瞳の色
ほんの少し休憩を取ると、作業はまた再開された。
ランプの灯りで照らしているものの、相変わらずサングラスの周りには黒い靄がかかっており非常に鋏を入れにくい。
しかも疲労困憊で握力が無くなって来ているが、じわじわと再生してくる呪いの糸はエリナを待ってはくれない。眠い目をしばたかせ格闘を続けていた。
ノエミは最後まで付き合うと言ったが、オスカーへの手紙の推敲で一日頭を悩ませて疲れただろうとエリナが強引に部屋へと下がらせた。
貴族用の宿だけあって使用人用の部屋も完備されている。
イーゴンはと言えばエリナの文机に向かって書類仕事をしていたが、夜がふけるうちに居眠りを始めてしまった。
クラウス曰く敵意や殺意を察知すれば起きるだろうとの事なのでそのままにしておく。
日付けが変わった頃、エリナのお腹が空腹を訴えはじめた。集中していたため終始無言だった静かな部屋に間抜けな音がぐうぐうと響く。
『…すみません……!!』
図太い残念令嬢のエリナだったが流石に恥ずかしくなり身悶える。
『いや、なんかごめん。こちらこそ』
クラウスは笑いそうになるのを我慢しながらエリナの膝から起き上がった。
『殿下はお腹空いてませんか?』
『…俺は少しくらい食べなくても平気なように訓練してるから平気』
『訓練するんですか?』
『まあ…。うちの兵士はみんな受けるから』
戦でいつ兵糧攻めに遭うかも分からないからだそうで、入隊時に特殊な訓練をするのだとか。
(だからと言って王子様がそこまでする必要は無いはずよね。本当に真面目と言うか…)
エリナが感心しているとクラウスはため息まじりに話を変えた。
『ねえ君、俺の「疲れ」を抜いてるだろ』
『あ、気付いてしまいましたか』
実は膝枕を開始した時から数回「疲れ」を取り出しているのだ。
『俺ばかり楽する訳にはいかないよ。俺は横になってるだけなんだからこっちは気にしなくていい』
『まあまあ。殿下には私が寝てしまったら起こして頂かないといけませんから。そうだ!一度お茶を入れましょうか』
『誤魔化すな』
下がる前にノエミが小さなテーブルにティーセットを用意し、ソファの横に設置してくれだのだ。
お茶はポットカバーもしてありまだ温かい。
『本当に大丈夫なんですよ?呪いを取るみたいに疲れたりしませんし』
カップにお茶を注ぎながら言うとエリナはクスクスと笑った。
『何笑ってるの』
『本当に真面目な方だと思って』
『…は?何が真面目なの』
首を傾げるクラウスにカップを渡すとエリナはまた笑った。
『さっきの訓練の話もそうですけど、殿下ならしなくていいような苦労も進んでなさろうとする所とか、ご自分も疲れているのに私を気遣って下さる所がとても優しくて真面目だと思いますよ』
『……優しいのは君だろ』
『そうでしょうか?』
『そうだよ。こちらが心配になるくらい』
エリナはなぜか怒っているかのようにそう話すクラウスに首を傾げる。
『殿下がそう仰るならそうなのかもしれません。ふふふ!誉められるともっともっと人に優しくしたくなりますね』
『…今のは嫌味。君さ、そんなんで大丈夫?伯爵令嬢として。もう少し悪意に敏感にならないと後々大変だと……』
クラウスは言葉を途中で止めた。エリナが笑い声を漏らしたからだ。
(お母様にも全く同じ事を言われた気がする…!)
