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1話:キミが俺の主人になってくれた日

 リリー・エドワーズは困惑した。父であるロバートが、仰々しい椅子に背を預け、長い脚を組んで座っている。普段関わりの薄い父でも、毎年誕生日だけは直接プレゼントを贈ってくれていた。珍しく父に呼ばれたのも、今日が自身の誕生日であるためだろうと思っていた。確かにその推察は当たっていたけれど、まさか、この、父の傍に立ち控えている男がプレゼントだなんて、リリーでなくとも予想など付かなかっただろう。


 立っているのがやっとであるように見えるほど、身体は傷だらけで衣服もところどころ破れてみすぼらしい。それでいて傷などないかのように背を正している。そして、首には見るだけで重たそうな首輪が取り付けられていた。奴隷だ。しかしそれ以上に彼を奴隷たらしめる要素は、その頭に生えた二つの耳の存在だ。三角のふわふわしたブラウンの耳と、それ以上にふわふわした尻尾。容姿も優れており、傷だらけの身体でもその魅力は消えていない。美しいブラウンの髪は、耳と同様にふわふわとしている。彼のような犬型の獣人は、奴隷の中でも従順でとりわけ人気の高い種族だ。父が娘に与える奴隷としては上等なものであった。


「ええと、おとう、さま……?その、この人は?」


 父は娘の世間知らずな言動に瞳を細める。奴隷である獣人に対して「この人」などと称するのは、不適当だった。けれど父はそれを指摘することもせず、軽く溜息をつくだけだ。ひくりとリリーの肩が震える。父からの評価が下がったであろうことを悟り、けれどその原因はわからない。そうして慌てるリリーの様子に気付くことなく、父は言葉を続けた。


「好きに使え。お前ももう16だ。成人の女であれば奴隷のひとつくらいは必要になってくるだろう。装飾も好きにすると良い」


 それは愛しい娘への誕生日プレゼントというよりは、父親が娘に贈るべき物を義務的に渡すパフォーマンスであった。

 リリーは窺うように獣人の表情を見つめる。獣人は傷だらけの顔で、穏やかな笑顔を浮かべていた。どうして良いのか分からず、そっと獣人から目を逸らす。自身と獣人との距離が離れていることが、リリーにとって僅かな救いだった。


「どうした、気に入らないか。別の物に変えようか」

「いえ、そんなことは。ありがとうございます」


 そうして礼をし、逃げるように部屋を出ようとしたところ、父に呼び止められてハッとする。贈り物とされた獣人が、所在なさ気に立っていた。どう接するべきか戸惑いながらも「おいで」と声を掛ければ、嬉しそうにリリーの元へ駆けてくる。近付いたことでリリーは気付く。獣人の目が珍しい金の色をしていることを。物珍しさに見入っていると、父から「気が付いたか。それは金の目だ」と告げられた。獣人の瞳が、僅かに揺れる。けれどリリーにはその意味が分からなかった。




 獣人を連れて部屋に戻ると、気が抜けたのか深く息を吐いた。リリーが父と会う時は、いつだって息が詰まる思いをする。昔は衣服のネックラインが狭いせいではないかとドレスを調節してもらったりしていたが、当然そんなことは関係なく、ただただ父との会話が苦手なだけだった。リリーには、父が何を考えているのか分からない。普段、接する機会なんてないのだ。侯爵として忙しいらしい父とは、同じ屋敷にいても会う時間は少ない。そもそも父は不要な会話を嫌う人だ。リリーは父が自分に関心があるとは思えなかった。少ない機会に父から嫌われることがないよう、会うたびに気を張り詰めているのだから、苦手意識が消えるわけもない。


 成人した貴族女性は、複数の奴隷を所有するのが一般的だ。力の弱い女性には特に防犯の意味で推奨されていることもあり、また最近では一種の装飾品のような扱いをすることもある。男性貴族にも奴隷を持つ者が多い。リリーも、獣人という種が奴隷として存在しており、その所有が推奨されていることは知識として知っていた。けれど、自分が所有することになるとは想像していなかった。リリーはほとんど外出することが無く、文字通りの箱入り娘だったからだ。防犯のために奴隷を所有する必要が、リリーには感じられなかった。何より、兄や使用人たちの周りで仕える獣人が、人間のように扱われない場面を見ると言いようのない不安感に襲われてしまう。


