獣人へと向かう。獣人は、その手を勢いよくリリーの髪から離すと、そのままの勢いでケイレブの喉を力強くつかみ上げた。
「弱いくせに、なんでこの女守ってるんだ?お前」
「ッ、グ、ゥ……」
「もうやめて、なんでもするからキャルを傷付けないで。お願い」
「なんでも、ねえ」
見下すような視線を、リリーは受け止める。
「貴方の目的は私の方なんじゃないの?キャルは関係ないでしょう」
「やめろ!ご主人様に手を出したら殺す」
「はっ。殺されそうになってる奴がよく吠えるな。おい女」
「ご主人様、ダメだ、早く逃げて」
ケイレブの言葉を、リリーは聞かない。じっと獣人を見つめて要求に耳を傾ける。獣人もまた、ケイレブに一瞥もくれることなくリリーへとその鋭い視線を向けた。
「こいつの従属を解け」
「ない」
「は?解けねぇなら」
「ないの!この子に、従属の印は、無いの……もう外してあるから」
「はあ?じゃあお前は何してんだ」
ケイレブの首を掴む手が僅かに緩む。ケイレブの手が獣人の腕を強く握るが、獣人には痛みすらないようだ。
「そんな印があろうがなかろうが、ご主人様はご主人様だ」
「…………阿呆か?」
怪訝な顔をした獣人の後ろに、ベネディクトと騎士たちの姿が見える。たちまち獣人は拘束され、地面に伏せられた。背中にはベネディクトの足が乗り、苦しそうに顔を歪めていたが、それ以上にベネディクトの鬼のような形相にリリーは驚きが隠せない。初めて見る兄のその表情が、リリーの目に焼き付いた。
ベネディクトの剣の切っ先が獣人の首へ向かうのを見て、ようやくリリーは足を動かすことができた。咄嗟に獣人の頭を抱えるようにして伏せる。ベネディクトだけでなく、ケイレブや他の騎士たちもリリーの行動に理解が及ばず、沈黙と突き刺す視線がリリーを囲んだ。
「……リリー、何をしている」
「彼に、聞きたいことがあります。今はどうか、止めてください」
ベネディクトはひとつ溜息を吐き、リリーの言葉にざわめく周囲を一瞥して鎮めた。
「リリー。わかった。お前のワガママに付き合ってやる」
剣を納めたベネディクトが、魔法で獣人を拘束する。「それで、どうする」と尋ねるベネディクトに、リリーは自室への案内を求めた。当然ベネディクトはにべも無く却下し、拘束した獣人は客間に招くこととなった。
◆◇◆◇◆◇
帰宅し、一先ず自室で身を整える。項垂れるケイレブが床に座るので、リリーが腕をとってソファーへ座らせようと試みるが、ケイレブは立ち上がるだけでソファーへ移動することはなかった。リリーに腕を引かれたまま、ケイレブがぐっと頭を下げる。
「ごめんなさい、守れなくて、俺………ごめ、ごめんなさい」
「謝らないで。キャルは十分守ってくれたでしょ」
冷たいままのケイレブの頬を、リリーの温かな手が撫でる。ケイレブの震える手が、リリーの手に重なった。
「違う、俺、だめだった……全然……ご主人様を、守れなくて」
「落ち着いて。怪我だってしてない」
「嘘です。血のにおいがします。手も、足も」
「少し擦りむいただけ」
「髪だって、あいつ、あいつに……! 」
「ちょっと引っ張られただけだから。とにかく、大丈夫だから顔をあげて」
ゆっくりと上げられたケイレブの顔は、恐ろしいほどに表情を失っていた。冷たい頬、血の気の引いた顔。リリーは目を見張る。リリーの想像よりもずっと、ケイレブはその責を重く受け止めていた。
「殺してください……あいつと一緒に」
「殺すわけ無いでしょ!何を言ってるの、やめて。貴方もあの人も殺さない」
「ご主人様……どうして」
「とにかく、そんなに思いつめないで。もう私のこと守ってくれないの?いやになった?」
「そんな、そんなこと……!俺、俺、強くなるので……ご主人様が、許してくれるなら、どうか捨てないでください……」
「当たり前でしょう。ほら、泣かないの」
