アリスとウサギと死人の本
はあ。
ため息が白く、夜の空気に消えていく。
四月に入って少し経つが、まだ夜は冷える。
私もこんな風に消えていきたい。初めてそんな考えが過ぎったのはいつだったろうか。いまとなっては判然としない。
「……やっぱり。来ないか」
諦念とともに、無意識に言葉がこぼれる。
約束の時間をすでに一時間も過ぎていた。
せっかくなら、八田くんの手で私を終わらせてほしかった。
少し風が出てきた。
舞い散る桜の花びらは、まるで限りなどないかのように視界を満たし続けるが、このぶんだと数日のうちにすべて散ってしまうのだろう。
……一緒にいこう。
彼が約束の時間に現れなかったくらいでは、私の心は揺らがない。
◆◆◆
ドアベルの澄んだ音色が、来訪者の存在を告げる。
一見すると西洋的な端正な顔立ちだが、おそらく日本人であろうことがわかった。立ち振る舞いからか、服装や表情からか。いや、おそらく数え切れないほどの来訪者を見てきた経験からだ。
「ごきげんよう。お嬢様」
相手がどのような風体だろうが、幼児であろうが老人であろうが、極めて紳士的に振る舞うことを心がけている。
ひととの会話を円滑にするためにはなるべく恐怖心を抱かせないことが肝要だ。大抵のひとは私の姿を見ると驚き、なかには大声を上げる者もいる。
しかし、目の前の少女はというと、私の両目を真っ直ぐに見つめ、優雅に微笑んでみせた。
「まあ、すてき。ウサギさんが言葉を発するのを、私、はじめて耳にしました」
「これは、ありがとうございます。おっしゃる通り、当図書館の司書、ウサギでございます」
そう。私はウサギだ。
ここに長くいるうちに、気がつくといまのような姿で、ひとの言葉を話していた。司書を自称するようになってからは衣服を纏うようになった。
「これはご丁寧に。私はアリス。如月アリスです」
少女は十三、四歳といったところか。肌は透き通るように白く。腰まで伸びた髪は夜の闇を写し取ったかのように暗い。
やや色素の薄い瞳で見つめられると、不思議とすべてを見透かされているような錯覚に陥る。私がこの図書館に居続ける理由さえもーー。
「ここは、なにかしら。見たところ、書店か図書館といった様子だけれど」
少女は歌うように言葉を紡ぐ。ここを訪れるものには珍しい。大抵は陰鬱な表情でぼそぼそと話すか、怒りに声を荒げる者ばかりだ。
「ご明察でございます。ここは図書館。ただし、ただの図書館ではございません。ここに収められている書はすべて、死した者たちの生涯を書き記したものでございます」
無論、すべての生物の生涯が収められているわけではない。すべてのひとの、でもない。
私の言葉は説明不足であろうが、来訪者にすべてを話す義理など私にはないのだ。
私はいつものように恭しく頭を垂れる。
少女は私の言動を特に気にする様子もなく、手近にあった書を手に取る。
「これらがすべて……。でしたら、私がどのように死んでいったのか、それを知る方の本もあるのかしら」
そう。ここを訪れるのはみな、死者なのだ。ただ、やはり死者がすべてここを訪れるわけではない。
「なるほど。ではあなた様は亡くなられるとき意識をなくされていたのですね。殊更珍しいことではありません」
死ぬ直前に意識をなくすこと自体はそれほど珍しいことではない。長い短いの差はあるが。中には眠っているうちに――ということもある。
「しかし、当館に所蔵されている書は膨大な数です。その中からお嬢様のお探しの書が見つかるかどうか。それに、所蔵されている書はすべて、当館をすでに訪れた方の書のみとなっております」
少女が小さく笑う。
「つまり、まだこちらに来ていない方の本はない、ということなのね。わかりました」