 無言で背後に佇む獣人の顔を見る。彼は先ほどと変わらず、金の瞳でリリーを見つめて微笑んでいる。兄たちのように彼を人間ではないものとして扱うことが、リリーにはできる気がしなかった。そこにいるのは、自分と変わらぬ人間にしか見えなかった。


 父からの誕生日プレゼントはいつもリリーの欲しいものではなかった。その年頃の少女に必要な物や人気のある物を贈っていたようだけれど、世間知らずなリリーにはそれらの価値がよく分からない。それらはリリーへのプレゼントではなく、娘という存在に対するプレゼントだ。リリーは一度だって、父から欲しい物を聞かれたことは無かった。


 獣人の首元にある重い首輪は、従属の証である。リリーの名前が刻印してあり、リリー以外にそれを解ける者はいない。主人の言いつけを守り、そうでない場合には痛みを与える、そういった器具だ。

 年齢は同じくらいだろうか。背丈が頭ひとつ分よりも高い彼に、ちょいちょいと手招きをして屈んでもらう。そうするとリリーでも簡単に首輪に手が届くようになった。刻まれた自分の名前に触れる。父が自分の名前の刻印を付けてくれたという事実に、少しだけ浮かれた。名前すら忘れられているのではないかと、そう思うことも一度や二度ではなかった。


「外れて」


 そう願うだけで、簡単に首輪を外すことができた。彼の顔を見る。色の抜けた顔がそこにあった。呆然とした彼の顔を見て、リリーは少しだけ戸惑う。自身の知識の無さを自覚しているリリーは、また知らずに悪い事をしてしまっただろうかと不安になる。


「俺、いらない……ですか」

「え?」


 彼からポツリと出てきた言葉は、リリーの予想外のものだった。理解することに少し時間を費やす。


「いらないとかじゃなくて。これ、邪魔かなと思ったんだけど」


 彼はリリーの手元にある外された首輪を見つめた。先ほどまで微笑んでいた彼から一切の表情が抜け落ちている。


「これがあると、貴方は自由じゃないでしょう?貴方の好きにしてほしいの。ここに居たくなければ、好きなところに行くと良い。身体が痛むなら、医者に診てもらって治ってからでも良いし」

「明日には全て治ってます。大丈夫です、俺、なんでもやります」

「えっと……」


 泣きそうな、悲痛な顔をしていた。自身の言葉が彼を傷つけてしまったことを理解しながらも、なぜ彼は解放されたのに苦しそうな顔をするのか、リリーには理解ができなかった。


「俺、ご主人様に、何かしてしまいましたか?二度としません。教えて、ください」

「違う、違うから」

「では、なぜ」

「だって……従属なんてそんなの、嫌じゃないの?」

「……?俺、侯爵様には感謝しています。ご主人様がご主人様で良かったとも思っています。ええと、それから……」

「いえ、もういいわ。一先ず、今日は休んで。傷はすぐ治るにしても今日は薬くらい塗っておいた方が良いかもしれない。医者を呼んでおくわ。貴方の部屋も用意するから、少しだけここで休んでいて」


 侍女に彼の部屋の用意をお願いすると「獣人の部屋、ですか?」と驚いた様子で聞き返される。リリーはそれに頷き、さらに獣人に必要なものも一通り揃えるよう頼んだ。リリーには獣人に何が必要なのか、その知識がない。故に、侍女をはじめとした使用人たちに一任することにした。リリーの期待を込めた瞳に見つめられ、侍女はゆっくりと頷く。そして彼を一瞥し、静かにその場を立ち去った。


 リリーは彼に向き直り、正解を探るように考えてから口を開く。


「ねえ、貴方、名前は?」

「ケイレブです」

「ケイレブね。リリーよ、よろしく」

「よろしくお願いします、ご主人様」



 それから部屋の用意が済むまで、たいそう気まずい時間を過ごした。リリーはそもそも家族や使用人以外との関わりが薄く、突然会った相手とする最適な会話が分からない。片やケイレブは『ここで待つ』という指示を守るだけでそれ以上の言動をすることはなかった。それに、先程のように意図せずケイレブを傷つけてしまったらと考えれば考えるほど、リリーの口は固く閉ざされていく。