ポロポロと溢れて止まらなくなってしまったケイレブの涙を、リリーが拭う。肌では拭いきれないそれを、肌触りの良いハンカチを取り出して滲ませる。じわじわと広がるハンカチのシミが視界に入り、ケイレブの瞳からさらに大粒の涙が零れ落ちていった。
「うう……ご主人、さまぁ」
「もう。泣き虫なんだから」
そうしてようやく落ち着いたケイレブを引きつれ、獣人が拘束されている客間へと向かう。扉の前には騎士が立ち、リリーの姿が見えると敬礼をして迎えた。二言三言会話をして、その重々しい扉を騎士が開く。中には、ベネディクトの魔法で作られた首枷と足枷に拘束されている獣人がいた。
「はは、いい面してんな」
ケイレブの表情を見た獣人がくつくつと笑う。涙で腫らし、赤くなったケイレブの瞳が屈辱で細められる。殺意を込めた視線が獣人へ向かった。
「ご主人様、コイツ殺して良いですか」
「駄目に決まってるでしょ」
「殺せるようになってから言えよ」
「……いつか絶対殺してやる」
飄々とした態度の獣人に、ケイレブの視線はより一層鋭くなる。憎々し気に睨むケイレブを視界から追いやり、獣人はリリーへと向き直った。
「で?なんだよ、最後の挨拶でもするか?」
「最後?」
「どうせ殺されるんだろ」
「……殺さないわよ。もう、どうしてキャルも貴方も殺す殺すって物騒なの」
「ご主人様、コイツ手配されていましたよね。警備兵に渡したら良いんです」
今にも噛みつきそうなケイレブを、リリーが制する。納得していない様子のケイレブは犬歯を覗かせて威嚇を続けたが、その甲斐なく獣人は涼しい顔で無視を決め込んでいた。
「ねえ、貴方どうしてそんなことしていたの?」
「なんだって良いだろ」
「わかった。教えてくれないならずっとこのままよ」
「は?」
「貴方は嫌いな人間と一緒に過ごすの。このままずっと。私、貴方が質問に答えるまでこの部屋から出ないわ」
「……お前は馬鹿か?ガキか?」
「お前、ご主人様になんて口を」
「なんだよ、お前にはこの女が何言ってるのか理解できるのか?」
「……ご、ご主人様……」
言い返せないのか、ケイレブは弱気な顔でリリーを見つめる。
「なによ、キャルまで」
「い、いえ、そんなつもりでは……」
ひとつ大きな溜息をついた獣人が、上半身に身につけた衣服を脱ぎだした。慌ててケイレブがリリーの前に立ち、それを隠す。筋骨隆々としたその肉体に、ケイレブが僅かに妬ましさを込めた視線を送った。
隠されたリリーは、好奇心のままケイレブを避けて覗こうとするが、「ご主人様!」とケイレブに止められてしまう。
「別になんもしねぇよ、勘違いするな阿呆犬。おい、見てみろ女」
「駄目です……あ、ご主人様!」
ケイレブの腕をくぐり抜け、リリーは獣人を見やる。そこには、大小さまざまな傷に覆われた背中があった。深く刻まれた傷は、ひとつやふたつではない。
「全部人間にやられた。見世物にされて、殴られて、時には刺されることも鞭を打たれることもあった」
初めて見る他人の深い傷に、リリーは息を飲む。
「この傷の多くは、子供の頃につけられた。子供でも俺らは人間の成人程度の力はあるからな、奴隷としてよぅく活用してもらったよ。それにガキは扱いやすい。痛めつけりゃあよく言うことも聞く。そして、身体がデカくなったら用済みだ。捨てられて、行き場もねぇ」
獣人は脱いだ衣服を再び肩に掛けて着直していく。服の擦れる音だけが部屋に響いた。
「俺だけじゃねえ。獣人ならよくある話だ。コイツは良いよ、お優しいお貴族様に拾ってもらって、媚びへつらって、よえーくせに護衛ごっこしてんだ。……俺は別に、この世を変えてぇとか大層なこと思っちゃいねぇが……」
「獣人を救いたかったのでしょう」
「……聞こえがいいな。ただ獣人を扱う人間どもをぶん殴ってただけだが」