そう言うと、上階への階段へと足を向ける。上階といってもロフトのようなもので、こちらからは目につきにくいが、上からは入り口の辺りが丸見えだ。
書を探しながら来訪者を待たせてもらう、そういうことなのだろう。
「承りました」
もとより私にそれを拒む権利などないのだ。この私も、ここに勝手に居座っているだけなのだから。
◆◆◆
鈴の音が鳴った。
どこかで聞いた音に似ている。
そうだ。あれは昔勤めていた会社の近所の喫茶店。入り口のドアのドアチャイム。客の出入りの度に鳴る涼やかな音が、アンティーク調の店の雰囲気と合っていた。
ずっと暗闇だと思っていたところに、急に視界がひらけた。
見渡す限り本棚に囲まれた空間。色合いや雰囲気がどこかあの喫茶店に似ている気がする。
壁沿いの本棚を見上げると、首が痛くなるほど続いており、おそらくその高さは四、五メートルはあるだろう。
上のほうの本はどうやって取るのだろう、と、くだらない疑問が脳裏を過ぎる。
――どこだ、ここは。
「ごきげんよう。旦那様」
突然、声をかけられて、はっと我に返る。慌てて視線を下ろすと、見たことのない生き物が目の前に立っていた。
いや、見たことはある。ただし、顔の部分と身体の部分が自身の記憶と一致しない。
顔中を覆う白い毛並み。普段は黒く、光を受けた時だけ赤く光るガーネットのような瞳。頭から長く伸びた耳。
頭部はどこからどう見てもウサギのそれなのに、身体はすらりと細く、二本の足で真っ直ぐに立ち、まるで人間のよう。燕尾服を見事に着こなす姿はまるで英国紳士のようだ。もちろん実物を見たことはないが。
「な、なんだお前」
「当図書館の司書をいたしております。ウサギ、とお呼びください」
着ぐるみかとも思ったが、目や口の動き、それに鼻がヒクヒクと常に小さく動いている様子は、明らかに生き物のそれだった。
「なんなんだ。どうなってる。おれは死ねなかったのか」
いや、たしかに死んだはずだ。
会社をリストラされて以来、職を転々として、それも続かなくなって、ここ十年くらいは公園で寝泊まりするようになっていた。
その上、今度は殺人容疑で逮捕ときたもんだ。
やってられねえ。おれの人生いったいなんだったんだ。
「ご安心ください。旦那様はきちんとお亡くなりになっております。どのようにかは私にはわかりかねますが、お見受けしたところ、縊死されたのだろうと愚考いたします」
ウサギは開いた手でおれの首の辺りを指し示した。何か痕でも残っているのか。
「よろしければ、伺ってもよろしいでしょうか?」
目の前でウサギが言葉を喋っている光景にも徐々に慣れてきた。
「留置場で、首を吊ったんだよ。もうやってられなくなってな」
◆山根 根津男◆
――中2少女殺害事件の容疑者として逮捕後、留置場内で衣服で首を吊り、縊死。
ほんとうにくそみたいな人生だったんだよ。
リストラされた後、再就職も中々できなくて、バイトもどれも長続きしなくて。家族にも見放されてな。
ホームレスになってからも、あんまりひとと口きかなくなってたなあ。ホームレスやってても結構楽しそうに生きてるやつらもいてさ。そういうやつらがおれは心底嫌いだった。
缶拾ったりゴミ集めたりしながらなんとか食いつないでたけれど、なんで生きてんだろうって毎日思ってたよ。
そしたら、突然逮捕だろ。やってらんねえよ。首吊って死んでやった。たぶん、あの女の子の姿を思い出したんだ。
思い返すと、全然苦しそうな顔をしてなかったんだよ。ただダランとしてるだけで。
首吊りってもっと汚いイメージだったんだけどな。案外苦しまずに死ねるんじゃないかと思って。