 侍女が部屋を案内しに来てくれたとき、リリーはようやく安堵の溜息をついた。今日は気を揉んでばかりだ。


 侍女に連れられてケイレブの部屋へ向かう最中、偶然現れた兄のベネディクトがリリーに声を掛けた。笑顔を浮かべるベネディクトを、彼の使用人とリリーの侍女がじっと見つめる。


「リリー?なんだそれは」

「お兄様。今日はお仕事ないの?」

「お前の誕生日以上に重要な予定なんてない。それで?」


 彼の整った顔にこうして笑顔が浮かぶのは、リリーの前だけである。その豹変ぶりに慣れた使用人たちも、ついついその表情を確認してしまう癖ができていた。


 日付が変わると同時に、部屋に大量のプレゼントと共に現れて祝福してくれたというのに、まだなにか重要なことがあるのだろうか。リリーは疑問に思ったが、それを告げることはしなかった。


「ケイレブです。使用人?でしょうか」

「使用人?獣人じゃないか。ああ、今年はそれだったのか。リリーが成人だから?そんなもの必要無いのにな」

「ええ、まぁ……そうですね」


 リリーの表情が陰るのを見たベネディクトは、考えるようにその形の良い顎に手を添えた。そして何かを思いついたのか、その大きな手でリリーの頭をそっと撫でる。


「不要ならこちらで処分しよう」

「処分?いえ、処分なんてしません」

「そうか?でもその犬がいるからと言って勝手な外出は駄目だぞ。必要な時は必ず俺に言え。俺がなんだって用意するし、行きたい場所があるのなら騎士団を連れて共に行こう」

「いえ特に欲しい物も行きたい場所もないので必要ありません」


 しゅんとケイレブの耳と尻尾が垂れた。すっと目を細めたベネディクトの視線を追い、リリーもケイレブの浮かない様子に気が付く。


「あ、違うの。ケイレブが必要無いということではないからね」


 慌ててケイレブの誤解を解こうとするリリーを見て、ベネディクトは僅かに眉間に皺を寄せる。しかしリリーの視線がベネディクトに戻るころには、すっかりといつも通りの綺麗な笑顔に戻っていた。


「まあいい。それから、獣人はよく躾けなければいけない。難しければ俺がやってる」

「大丈夫です」

「……そうか。万が一何かあればその指輪を使え」

「わかりました」


 ベネディクトは、召喚魔法のかかった指輪をリリーに着けさせている。召喚されるのはベネディクト自身だ。召喚を願う、あるいはこの指輪に強い刺激を与えることで発動する。

 リリーの指が、そっとその指輪をなぞった。ベネディクトはくすりと笑ってリリーの頭を撫でる。


「何もなくても呼んで良いんだからな」

「もう、お兄様はお忙しいでしょう」

「リリーより優先することなど何もない……とはいえ、父上と会って疲れているだろうから、リリーはゆっくり休むと良い」

「……そうします」


 ベネディクトと別れると、再び沈黙が流れる。気まずさを感じながらも、リリーはケイレブのために用意された部屋へ到着した。侍女が扉を開け、リリーを通す。部屋の前で立ち止まったままのケイレブへリリーが声を掛け、ようやくケイレブはその部屋へ足を踏み入れた。簡素な部屋ではあるが、必要なものは揃っている。「ありがとう」とリリーが侍女へ声を掛ければ、侍女は礼をして部屋から出ていく。


「どうぞ、この部屋を使ってね」


 キョロキョロとあたりを見まわしたケイレブは、落ち着かなそうにしている。言葉を選ぶように考え込んでいたケイレブは、おずおずとリリーに尋ねた。


「ここで俺は何をすれば良いのでしょうか?」

「好きにしていいのよ」

「ええと」

「それじゃあ、ゆっくり過ごして」

「ご主人様……」

「これからのことは、明日また考えましょう。とりあえず今日は身体を休めて」

「……はい」


 そうしてリリーは部屋を出た。それから呼んでいた医者に獣人の怪我について話し、必要な薬を処方してほしいと頼めば、初めは驚かれたものの仕方がないという風にリリーの願いを聞き入れてくれた。リリーが幼い頃から頼りにしている医者だ。リリーが転んで怪我をしたり、何か兄に黙っていて欲しい事があったりした時には、いつだってリリーの味方をしてくれる。医者が獣人の診療を受けてくれたことに安心し、リリーもまた部屋でゆっくり休むことにした。