「そうですよ。ご主人様。こんなやつに同情してやる必要はありません」
「てめぇ……」
またもや一触即発な二人を、リリーが制して言葉を続ける。
「でも、それならキャルを傷付ける必要はなかったでしょう?それだけはダメよ」
「コイツが邪魔しなけりゃ殴る必要もなかったけどな。そもそもお前は俺に殺されそうになったわけだが。コイツをどうこう言ってる場合かよ」
「殺したいのが私だったなら私だけにしたらいいの。関係ない人は巻き込んじゃダメよ」
「……お前の主人はちっと頭がおかしいな」
「…………ご主人様を悪く言うな」
二人がそう言い合う中、リリーは部屋の窓を開け広げた。カーテンが風に舞う。
「貴方の身体能力なら簡単に降りられるでしょう」
「何してんだ?」
「ご主人様?」
疑問を浮かべる二人に、リリーはいたずらをする子供のように笑った。
「拘束魔法を解いたらすぐに兄たちがこの部屋に入ってくるはず」
「……は?」
「準備が出来たら言って。私は兄の魔法ならすぐに解くことができるから」
「ご主人様、コイツは重罪人ですよ」
「何のつもりだ?俺はお前やこの獣人なんか簡単に殺せるんだぞ」
「…… キャル、私といて幸せ?」
「それは、もちろん……ご主人様と出会えてから毎日が幸せですが……?」
少し照れたリリーが咳払いをして、獣人へ向き直る。苦々しい顔をした獣人が、リリーとケイレブのやりとりを見つめていた。
「だそうだけど」
「鬱陶しいなお前ら。……俺が逃げたら他の人間が死ぬんだぞ」
「……それは困るけど。でも苦しんでいる獣人だっているでしょう」
「お前なぁ」
「私、見かけによらず結構悪い人なの……まあでも、そうね、命を奪うのは最終手段にしてもらえると嬉しいけど」
獣人は窓の外を見つめ、小さく口を開く。
「あんたといたら、幸せになれんのかな」
「え?」
リリーには、獣人の呟いた言葉は聞き取れなかった。言い直すつもりのない獣人は、そんなリリーを横目に首と足の枷を指さす。
「いや。もういい。早く解け」
「危険です、ご主人様」
「じゃあその時はキャルが守って」
「っ、ご主人様……!」
大きな光と共に獣人の拘束が外れる。「走って!」リリーが叫ぶと同時に、獣人は窓へ駆け寄り、そのまま暗闇の奥へ消えていった。
自身の魔法が解除されたことを察知し、すぐにベネディクトが客間へと駆けこんできた。扉の外にいた騎士も何事かと室内へ入り、無言で様子を眺めている。窓を閉めるリリーに、ベネディクトが声を掛けた。
「……おい。リリー、何をしたんだ」
「お兄様、私ケーキが食べたい」
おどけたリリーに、再びベネディクトは溜息を吐いた。ベネディクトは察しが悪い男ではない。長い沈黙の後、リリーに手を伸ばす。
「…………はあ。今日はとんだワガママ娘だな。おいお前ら、今のことは他言無用。いいな。情報が漏れたらお前ら全員の首を切る。既に昼の出来事については緘口令を敷いているが、後ほど念を押す。今の出来事についても同様だ」
部屋に入った騎士たちが、敬礼を返す。
「ありがとう、お兄様」
「……ほら。ケーキ食うんだろ」
「うん。行こう、キャル 」
「……はい、ご主人様」
小さな娘に振り回された男二人が、娘の後ろから肩を落として歩いていく。機嫌のよさそうなリリーの姿と疲れた顔をしたベネディクトの顔を見た使用人たちは、何事かと噂話に花を咲かせることになった。
◆◇◆◇◆◇
後日、ベネディクトの自室に呼び出されたリリーは、キャルを部屋に置いて一人ベネディクトの元へ向かった。リリーに理由は分からないが、そう指示があったためだ。また外出の誘いだろうか。などと浮かれていたリリーは、部屋に入るや否や頓狂な声をあげることになった。
「よう、ご主人」
「……は?」
招かれたベネディクトの部屋には、あの日逃がしたライオンの獣人が堂々たる姿でソファーに腰かけていた。