女の子? ああ、逮捕された日の前日だよ。公園の桜の木にロープかけて首吊ってたんだよ。真っ暗な中、桜が散っててさ。白いワンピースが夜空に浮かぶようで、なんつうか不謹慎かもしれんが、そりゃあキレイな死体だったよ。
でも、目にした瞬間は驚いたし、怖くてさ。思わず逃げちまった。
後になって、また怖くなってきてな。
だって、あの瞬間はまだ生きてたかもしれないだろ? それなのに助けずに逃げちまったから。せめて、なにかしなきゃと思って、交番に駆け込んだんだ。
けど、お巡りを連れて戻ったら、ロープも女の子も消えちまってて。その時は注意されて帰されたんだけどな。
水たまりを踏んじまったせいで足が冷たいわ、冷えて痛むわで、その晩は散々だったよ。そのまま寝床に戻って眠りに着いたら、翌朝には逮捕だよ。
なにをわーわー怒鳴ってんだと思ったら、足が真っ赤に染まっててさ。どうやらおれが踏んだ水たまりってのが、女の子が流した血だまりだったって話らしいけど。
おかしな話だ。あの子は首吊って死んだんだぜ? おれが見たときは血なんて流してなかったと思うんだがなあ。
まあ、今となってはどうでもいい話さ。生まれ変わりなんてものがあるんなら、次はもう少しマシな人生か、人間以外に生まれたいもんだ。
◆◆◆
鈴の音が鳴って、急に視界がひらけた。
見渡す限り本棚に囲まれた空間。
私は思わずその場にへたり込んでしまった。
助かった。死ぬかと思った。
もう二度と川でなんか泳がない。バーベキューしに行ったんだからバーベキューだけしとけばよかったんだ。彼に誘われたからって、川になんか入るんじゃなかった。
「ごきげんよう。お嬢様」
黒い足が見えた。誰だろうと視線を上げていくと、そこにいたのはあり得ない顔の人物で、思わずわっと声を上げてしまった。
「う、ウサギ?」
「はい。私は当図書館の司書、ウサギにございます」
夢でも見ているのだろうか。
「なに、これ。ドッキリ? みんなは、どこ? どこかから見てるの?」
辺りを見回すが、大量の本しか見当たらない。
「残念ながら、おひとりで来られたところを見るにお探しの方々は無事ご存命のようです。お嬢様おひとりだけが亡くなられたのでしょう」
は? いまなんて。
「あなた様は亡くなられました。お悔やみ申し上げます」
◆河合 宇美香◆
――大学のサークル仲間とバーベキュー中、川遊びをしているところ、深みにはまり、流され、溺死。
ああ、もう。つかれた。
どれくらい泣いてた? 三日? そんなに?
最低。なんなのここ。時間の感覚までわけわかんない。
なんでって、悲しいに決まってるじゃない。私まだ二十一だよ。それなのに川で溺れて死ぬなんて。ひどすぎない? こんなの、あんまりだよ。
お母さんも、お父さんもきっと悲しむ。すっごい泣いてるに決まってる。お葬式とか見に行けたりしないの?
そういうのはないんだ。使えないなあ。
え? 如月アリス?
知ってるもなにも高校の時のクラスメイトだよ。なんでそんなこと聞くの?
アリスちゃんもかわいそうだったよね。殺されたんでしょ? 家で血塗れで倒れてたって。
首吊り? ううん。お腹とかあちこち刃物で刺されてたんじゃなかった?
ひっどいよね。
あの子の家、お父さんが如月製薬の社長さんでしょ。お金持ちだからさ。最初聞いたときはなんかお父さんへの恨みとかお金目当てとかかなって思っちゃって――。
気持ち悪いよね。アリスちゃん、かわいかったから。結局、そういうことでしょ?
あんなひどいことしといて、犯人は自殺しちゃうし。ちゃんと罰受けないのってずるいと私は思うなあ。
アリスちゃんのお父さんやお母さんだってやりきれないと思うんだ。
あ。お母さんはほんとのお母さんじゃないんだったっけ。
でも、関係ないよね。仲良さそうだったし。
他に気になること?