 自分が獣人の主人になるだなんて、リリーにはまだ実感が湧かなかった。ふわふわとした不思議な心地の中、リリーの疲れた瞼が閉じていく。

 ベネディクトがくれたぬいぐるみをきゅうと抱き締めた。ケイレブの耳や尻尾も、このぬいぐるみのようにふわふわとして触り心地が良いのだろうか。そんなことを夢想しているうちに、リリーは眠りに落ちていった。




◆◇◆◇◆◇




「ご主人様、お目覚めでしょうか」


 扉の外から、爽やかな声がする。リリーの髪を整えている侍女が顔を顰めた。未だ聞き慣れないその声はケイレブのものだ。昨日彼が来てから、はじめて迎える朝。一晩経ってもリリーには実感が湧かない。ケイレブに対して、客人のような感覚が抜けなかった。


「おはようケイレブ。今支度中だから待っていて」

「お手伝いしましょうか」

「大丈夫よ」

「……はい」


 随分と自身の仕事について気にしている様子だ。リリーは侍女を見つめる。ケイレブは、昨日部屋に案内されてからも自身の仕事について不安そうにしていた。ケイレブに何か仕事をさせて欲しいと侍女に頼むと、「他の使用人たちと相談してみます」と、そう話した。

 リリーはさらにケイレブの食事について尋ねるが「お嬢様、お言葉ですが私は獣人に仕えているわけではありません」と侍女は珍しく不快感を顕にした。普段と違う侍女の様子にリリーは驚く。穏やかな笑顔を浮かべて、リリーの細かな気分の変化にすら寄り添い、甲斐甲斐しく世話をしてくれる侍女だ。獣人に世話を焼くというのは、それだけ屈辱的なことなのだろう。

 それでも侍女は、”他の使用人と同じように”仕事をさせてほしいというリリーの願いを、足蹴にすることはなかった。

 リリーには侍女の複雑な心境を理解することはできなかったが、感情を押し殺して主人の願いを叶えようとする侍女の姿に感謝を示す。侍女は小さく息をついて「お嬢様のためですから」と話し、リリーの髪を整えた。


 支度が終わり、侍女が部屋から出ていく。


「きゃあ!」


 侍女が甲高い悲鳴をあげた。リリーが扉を覗くと、そこにはケイレブが申し訳なさそうな顔をして佇んでいた。ケイレブはずっと扉の前で待っていたらしい。


「お嬢様の部屋の前でなにをしているの」


 侍女は不審感を隠さずにケイレブへ詰め寄るが、リリーがそれを制す。納得のいかない顔をした侍女は、視線だけでケイレブを詰った。


「私が待っていてと言ったから待ってくれたの。そうでしょう?」

「はい」

「私はケイレブと話があるから、貴方は戻って良いわ。仕事の件はよろしくね」

「承知しました……お嬢様、くれぐれもお気を付けくださいね」


 渋々といった顔で、侍女はその場を立ち去る。心配そうに何度も振り返る様子を見て、リリーは微笑みを返した。


「待たせてごめんなさい」

「いいえ!とんでもありません。ご主人様が謝らないでください」

「それで、どうしたの?」

「俺は、何をしたら良いでしょうか」


 不安そうな瞳を揺らして、リリーへ尋ねる。リリーは笑顔で、先ほどの侍女への依頼について話した。きっとケイレブが安心できるだろうと。


「さっきの子に頼んだの。貴方の仕事、皆で話し合ってくれるみたいだから。きっと後で何か割り振られるわ」

「……そう、ですか。ありがとうございます」


 そう感謝の言葉を話すケイレブの表情は、暗いままだった。リリーは戸惑いながらも、ケイレブの表情を変えられる話題を探す。


「それにしても、本当に綺麗に治ったのね。良かった」

「お薬をいただいたおかげです。俺なんかに、すみません」

「怪我したらみんな使ってるんだから気にしないで」


 ようやくケイレブの表情に色が差した。医者を呼んだ判断は良かったのだと、リリーはほっと胸をなでおろす。それからいくつか取り留めのない話をしているうちに、侍女が再び現れた。ケイレブへ頼む仕事内容が決まったためだ。「頑張ってね」とリリーがケイレブに声を掛ければ、ケイレブは嬉しそうに返事をして微笑んだ。