「たく。ワガママ娘のワガママもほどほどにしてくれ」
「お兄様?これは一体どういう……」
戸惑うリリーに、獣人がへらへらと話し出した。
「おにーさまがよぉ、取引持ちかけて来たんだよ」
「貴族への暴行は重罪だ。被害を増やすわけにはいかない。俺はお前と違って善人なんでな」
手の甲で頬杖を付き、煩わしそうにベネディクトが話す。苦労を掛けてしまったことに引け目を感じたリリーは、決まりが悪い様子で視線を逸らした。
「で、俺はここでご主人のお守りして監視されていれば、殺されず罪にも問われないそうだ」
「は?」
リリーは驚きのあまり声を漏らしてしまう。
「父上も了承済みだ。俺たち家族、それからあの犬以外には常に変装魔法でライオンだとは分からないようにしてある。これは父上が施してくれた。父上の魔力であれば父上自身が死んでも暫くは続く。その頃には時効だな」
「…………善人のすることではないと思うけど」
「まあ、善悪はともかく。利益で動くやつは扱いやすくて好きだぞ俺は」
ベネディクトは獣人の方をちらりと見て、意味深な笑みを浮かべた。リリーには分からないけれど、この獣人とベネディクトには通じる何かがあるようだ。
――それにしても、犯罪をもみ消すなんてこと、兄や父であれば簡単にできてしまうのだろうか。
リリーは自身の行いを棚に上げて、少しだけ家族を恐ろしく思った。
「それじゃあ、今日からよろしくね、えっと……」
「 レオだ。よろしくな、ご主人?」
「よろしく、 レオ」
挨拶を済ませ、リリーはレオを連れてケイレブの待つ自室に戻った。驚きのあまりしばらく停止していたケイレブへゆっくりと事情を説明し、あまり相性が良くないように見える二人が親睦を深められるようにとお茶に誘った。けれども、それは逆効果だったかもしれない。拗ねたようにふいと視線を外すケイレブに、リリーは苦笑いした。分かりやすく垂れたケイレブの耳を、リリーが撫でて立ち上がらせる。
「ご機嫌ななめね」
「……ご主人様は、獣人がお好きなのですか」
「好きも嫌いもないけど」
「…………ご主人様の犬は俺だけでよいのでは」
「確かに犬はあなただけよ」
「……ご主人様ぁ……」
「ごめんごめん。なかよくしてあげて」
主人の願いに嫌とは言えないケイレブが、尻尾を苛立たしげに振った。そんなケイレブを見てニヤついたレオが楽しそうに口を開く。
「よーう、犬っころ。仲良くしてくれや、先輩?」
「いつか絶対殺す……」
本気で威嚇するケイレブに、レオは大きな笑い声をあげる。楽しそうでなによりだと、リリーはひとり穏やかにお茶を口に流した。
◆◇◆◇◆◇
リリーがベネディクトの元を訪ねる数時間前。
ベネディクトの部屋は、カーテンが締め切られ、昼時だというのにランプの光を灯していた。室内には侍女も執事もおらず、ベネディクトとレオの二人きりだ。
「仲間の情報を売るんだな」
そう小さく笑いながら長い足を組み、ワインを一口流し込む。レオはそんなベネディクトを見つめ、寂しげに瞼を閉じた。
「……あいつらはちっと、暴走してるんだ。世界を変えるなんて、できやしないのに」
「そうか。まあなんでもいい。情報は使わせてもらう。悪いようにはしない」
「頼む。あいつら、悪い奴じゃないんだ。どうかうまくやってくれ」
そう言って恭しくレオが頭を下げた。
「ライオンが頭を下げるとはな」
「……頼む」
「いいだろう。その代わり、俺の妹を傷つけたらその時は覚悟しておけ。分かっているな」
「ああ。承知している」
空いているグラスに、ワインを注ぎ、レオに向ける。驚いた様子のレオは、しかしそのグラスを手に取った。「契約成立だ」そう言ってグラスを傾けるベネディクトに続き、レオも一口それを舐めとる。飲みなれない品の良い香りのそれは、レオの胸をじっと焼いた。