誘拐
薄曇りの朝、エリナ達を乗せた馬車は宿場町を発ち鬱蒼とした山道を進んでいた。
旅ももう五日目だ。そろそろウィステリアとの国境だった。
要塞のように高い山岳に囲まれてるウィステリアに入国するには大なり小なりの山を越えなければならない。
エリナ達が進んでいる道もかろうじて道とは呼べるものの、かなりの悪路だった。
ガタゴトと馬車が揺れ、ノエミが用意してくれていた酔い止めが無かったら確実に今朝食べたものを全て披露してしまっていただろうとエリナは思った。
馭者も気をつかってゆっくりと走ってくれてはいるが、目眩がするし胃もムカムカとしてくる。
けれど、こんないかにも盗賊や獣が出そうな道で馬車を止めるのも忍びないので休憩は山をこえてこらになるだろう。
(もう少しの辛抱、もう少しの辛抱…)
『お嬢様。大丈夫ですか?お顔が真っ青ですよ?』
いよいよ限界を迎えようとしていたエリナを見かねてノエミが声をかけた。
『だ…、大丈夫……』
『無理なさらないで少し横になっては?』
『…そうしようかな…』
伯爵家から乗ってきた馬車は中々に大きく小柄な人なら足を少し曲げれば横にだってなれる。
シスコンのオスカーがエリナがいいと言うのも聞かず金を惜しげもなく注ぎ込んだのだった。
エリナは素直に少し横になる事にした。
目をつむれば少しは楽になるかもしれない。
そうして目を閉じれば慣れない旅の疲れか、あっという間に睡魔に身を委ねてしまった。
今となっては、それがいけなかったのかなあとエリナは思った。
目を覚ました彼女は見覚えのない硬い床に横たえられていた。
辺りを見渡せばそこは石造りの牢のようだった。
小さな出入口には鉄格子が嵌められていて鍵がなければ脱出する事はかなわないだろう。
一本だけ壁にかかっている蝋燭はゆらゆらと牢の中を照らしていた。
そこそこの広さがあるようでエリナの他にも若い女性が一人と十人程の子供がいるようだった。
そして一つの結論へと至る。
(うん。私誘拐されちゃったみたい)
一度寝て思考がスッキリしたからかエリナは驚くほどあっさりと自身の置かれている状況を受け入れていた。
(けど…、ノエミはどこかしら?)
見たところこの牢屋にはいないようだった。
ノエミは狼の群と対峙した時ですら無傷で生還する程の猛者だが、心配は心配だ。
『はぁ。生きていると色んな体験をするものね…』
エリナはしみじみと感じいる。
確か前世の享年は二十五歳だったと思う。
そしてエリナとして生まれ十八年。計四十三年生きてる事になるが誘拐されたのは幸か不幸かこれが初めてだ。
独りごちた声が聞こえたのか、牢屋の入口に盗賊らしき男がやってきた。
日に焼けた肌に短い頭髪、土埃で煤けた粗末な衣服。見るからに盗賊然とした出で立ちだ。
(牢屋の見張り役かしら)
『やっと起きたかよ。お前どんな神経してるんだ…?
誘拐されておいてたっぷり八時間眠りこける貴族令嬢なんて初めてみたぞ』
(あ、結構まとまった睡眠とってたみたい)
『すみません…』
盗賊の男の言葉にエリナはやはり自分は誘拐されたのだと再確認出来た。しかも八時間も経っているらしい。
(と言う事はもう夜になる頃だわ)
『あの、私の侍女は無事でしょうか?』
『ああ。あの熊みたいに凶暴な女なら別の牢にいる。
今は大人しく捕まってるけどな』
『ケガなんてしてませんよね?』
『さあ?新入りがやけにあの女を気に入ってたから、
どうだかなあ?』
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる男はチラリと視線を動かす。
(そっちにノエミがいるの?)
エリナは考えた。盗賊の男にも熊と称されたノエミの力ならこんな盗賊達くらい一捻りのはず。
もしかしたら自分を盾に脅されて大人しくせざるを得ないのかもしれない。
(ノエミが動けないのなら、私がなんとかしなくては!今は全然いい考えは浮かばないけど!)
エリナはむやみに前向きで行動力のあるタイプのポンコツなのだ。
『分かりました。ひとまず無事のようですね』
『ふん。図太い女だ』
エリナの落ち着いた態度が気に入らなかったのか男は鼻を鳴らす。
普通の貴族令嬢はもっと怖がったり泣いたりするのだろうとエリナも心のなかで頷く。
今こうしているのが前世のエリナだったらもっと泣いたり騒いだりしていたかもしれない。けれど、エリナの生まれ持った性格なのか育ちのせいか、今の彼女は大変おおらかだった。
『では、図太いついでに一つお願いがあるのですがよろしいですか?』
『開き直りやがって!本当に図太いな!』
『まあまあ。私の荷物はあなた方が持っているんじゃありません?』
『馬車に積んであった荷物なら全部頂いたが?』
『まあ。よかった!でしたらその中から一番小さなトランクを持ってきて頂けませんか?トランクの鍵は私が持ってますので』
『何をするつもりだよ』
当然ながら男は訝しむ。
『お腹が空いたので飴でも食べたいなと思いまして…』
『この状況でよく腹が空くな』
『…すみません』
『まあいい。それくらいなら』
『あの〜。ついでにもう一つ…』
『本当に図々しいな!まだあるのか!』
『…すみません。ですけどここは寒すぎます。毛布なんてありませんか?出来れば他の人達の分も...』
エリナはそろそろと挙手をしながらお願いすると見張りの男は一つ舌打ちをして仲間を呼んだ。
するとしばらくして別の男がエリナのトランクと数枚の毛布を持ってやって来た。