◆◇◆◇◆◇




 それから数日の間、リリーは以前と変わりのない生活をしていた。ケイレブの様子を侍女に尋ねれば、「よくやっています」と返ってくる。自分が行けば、ケイレブは気を使ってしまうだろうと仕事中に訪ねることはしなかった。気立ても良くて器用そうなケイレブなら、仕事もそつなくこなせるだろう、そうリリーは安心していた。

 夜分、ベッドに横になり眠りに落ちかけていたころ、扉の外からケイレブの声がした。


「どうしたの?」


 扉を開けると、そこには浮かない顔をしたケイレブがいた。元気がない。何があったのか。戸惑うリリーに、ケイレブは親に縋る幼子のような表情で話す。


「その、俺……子守唄とか得意、なので。ご主人様……ご迷惑でしょうか」

「……わざわざそのために?」

「は、はい」

「そんなことしなくて良いから。早く寝なさい。……それに、私もう16だから、子守唄は大丈夫よ」


 リリーがくすりと笑うと、ケイレブは額まで顔を赤く染めた。せわしなく動くふわふわした耳に、リリーはより一層笑顔になってしまう。


「す、すみません、おれ、その、出過ぎた真似を」

「怒ってないわ。謝らないで」

「はい……ええと、その、失礼します」

「おやすみ、よく眠ってね」




◆◇◆◇◆◇




 書庫へ向かう廊下で、ピンと立った犬耳が見えた。こちらに気付かずふらふらと揺れている尻尾に、リリーの表情が緩んだ。未だに接し方に迷うリリーは声を掛けることを躊躇うが、先日リリーのもとへ訪れたケイレブの姿を思い出し、思い切って彼の名を呼ぶことにした。


「ケイレブ」

「っ、ご主人、様」


 振り返ったケイレブは、顔を真っ赤にして苦しそうに呼吸をしていた。体調が悪いのだろうか。リリーは慌てて駆け寄りケイレブの顔を覗き込む。


「体調が悪いの?医者を呼ぶわ……って、貴方、その目どうしたの?」


 ケイレブの金色に輝いていた瞳が、緑色に変わっている。瞳の色が変わる病気でもあるのだろうか。驚いて瞳を覗くと、ケイレブは慌ててその顔を手で覆い隠した。


「すっ!すみ、すみません……忘れ、ていて……あっ、その……違っ、違うんです、ご主人様を、騙そうとしたわけでは」


 動転した様子のケイレブに、リリーも戸惑った。とにかく落ち着かせなければと、その広い背中を撫でる。


「どうしたのケイレブ。分かったから、すこし落ち着いて話しましょう」


 リリーの手が背中に触れると、ケイレブの肩が大きく上下した。リリーが触れたことでまたケイレブを驚かせてしまったようで、耳や尻尾が逆立っている。咄嗟にその手をケイレブの背中から離した。


「驚かせてごめんなさい。とりあえず座りましょう」


 近くにある中庭のベンチを案内する。向かい合わせで座ると少しだけ落ち着いたようだ。顔色や呼吸は少し改善されたが、それでもケイレブは俯き元気のない様子のままだった。

 ぽつりと、ケイレブが罪を吐露するように呟く。


「……ご主人様、緑では、駄目、ですよね」

「何の話?」

「瞳の、色です」

「体調の関係?」

「……いえ、これが、俺の本来の姿です。すみません……」

「そうなのね。なぜ謝るの?何色でも構わないわ」

「本当に……?」

「ええ。むしろなぜわざわざ金色にしていたの?」

「それは……その方が、良いと……聞かされていたので」

「ここに来る前の話かしら」

「はい。侯爵様も、金色の珍しさに惹かれてくださったので……」


 獣人の中には、より良い雇い主に買われるために容姿や能力、種族などを偽る者も少なくない。ケイレブもその一人だった。金の瞳は貴重であり、特に獣人に金の瞳が現れた場合高値で取引される。瞳の色などは少ない魔力で簡単に偽ることが可能だが、魔力のない獣人には偽ることができないとされているからだ。

