その八、今日の約束は無くなったという知らせ
昨夜の夜会は私とカートの微笑ましい姿が話題になったと、母は朝食の席で満足そうに言った。
それどころか、余計なことを淑女が出すギリギリの声量で唱えたのだ。
「今日は幌なしの馬車でファルマー観光だなんて素敵ね」
え?
とうとう連れ出されて殺されるの?
いえいえ、母がこうして私とカートの外出を喧伝しているというならば、私は無事に戻って来れるということよね。ね?
その後の私は、スクランブルエッグも、フライドトマトも、綺麗な色合いのアスパラガスだって、味を感じるどころか砂を噛んでいるようだった。
「皆様、こちらでいらっしゃいましたか」
私達の上に落ちた男性の声に、私は嫌々ながら顔を向ける。
妙に機嫌の良い声を出していた人は、幻聴でも幻覚でも無かったようだ。
わたしはそのことを認めて、顔を皿に戻し、大きく溜息を吐いた。
見目麗しい嘘くさい男は、本気で胡散臭そうな姿をしていた。
地味だが仕立ての良いスーツ姿である彼は、いかにもこれから仕事に行くという風情である。なのに、胸元に大輪のピンクのバラを一輪、それもトリコロールリボンで飾られているというものを飾っているのだ。
「おはようございます。麗しきクラーラ」
男は婚約者に、ではなく婚約者の母の手を持ち上げてその甲にキスをした。
クラーラと名前を気さくに呼ばれた侯爵夫人の母は、騎士でしかないカートを嗜めるどころか少女のように頬を染めただけだった、とは。
「おはようございます。カート。よろしければお座りになって」
「朝食のお邪魔になるのでは?」
「もう終わっております。ねえ、ミゼルカ」
確かに、私の朝食皿は綺麗に片付いている。
どんな逆境でも食欲を失わない、何でも残さず食べてしまえる、私の悪い所ね。
「わお。しっかり食べたんだね。君が俺との遠出をこんなに楽しみにしてくれるなんて嬉しいよ」
お酒で酔っ払っているのかと思うほどに、今朝のカートは機嫌が良い。
まあ!私の隣に図々しくも当たり前のようにして座ったわ。
カートは私に優越感に溢れた笑みを向けた。
「あなたとの遠出を教えていただいたのはついさっきですの。私は無事に朝を迎えられた事が嬉しくて食欲が増しただけですわ」
「俺と同じだね。俺も君に出会えた昨夜が嬉しすぎて、夢かもしれないと思ったよ。君も同じ気持ちだと知って嬉しい限りだ」
「夢で良かったと思いたいわ」
「わかるよ。俺はこれから君をがっかりさせてしまうんだ」
殺すの?
私の殺す予定が入ってしまわれましたの?
脅えた私は、カートの顔をまじまじと見返してしまった。
と、ひゃあ!
カートが私の頬に右手の手のひらを当てたではないか。
真っ直ぐに私を見つめる彼の顔は、殺人者だとわかっていても美形すぎる。
悪魔、悪魔だわ、この人は。
「そんなに悲しまないでくれ」
「こ、この世の終わりなのに、ですか?」
カートは私の頬に当てた手を私から遠ざけたが、私を見つめる視線は私の顔から動かしはしない。居心地の悪い私がぶるっと震えると、彼はその手を口元に当ててクスッと笑った。何て悪趣味な人だろう。
「君は本当に可愛いな。こんな君と結婚したら、俺はその日のうちに仕事なんて辞めてしまいそうだ」
「ごめんなさいね、カート。娘はまだまだ幼いの」
「いいえ。嬉しいばかりですよ。本日は俺に急な仕事が入って、俺こそ残念で情けなかったものですから」
「そう言っていただけて。二輪馬車に乗ってお出掛けなんて初めてなものですから、この子はとっても楽しみにしていましたのよ」
だから、ついさっきまで知らなかったと言ってるでしょう、お母様!!
そして、人形みたいに美しくあどけない母は、侯爵夫人となれただけあって計算高い人のようである。
彼女のその台詞は、カートから次のお誘いを引き出すものだった。
「では、明日にこの埋め合わせをする事を許していただけますでしょうか。そうだ。明日はみんなでピクニックなんて如何でしょう。ねえ、クラーラ」
「あらあ、二人きりでドライブは素敵ではありませんか」
カートと母こそお付き合いをしているのだろうか。
クラーラ、カートと、婚約者の私よりも彼らは親密に呼び合い会話している。
当事者の私の意見など一つも聞かずに、勝手にピクニック計画など立ち上げてしまったではないですか。
「ピクニックだったら君も一緒だ。君が一緒ならば、帰りが少々遅くなっても俺は君に許して貰える、だろ?」
「まあ、悪い人」
母子一緒にこの世から消せば、私の不在に騒ぐ人もおりませんわね。
自分の人生が明日まで。
悲しくなった私は死ぬ時には後悔しないようにと、メニュー表を取り上げてボーイを呼んだ。
「ああ、俺はすぐに立つからお茶はいらないよ」
カートは何でも分かっている、という笑顔を私に向けている。
どうしたらこの恐ろしい男をやっつける事ができるのかしら!!