エリナはやはりクラウスは優しい人だと感じた。
クラウスが口にしたのはエリナにとっては嫌味ではなく苦言である。母が娘の為を思い論すように発せられた言葉のようだと思い笑いが止まらなくなってしまう。
『………何』
嫌味を言ったはずが当の本人がなぜか笑い出してしまい、クラウスは自分でも驚くほど低い声が出る。
だかしかしエリナはきゃらきゃらと笑うばかりである。
(イーゴンもたまに同じような時があるな)
クラウスは側近のニヤけた顔と当時のイラつきを思い出した。
『ねえ、俺はそんなに愉快な事を言ったかな…?』
『ん?!』
エリナは驚きで笑い声を止めた。クラウスがエリナの両頬を引っ張って放さないからだ。
『伝わったかな?悪意が』
『ひゅたわりまひた!ひゅたわひまひた!』
『何て言ってるのか分からないな。君、今さぞかし面白い顔をしてるんだろうね。見えないのが残念だよ』
エリナも今なら見えなくても分かる。クラウスが黒い笑みを浮かべているだろう事が。そして「お母様みたい」などと口にすれば自分の頬がどうなるかも。
『ふゅみまひえんれひた…』
『まあ、これでいいとしようか』
謝っているように聞こえたのでクラウスは両手を放す事にした。
それからカップのお茶を飲み干すと、作業は再開された。
そしてしばらくするとクラウスは体に異変を感じた。
尋常ではない眠気に襲われているのだ。
『君…、やってくれたね』
『いやはや〜。何の事やらさっぱり〜』
エリナの口調は非常に聞き覚えがありクラウスは眉間にシワが寄る。
『言っておくけど王族に薬を盛るのは犯罪だよ』
『薬じゃないのでお許しください』
『同じ事だろ…。うわ…。何これ眠い…。これが例の…』
かつて無い眠気に何か話していないと意識が保てそうもない。
これが誘拐されても八時間眠りこけていたエリナの睡魔の威力。
『…なんでこんな事…』
『ご自分が一番お分かりですよね』
『はあ……』
しばらくするとクラウスは力尽きたように眠りに入った。
ノエミが用意したお茶に睡魔の飴を入れたのは他でもないエリナだ。彼の体は呪いのダメージが蓄積されて疲れやすくなっているようだった。糸目に鋏を入れるたびに体が消耗しているはずだし、慢性疲労のような状態だろう。
疲れが取れないのはきっと疲労で睡眠が浅いからだと考え、またしても強引な手段に出たのだった。
(少しでもぐっすり寝た方がいいわ)
『でないと…私みたいに…』
エリナはいいかけてかぶりを振った。
(あともう少しだわ…!)
僅かに残っている糸目に奮起すると、鋏を進めて行く。
やはり一つ切る毎に力がごっそりと失われていき、頭がクラクラしてくる。
だが、これくらいの体調不良はエリナにとっては慣れ親しんだ感覚に過ぎない。今世以上に前世で不摂生を極めていた彼女は自分の限界を弁えているのだ。
(疲れを抜いてしまえばこっちのものよ!後でちゃんと寝るしご飯も食べるからオールオッケー!)
ちょっとした徹夜ハイに陥りながらエリナが作業を終えたのは夜が白み始めた頃だった。
『ようやく終わったのね……』
達成感とも少し違う不思議な感慨に耽りつつ、座ったまま伸びをする。体からバキバキと音がするのは久しぶりだ。
これまで格闘してきた憎きサングラスはただのサングラスとなり、長椅子の横のテーブルに置かれている。
作業を照らしていたランプを消せば、カーテンの隙間からうっすらと朝の気配を感じる。
膝に乗ったクラウスの頭をゆっくりと除け、よろよろと立ち上がったエリナは足が痺れて床にへたりこんだ。
(まずいわ…。このままここで寝てしまいそう…)
エリナは眠気を取り出そうと思ったがそれすらもままならない。力を使い過ぎたようだった。
(寝るなら身支度をしてからにしたい…。お腹も空いた…。朝日…朝日を浴びればきっと眠気も覚めるはず…。人間だもの)
なんとか手を伸ばしカーテンの紐を掴み引っ張ればカーテンは左右に別れて開いて行く。一月近くこの部屋で寝起きしているのだ。朝日がどちらから登るのかは心得ている。
窓の外はまだ薄暗く、間もなく夜明けを迎えようとしていた。
わなわなと震える両足を叱咤し、産まれたての子鹿のような足取りでベランダに出るとなんとか手すりにもたれかかる。
ひんやりとした朝の空気が心地良い。
『春は曙…。うん、その通りね』
エリナは枕草子のあの有名な一節を思い出していた。
四方山岳に囲まれたウィステリアでは多くの場合山々から朝日が登る。山際から朝日が溢れるかのように白く光り始めた。
『やうやう白く成りゆく山際』
そして夜空に朝日が染み出してくるように紫色の空が照らし出され、雲もまた紫色に照らされている。
『少し明かりて紫だちたる雲の細くたなびきたる』
いつの間にかエリナの目からは涙が零れていた。
かの清少納言もこんな光景を目にし、このような尊い感慨に耽ったかと思うと涙が止まらなかった。完全なる徹夜ハイである。
情緒が崩壊したエリナをよそに、クラウスの目蓋がピクリと動いた。ベランダからそよぐ軽やかな風を感じ、ゆっくりと目を開ける。
(誰かいる…)
朧げな視界は久しぶりに光を受け段々と明瞭になって行く。
上体を起こし瞬きを繰り返した。目が慣れるのを待つとベランダに女性が立っているのが見える。気配の正体のはずである。
朝日を受けて、紫色に照らされた髪はキラキラと光ながら風に靡いている。
クラウスはだるい体を引きずるように長椅子から立ち上がった。
その物音に気づいたエリナはそちらを振り返る。
━━━━それはまさに黎明たる瞬間であった。