 リリーには想像もつかないが、だからこそ、リリーにとっては目の色などの要素がなんであれ、ケイレブに対する印象が変わることもない。


「そうなの。私は貴方の瞳が何色でも良いから」

「…………そう、ですよね」


 しかしリリーの言葉は、その思い通りに伝わることはなかった。

 表情を暗くしたケイレブに、リリーは父を思い起こす。父を騙した形になってしまったことを、ケイレブは気にしているのだろうと。


「お父様には隠した方が良いのかしら。多分お父様も私が良ければ気にしないでしょうけど、貴方が隠したいなら何も言わないわ。まあそもそも私がお父様とお話できる機会なんてないでしょうけどね。そこはあまり期待しないで」

「……俺は、ご主人様に従いますから。どのようにでも」

「わかった。うまくやっておくから。それよりケイレブ、体調が悪いんでしょう」


 先ほどよりも、ケイレブの息が少し荒くなってきた。顔も赤みが増している。


「医者を呼びましょう」

「いえ、大丈夫ですから。……少し、熱っぽいだけなので、また寝たら明日には良くなっています」

「……せめて、部屋に戻って休んでいましょう。侍女には私が話すから、今日は休んでなさい」

「すみません」


 頑なに拒む様子から、リリーも常備薬の解熱剤を渡すことで妥協した。ケイレブが部屋に戻るのを見送ったところで、リリーは心配のため息をついた。




◆◇◆◇◆◇




 日中のケイレブの様子が気になったリリーは、再びケイレブの部屋に訪れていた。コツンと扉を叩くが、物音はしない。声を掛けてもケイレブの反応はなかった。寝ているのかもしれないと思ったが、通りがかった使用人からケイレブが少し前に部屋から出て行ったことを伝えられた。少し休んで元気になったのだろうか。ケイレブがいたらリリーの部屋に来るよう言伝をして、部屋に戻ることにした。




 しばらくして、扉の外から、ケイレブの声がした。リリーは安心しながら扉を開くが、ケイレブの顔色は相変わらずだ。どうして部屋で休んでいなかったのか、一体そんな体調で何をしていたのか。そう質問攻めにしたい気持ちを堪える。


「ケイレブ、まだ体調が悪いみたいね」

「……はぁ……大丈夫、です」

「大丈夫な顔をしてないから。とにかく入って。話は後でしましょう。休んでいて。やっぱり医者を呼ぶから」


 息が荒い。リリーが腕を引くと、ケイレブは大人しく部屋に入った。水差しに入れていた水をグラス汲んで、サイドテーブルに置く。扉の前でフラつきながら立っているケイレブの元へ戻り、小さな身体で支えながらベッドへ向かう。


「っ、ご、ご主人様、駄目です……ここ、ご主人様の、匂いが、強くて」

「へ?におうかしら……」


 くらりとケイレブの身体が傾く。咄嗟に支えるが、リリーに比べて重く大きなケイレブの身体を支えきれず、一緒に倒れてしまう。リリーの整えられた白銀の髪が、床に流れ広がる。朦朧としたケイレブの手は、リリーの髪を避けること無く床についた。髪を強く引かれる痛みに、リリーは強く目を瞑る。しかしケイレブから聞こえてくる苦しげな息遣いに、痛みを堪えリリーはケイレブへ腕を伸ばした。


「はぁ……ご主人、さま……」

「ケイレブ?ケイレブ、そんなに具合が悪かったなんて。ごめんなさい、すぐに医者、をっ!」


 リリーは、今まで体験したことのない感覚がした。首筋に、熱くてぬるっとした、不思議な感覚。ケイレブに首筋を舐められていることに、少し遅れて気が付いた。


「ちょっと!ケイレブ!何してるの!」

「ご主人様」


 ケイレブにリリーの声が届いていない。虚ろな瞳。力の差は歴然だ。リリーがケイレブの身体を押したところで、ケイレブの身体は動くことはない。ケイレブの下で藻掻くも、そこから這い出ることすら叶わなかった。