うーん。そう言われてもなあ。
あ。そういえば。
あの夜、私結構遅くまで出歩いてたんだけど。
ん? デートだよ。ファミレスでずっと喋ってて。十二時より少し前だったかな。彼と別れた後、禰子ちゃんを見かけたんだ。
禰子ちゃん? クラスメイトだよ。私は特別仲良かったわけじゃないけれど、かわいいし、明るいし、頭もいいから、人気者っていうか、誰とでも仲いいってイメージ。
あ、でも、アリスちゃんとはあんまり仲良くなかったかも。話してるとこほとんど見たことないし、一度禰子ちゃんがアリスちゃんに怒鳴ってるの聞いちゃったんだよね。なんて言ったのかはよくわからなかったんだけれど。
ああ、当日の話だったね。そう。禰子ちゃん、ひとりでこんな時間になにしてるんだろう、と思ったんだけれど、別によくあることじゃん? 深夜にコンビニ行きたくなったり、そういうこと。
でも、歩いていく方向がさ。そっちなんかあったっけ? って方角で。
あ。そっか。でも、よく考えてみるとあれって公園のほうだ。
まあ、でも、関係ないよね。犯人はホームレスのおじさんなんだし。
◆◆◆
「いかがでしたか?」
来訪者が消え去った後の静まりかえった館内に私の声は思いの外よく響いた。
少女は手にした書から目を離そうともしない。
「とりあえず、私はほんとうに死ぬことができたんだな、と実感できました。
河合さん、少し大人になっていました。顔は……見る陰もありませんでしたけれど。不慮の事故で亡くなられるなんて可哀想に」
少女は微笑みながら口ずさむ。
「どうやら、あなた様は自ら首を吊って亡くなられたようですが」
少女の色素の薄い瞳は尚も文字を追い続ける。
「……ご納得していらっしゃらないご様子ですね」
一寸だけ、少女は逡巡するように沈黙する。
「首を吊ろうとしたのは間違いありません。けれど、それで死に至ったのか、あるいは別のなにかが介在したのか、私はそれが知りたいのです」
少女はページから目を離してこちらを見た。
「ご迷惑かしら?」
「とんでもないことでございます。どうぞ、お気に召すまで」
◆◆◆
鈴が鳴った。
耳障りに感じるのは、あの人のことを思い出すからだろうか。
突然、目の前の風景が室内に変わっていた。
私は夜、新宿で、信号が変わるのを待っていたはずだ。
これはなに? どういうこと?
「ごきげんよう。ご婦人」
そう声をかけられ、はっと我に帰る。
しかし、目の前に現れたのは見るからに異常な存在だった。
◆如月 鳩子◆
――何者かに背中から突き飛ばされ、乗用車に轢かれ死亡。
なんなの、それは。頭のそれを外しなさい!
外せない? ふざけているの? いいから、取りなさい!
うそ。取れない。それ、本当に顔なの? 信じられない。これは、夢?
ごめんなさい。取り乱したりして。
ただ、ちょっと、あなたのような生き物がいるとは、その、知らなくて。
ここは、いったいなんなの? 私はいったい……?
死んだ? 私が? ふざけているの?
そう。そうか。だんだん思い出してきたわ。
私、誰かに押されて――。
いいえ。だいたい想像はつくわ。誰に突き飛ばされたのか。
そう。散々言い寄ってきたくせに、結局、私が邪魔になったのよね。あんな男に誑かされて馬鹿みたい。
ん? ああ、あなたには意味がわからないわよね。
私、夫がいるのだけれど、最近はろくに会えてもいなくて。それでね、若い男に言い寄られてつい――。
自分でも馬鹿だと思うわよ。それも、娘の家庭教師なんて。
アリス? 違うわよ。あの子のこと、知っているの?
