その十五、無垢な乙女はこうして悪い男に連れ去られた
私がいじめられて泥まみれになっていた間、それを眺めていていただけの男。
その事実を知ってカッと頭に血が昇ったからか、私は初めて恐怖心など消え去った状態で、カート・ハインリッヒに向き合っていた。
いいえ、彼から貰ったサシェを彼に投げつけていた。
けれども彼が、素直にサシェをぶつけられるままにするような人、だろうか。
彼は自分に飛んできたサシェを左手で簡単に掴み、あろうことかこれこそ私の愛情表現だと知っている、そんな風の笑顔を向けたのである。
知っている……はっ。
あ、私は知っている!!
カートは殺人者だったわ!!
私を墓場に連れて行くって言った人よ!!
私は急に冷静になり、いいえ、半日ぶりの恐怖に囚われ、なんてことをしてしまったのだとカートを見返してしまっていた。
しかし彼はサシェを投げた私に苛立つ素振りなど全くなく、微笑みながら私にサシェを差し出した。
「さあ、君のお気に入りだ」
私は彼からサシェを受け取るどころか彼から一歩下がっていた。
私は思い出したのだ。
昨日のあの後、私の衣服を脱がせて着替えさせた人が誰だったのか。
いつでも好きな時に殺せるってこと?
「どうしたのかな?さあ」
「あ、あなたは怖いわ。私を気絶させたり――」
「それは誤解だ。昨日は君が勝手に眠りこけたんだ」
「眠りこけ、気絶したのよ!!」
「気絶では無いが、気絶したみたいに君が爆睡していたのは確かだな。だが、俺はそんな状態の女性に何かしようとする男ではない」
「そ、それはわかっているわ」
しかし、大人が赤ん坊にするようにして彼が私を着替えさせたのは事実であり、私の下着姿など色々を見たはずなのだ。
「紳士として着替えさせただけだから気にするな。いや、感謝して貰うべきか。メイド服姿でベッドにいるところを見つかったら、君はクラーラ達に散々に問い詰められて困っただろうものな」
「そこは忘れさせて!!」
「そこは気にしていなかったのか。じゃあ君がサシェを受け取らないのは……そうか!ディアナフロラの店主は愛人ではないよ」
「ちがう!!それじゃない」
「そうじゃない?う~ん。誤解が無いのは喜ばしいが、焼餅を焼いてもらえないのは悲しいな」
「焼くわけ無いでしょう!私が泥まみれになっても助けてくれなかったような人に、私がどうして焼餅を焼くのですか!!」
「ちっちゃな君が頑張っているんだ。それに、女の子同士の喧嘩でしょう?ここは俺が間に入らずに君を見守る方が良いと思ったんだ。だが一つ言わせてもらえれば、君の泥まみれは、あの三人も想定していなかった結果だと思うな。俺もあそこで君が転がっちゃうとは思わなかった」
「んむむむうう!!」
私は全く冷静では無かった。
両手をカートへと突き出すと、牛のように彼に突進していたのだ。
彼を突き飛ばしても彼が転ぶはずなど無いだろうに。
「って、あら、うそ」
カートは簡単に後ろへと尻餅をついたのだ。
そして、私は彼に抱きしめられているという状態だ。
いえ、足を伸ばして芝生に座っている男性に、その男性の腿にお尻を乗せて向い合わせで座っている、そんな破廉恥な姿だわ。
「ま、まあ、ああ!!」
顔がくっつきそうな距離に、とっても機嫌が良さそうなカートの顔。
狼狽した私は、彼から離れなくちゃと彼の胸を……押せない!!
さらに彼に強く抱きしめられ、ええと、カートは大きすぎる笑い声をあげながら今度は芝生に背中を付けちゃったじゃない!!
「破廉恥だわ!!私はエバンシュタインの恥になってしまう!!」
「そうだねえ。これで騎士風情の俺のお嫁さんになるしかない」
「え?」
「結婚は墓場というが、君とは墓場に行くまで楽しめそうだ」
カートは私に片目を閉じて見せた。
え?
なんだか脳みそが動かなくなっている。
けっこんははかば?
「あなたは私を殺す気は無い?」
カートは私をさらに自分に貼り付けるようにして抱きしめ、私の耳に唇を寄せて囁いた。
「君はこんなに可愛いじゃないか。怒りんぼの紅雀ちゃん」
「え?って、きゃあ」
カートから顔を上げた私の動きに呼応するように、カートは私を自分の上から少々乱暴に転がした。
それは彼が起き上がりたかったからで、彼は転がってしまった私を、私が何が起きたのか理解する間もなく抱き上げていた。
騎士がお姫様を抱くようにして。
あるいは花嫁が花婿に抱き上げられる時のようにして。
「俺の首に両腕をかけて。泥まみれの俺達はとりあえず中庭から逃げよう」
私はカートの言う通りにした。
確かに、ホテルのロビーには私達を覗き見る人達で一杯だ。
「どうしましょう。お母様に叱られる」
「俺もヘルマン王子に叱られるな。いや、クラーラの方が怖いか?彼女は俺との婚約発表を君が社交界を楽しんでからにしたいと考えているからね」
「え?お母様にそんな人間味があったの?」
「ひどいな、本当に酷い。だが、そこがいい」
「きゃあ!」
カートは私をゆすり、私はそれで悲鳴をあげてさらに彼にしがみ付いていた。
さらに、私は彼の肩に顔を埋めていた。
やっぱり衆目に晒されているのは恥ずかしい。
それにカートの肩に額を当てるのは、何故か安心感ばかりで気持がいいもの。
カートはそんな私に笑い声をあげると、私を抱き締めたまま館内へと進む。
パチパチパチパチ。
「なぜ拍手?」
「とりあえず出し物だった」
私はさらにカートの肩に顔を埋めるどころか擦り付けていた。
情けないって、頭をぐりぐり動かしてしまっただけであるけど。
「ハハハ、猫か!」
カートは私の所作に怒るどころか楽しんでいるようで、私を抱いたまま彼はホテルの奥へ奥へと進んでいく。
奥という表現は、ホテル客が入る事は無いホテルの裏側らしきところに向かっているようなのだもの。
カートの肩越しに見える風景は、客に見せる煌びやかな装飾も無くなり殺風景となり、そして立ち働くホテル従業員たちの姿さえも消えて行った。
誰も、いない?
あら、もしかして、もしかして?
私は気を許してしまったけれど、やっぱり、私をどうにかするつもりだった?