 リリーは咄嗟に指輪を床に強く押し付けた。眩い光とともに、ベネディクトの姿がそこに現れる。ベネディクトのくれた魔道具。何かがあったらこの指輪に刺激を与えれば兄が助けに来てくれる。リリーの大事なお守りだ。


「リリー!」


 光と共に現れたベネディクトが勢い良くケイレブの腹部を蹴り上げる。声にならぬ悲鳴をあげてケイレブは転がり、壁へ追突した。


「ケ、ケイレブ!」

「クソ犬が」


 声を荒げたベネディクトの足元で、リリーはベネディクトに縋った。


「お兄様!ケイレブ、ケイレブは具合が悪いの!」

「発情してるだけだ」

「発情……?」

「クソ犬、薬は」


 ケイレブからの返答はない。どうやら気絶をしてしまったらしい。苛立たし気にベネディクトは白銀の髪を掻き上げた。


「チッ……」


 物音に気付いた侍女や使用人たちが集まる。ベネディクトは彼らに指示を出し、薬と水を受け取った。ベネディクトは水の入ったグラスを逆さにし、ケイレブの顔へ掛ける。


「ゲホッ、ゲホッ!」

「お、お兄様!やめて!」

「飲め、犬」


 薬を口に押し込み、鼻を掴んで無理矢理水ごと流し込んだ。


「ン、グッ」


 ケイレブは苦しそうな音を出しながら、懸命に喉を上下に動かす。


「ガハッ、ゲホ、ゲホッ」


 咳き込むケイレブだが、吐き戻すことはしていない。薬は無事飲めたらしい。


「お兄様?お兄様……これは、一体」

「リリー、怪我は?」

「ありません……」


 サラリとリリーの髪を優しく掴む。その首筋に赤い跡が見え、ベネディクトは忌々しげに眉を潜めた。


「傷がある」

「え?ああ……確かに、首に……」

「首だけか?」

「は、はい」

「はぁ……あの小汚い犬め、信用ならないな」


 ベネディクトはリリーの首に指を当てる。ほんのりと暖かくなった感覚で、リリーはベネディクトが治癒魔法を使ったことを悟った。小さな傷でも大量の魔力が消費されるが、ベネディクトの顔色には全く変化がない。


「念の為医者を呼ぶからな」

「そ、そうです!ケイレブをお医者さんに診てもらわないと!」

「言っただろ、あれはただの発情だ」

「発情、とは、どのようなものですか?病気ではないのですか?お医者さんは必要ないのですか?」


 ベネディクトは鋭い瞳で周囲を睨みつけながら、あたりを見回す。使用人たちは怯えた様子で目を逸らした。


「誰も教えていないのか」


 その場が静まり返る。誰も声を出せなかった。


「ならばこの犬の薬はどうしていたんだ。誰も管理していないのか」

「え?薬?管理?」


 慌てるリリーに、侍女が口を開く。


「薬は与えていました。無くなっていたようです。管理を徹底できておらず……申し訳ありません」

「謝って済むと思っているのか」

「お兄様、ごめんなさい。私、何も……分からないからとすべて任せて、いえ、押し付けていました……」

「……そうだ」


 ベネディクトがリリーを睨む。優しい兄の厳しさに、リリーの身体が竦んだ。けれどもその正しさも理解している。ベネディクトは、いつだってリリーに正しいことを教えてくれていた。