そう。あの子もここへ来たの。私のこと悪く言っていたでしょ。
そう、話題にも出なかったのね。
あの子には悪いけれど、あの子のこと娘だなんて思っていないわ。だって、別に私が産んだわけじゃないし。
それに、あの子、私のこと一つも認めていないくせして、いつも笑顔で接してきて。なんだか気味が悪かったのよ。人間って感じがしないというか。
話が逸れたわね。一雄のことよね。
娘の家庭教師、一雄っていうの。
一雄はね。地味で、眼鏡で、貧乏な学生なんだけれど、物静かで、どことなくかわいいとこもあってね。
まあ、でも、私もあの人と別れる気はないし、こんなおばさんといつまでも付き合ってても先がないって思ったんでしょ。
けれど、わざわざ殺すことないわよね。ちゃんと話してくれたら普通に別れたのに。馬鹿なひと。
ああ。弥生は大丈夫かしら?
娘よ。弥生――如月弥生。あの子、私がいなきゃなんにもできないから。心配だわ。
まあ、でも、アリスが死んで、私も死んだら、さすがにあのひとも家庭を省みるでしょ。弥生の面倒だけはちゃんと見てくれたらいいのだけれど。
アリスが死んだ日のこと?
覚えているけれど、そんなこと聞いてどうするの?
お昼頃、家政婦さんにあの子の夕食の準備と掃除を頼んで出かけたのよ。どこに? デートよ、デート。一雄と会ってたの。
朝になって帰ったら、あの子リビングで寝てて。最初はね、こんなところで寝てだらしない、ちゃんと部屋に戻って寝なさいって言ったのよ。でも、反応がなくて。
よく考えたら、普段の彼女ならそんなだらしないことするはずがないのよ。
それに、すぐそこにソファーがあるのに、なんで床で寝てるんだろうと思って。
よくよく見てみると、あの子がうつ伏せになってるあたりのカーペットが赤く染まっているのに気づいて、驚いて抱き起こしてみたら、白いワンピースが真っ赤に染まっていたの。
もう、びっくりして。慌ててあのひとに連絡したんだけれど出ないし。
警察と救急車を呼んだんだけれど、すでに亡くなっていますって言われたわ。
なんていうか、あんなこと、現実に起こるのね。
アリスも可哀想に。頭のおかしいホームレスなんかに惚れられたばっかりに、あんな死に方するなんて。
あら。私もひとのことは言えないわね。
◆◆◆
鈴の音が鳴った。あまりいい印象ではない。待ち合わせはいつも喫茶店だった。
眼を開くと、そこは図書館のようだった。中学、高校の頃よく通った市営の図書館とは似ても似つかないが。
なぜ自分がここにいるのか、一瞬、理解が追いつかなかった。時間が少し経ってから、ああ、自分は殺されたのだと思い出した。
誰に殺されたのかは思い出せない。暗かったし、知っている相手ではなかったように思う。
殺されるほど他人に恨まれている可能性は十分にあったが、鳩子さんはすでに亡くなっていたし、しかし、体格からしてあれは明らかに弥生ちゃんではなかった。
「ごきげんよう」
目の前に、異様な生き物が現れた。
ウサギのような頭部だが、人間のように二足歩行をし、それどころか燕尾服を着こなしている。
「すでにお気づきのご様子ですが、あなた様はお亡くなりになりました」
呆気にとられている僕のことなど気にすることもなく、目の前のウサギはあくまで事務的に、なんの感慨もなく、そう告げた。
◆百々 一雄◆
――会社からの帰宅途中、何者かに襲われ、刺殺される。
不思議な場所だ。死後の世界はあらゆる宗教や、創作物で描かれてきただろうが、まさか図書館とは。
なに? ここがそうとは言えない? 通過点に過ぎない?