「リリー、言っただろ。ちゃんと躾けろと」

「はい」

「お前が獣人を躾けることに否定的なのは分かっている。だから俺が躾けてやるとも言った」

「……はい」

「適切な管理をしなかったからあの犬も苦しむことになった。わかるな」

「はい」


 ぐっとリリーが手を握りしめる。至らなさを自覚して、分からないからと避けた自分を恥じた。そんなリリーの様子を見て、僅かにベネディクトの瞳が揺らぐ。


「やりたくないと拒んだところで何も変わらない。このままコレを処分するか、俺に任せるか、自分で躾けるか、ここで選べ」

「私が、彼の主人です」


 リリーの瞳は、揺れていなかった。


「……そうか。次は無いからな」

「はい。ご迷惑をかけないように――」

「そうじゃない」


 ベネディクトはひとつ溜息をついて、リリーの頭を撫でる。


「あの犬が次にお前を傷付けた時、俺は容赦しない。それは覚悟しておけ」

「……はい」


 ベネディクトの優しい瞳が、リリーを強く突き刺した。




◆◇◆◇◆◇




 ベネディクトも使用人たちも部屋を出ていき、ベッドに寝かせたケイレブとリリーの二人きりだ。

 目を覚ましたケイレブは、リリーの足元に跪き額を床に擦り付けた。驚きのあまりリリーは動きを止める。

 何度も謝罪する背中があまりに悲しく思えて、その背をキュッと抱いた。今度はケイレブの動きが止まる番だった。


「どうして貴方が謝るの」

「俺は……俺は、ご主人様を……傷付けてしまいました」


 震える声で懺悔する姿に、リリーの胸が痛む。


「傷なんて、大したこと無かったわ。それに元はと言えば私が悪いじゃない。薬のことも、何も知らなかった。何もしなかった。本当にごめんなさい。貴方が悪いわけじゃない」

「でも……俺はご主人様に……!……それに、俺に、なんて、どれだけご主人様が不快だったか……」

「不快?」

「ご主人様は俺が嫌いでしょう」

「嫌い……?」


 リリーは自身の言動を省みる。確かに、ケイレブを遠ざけていたし、拒絶するようなことばかり言っていた。それはリリー自身が彼との距離感を図りかねていたからだけれども、ケイレブにとっては嫌われているように感じるのも無理はない。またしても意図せず傷付けてしまっていたことを知り、罪悪感がリリーの心臓を締め付けた。


「嫌いだなんてことはないわ。ごめんなさい」

「ご主人様が謝ることなんて何一つありません。仕方ないです。俺、獣人だし、汚いし……」

「そんなことない!貴方はすごくきれいだよ、その瞳も、髪も、顔立ちだって、言葉だって、そうして人を思えるところだって、貴方は全部綺麗だよ」

「へ、え……えっ、と……」

「私、獣人とか、よくわからないの。みんな当たり前のように酷い扱いをするけれど、私は……ケイレブにそんなことできない……それに私、ずっとこの家の中にいて、外の人たちがどんな風に人と接しているのかもあまり分からなくて。だから、貴方とどう接したらいいのか、どう接するのが正しいのか、分からなくて、言い訳だけれど、それで……」


 ケイレブは、驚いたように瞬きを繰り返した。


「嫌いなわけじゃ、ない、ですか」

「もちろん」

「よ、よかった……よかったぁ……」


 何度も「よかった」と繰り返しては、ケイレブは涙を流す。長い睫毛が揺れて、涙の雫を落としていく。


「う、うれ、うれし……うれし、です……ご主人、様、俺のことっ……きらいじゃ、ない……!」

「うん。ごめん、ごめんね」


 ケイレブの背中を、リリーが撫でる。ぐすぐすと泣き続けるケイレブが長い時間を掛けて泣き止むまで、リリーはずっとなだめ続けた。




「薬、無くなったら教えてね」

「はい」

「言えなかったのも、理由があるのでしょう」

「……ご迷惑、かけたくなくて。以前にも長期間薬を飲めない時期があったのですが、こんなことになったことはなかったので……我慢すればおさまると、そう思っていました。すみません」

「そう。これからは我慢なんてしなくて良いから。困ったときには教えてちょうだい」

「ご主人様……」

「こんなことにしちゃってごめんなさない。私にできることならなんでもするから、教えて?……物でどうにかしたいってわけじゃなくて、ケイレブに何か欲しい物や希望があるなら、叶えたいの」

「……では、ひとつだけ、良いでしょうか」


 恥ずかしそうに、ケイレブが言葉を紡ぐ。頷いて、リリーは彼の言葉を待った。


「キャル、と、呼んでくださいませんか……」

「キャル?」

「ケイレブという名は、親しい人からキャルと呼ばれるそうなのです」

「それだけで良いの?キャル」


 嬉しくて言葉にならない、そんな様子のケイレブが可愛らしいと、リリーはふわふわの頭を撫でた。本当は出会ったときからずっと、リリーはこうしてこのふわふわを堪能したかったのだ。


「改めて、これからよろしくね。キャル」

「はい、ご主人様」


 ケイレブの尻尾が、大きく大きく揺れていた。


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