なるほど。そうかもしれないが、それ自体も君の想像に過ぎないだろう。
自分が殺されたことに関しては、それほど大きな感慨も疑問もない。そうされるだけのことはしてきた。相手が誰なのかは少しだけ興味があるが。
如月アリス? 懐かしい名前だな。そう。彼女が亡くなったのは十年以上前になるか。
ホームレスに殺されたんだろう? ニュースで見たよ。弥生ちゃんからも聞いたしね。
弥生ちゃんは、彼女の妹だよ。当時はまだ小学生だったかな。僕は弥生ちゃんの家庭教師として、週に二回如月の家に出入りしていたんだよ。僕の父とアリスや弥生ちゃんのお父さんが友人でね。当時そのツテで家庭教師のアルバイトをさせてもらっていたんだ。
しかし、いま考えても、あのホームレスは許せない。アリスを――年端もいかない少女を刃物でメッタ刺しにするなんて。
しかも、アリスが自宅で亡くなっていたということは、どうやってか自宅の鍵を手に入れて侵入したということだろう。計画的な犯行ということだ。なおさら許せないね。
え? どうして、鍵を持っていたと思うのか?
だって、他に方法はないだろう。窓? 鍵も閉まっていたし、割れてはいなかっただろう?
自分が殺される理由? それはその件とは関係ないよ。
実は、当時、僕は鳩子さんという女性と付き合っていて……。あぁ、知っているのか。アリスや弥生のお母さんだよ。不倫、ということになるね。
当時、僕は女性と付き合ったことなんてなくて、大人の女性から言い寄られるなんて経験なくてね。何度も迫られるうちに、つい――。
それ以来、弥生ちゃんに会うのがだんだん後ろめたくなってね。しばらくして、家庭教師のバイトはやめたよ。
アリス? アリスとはなんの関係もなかったよ。たまに顔を合わせたら挨拶するくらいで。
ただ……彼女はとても美しかった。
見た目がいいという以上に、なんていうんだろう、この世のものじゃないような、不思議な魅力に満ちていた。
ここにいるのに、どこにも存在していないような、そんな感じだった。
すまない。自分でもなにを言っているんだろうと思うよ。
◆◆◆
「お会いにならなくて、よかったのですか?」
少女は書から眼を離さない。開け放した窓から入るやわらかな風が、少女の長い髪を微かに揺らす。
「お母様、なのでしょう?」
「違います。一緒に暮らしてはいましたけれど、あの方を母だと思ったことは一度もありません」
物静かな声音には、たしかに強い意志が内包されているように感じた。決して認めないというような固い意志を。
「私のお母様は、もっと、とても美しい方だったの。まだ私が幼い頃に亡くなられたのだけれど、鮮明に覚えています。お父様と私のことだけを愛してくださって、本当に他のことには一切興味がない方でした。
お別れの際、棺の中のお母様は、それはもうこの世のものではないほどお美しくて。私は、悲しさなんて忘れて見惚れてしまったんです。その姿はまるで天使か女神のようでした。
なぜ、お母様がそれほど美しかったのか。それは、きっと、醜く老いることもなく、他の何かに誘惑されることもないまま、純粋なまま亡くなられたからなのです」
恍惚とした表情を浮かべながら、少女は珍しく饒舌に語った。
「失礼。ひとではない貴方にはわからないかもしれませんね」
彼女の言うことが理解できないのは、私がウサギだからなのか。
◆◆◆
涼しげな音が鳴った。鈴の音だと気づくのに大して時間はかからなかった。
本棚と無数の本だけが視界を埋め尽くしていた。
おかしい。
私は会社の屋上にいたはずだ。屋上? なぜ?
そうだ。飛び降りた。飛び降りたはずだ。
自慢ではないがうちの本社ビルは小さいほうではない。あの高さから落ちれば死ねないはずはない。
なら、いまのこの状況はいったいなんだというのだ。
「ごきげんよう。お嬢様」
突然、誰かに声をかけられた。
なんとか声を上げるのは我慢できたというのに、その姿を認めた瞬間、耐えられずに叫んでしまった。
目の前の生き物は、明らかに人間ではなかったからだ。
◆如月 弥生◆
――勤務していた製薬会社の本社ビル屋上から落下して死亡。
あなたは、いったいなんなの?
ウサギ? 見たままね……。
司書? この図書館の? 待って。頭がついていかない。
どう考えてもおかしいのよ。私は確かに死んだはず。
死後の世界? ここが? 通過点かもしれない? どういうこと?
けれど、そうなのね。私、きちんと死ねたんだ。よかった。もしかして、生き残ってしまったのかと心配していたの。
なんで、死を選んだか?
あなたには関係ないでしょ? でも、そうね。結局、好きでもない人と結婚なんてしたくない、っていうのが一番の理由だったのかも。
いわゆる政略結婚っていうの? ぜったい嫌だと思ったけれど、断ることもできなくて。それで。
くだらない、って思う? けれどね、私には大切なことだったの。私の母は好きでもないひとと結婚して、ほったらかしにされて、別の人と不貞をした上で死んでいったから。
嫌いだった? 母のこと? どうだろう。でも、あんな風に醜く死ぬのは嫌だと思ったかな。夜の道路で車に轢かれて、腕とか足とかちぐはぐに曲がって――。
あ、でも、私の死体もそんな感じなのかな。もし、そうだとしても、仕方ないのかもね。自業自得……いえ、因果応報かな。
お姉ちゃんのこと? 好きだったよ。すごくかわいがってくれた記憶しかない。
でも、先生がお姉ちゃんのこと好きなんだってわかってからは、ちょっとギクシャクしちゃってたかな。それから、あんなことになって――。
ホームレス? 違うよ。お姉ちゃんを殺したのは、先生。
私、見ちゃったんだよ。あの夜、床に倒れているお姉ちゃんに先生が覆い被さってるのを。
先生のこと最低だと思ったけれど、後になって、警察がお姉ちゃんが性的暴行を受けた形跡はないってお父さんたちに言っているのを聞いて、ちょっとだけ安心した。変だよね。先生がお姉ちゃんを殺したって事実は変わらないのに。
当時の私は先生のこと大好きだったから、とにかく先生のこと悪く思いたくなくて、先生がお姉ちゃんを殺してしまった理由を必死で考えたよ。
それで、思いついたの。お母さんのことがお姉ちゃんにバレたんじゃないかって。
馬鹿だよね。先生のこと嫌いになれなくて、そのぶん、お母さんのことをどんどん憎むようになって――。
ウサギさん、色々聞いてくれてありがと。いままで誰にも言えなかったから。ちょっとだけすっきりしたよ。
◆◆◆
鈴の音が鳴った。身体がビクンと跳ねる。
反射的に扉の方を見たつもりが、そこに扉などなかった。
あるのは本棚と本ばかり。
無機質なコンクリートの壁以外のものを見るのは、いったい何年ぶりだろうか。
「なに。ここ。どこ?」
自分がなぜここにいるのか。そもそも、あの部屋以外の場所にいるということ自体が理解できない。そんなことが有り得るのか。ついに幻覚を見るようになったか。
「ごきげんよう。お嬢様」
声をかけられて、反射的に身を竦める。違う。彼の声じゃない。
「あなた、誰?」
おそるおそる顔を上げると、そこに立っていたのは燕尾服を来たウサギだった。
「当図書館の司書をしております。ウサギとお呼びください」
◆苣田 禰子◆
――都内某所で十五年間監禁された後、刺殺される。
なに……。なにが聞きたいの。
如月アリス? また、その話……? もういいわよ。如月さんの話ばっかり。
彼は私がやったって思い込んで、ずっとその話をしては私を殴って。いいかげんうんざりよ……。まあ、でも、そのおかげでずっと彼と一緒にいられたんだけれど。
あの日、彼と如月さんが夜の公園で会う約束をしていたの。偶然、それを聞いて私は約束の時間の少し前から公園にいた。
二人が会っているところを見てどうするかなんて考えてなかった。ただ、悔しくて妬ましくて、いてもたってもいられなかった。
如月さんは公園に現れたけど、彼は姿を見せなかった。
ほっとした。
もしかしたら、彼は如月さんのことが好きなんじゃないかと思っていたけれど、そうじゃなかった!
それから、しばらくして、如月さんは公園を離れて自宅に帰ったのだけれど、すぐに出てきたの。
手には脚立とロープを持っていた。警察が通りかかったら間違いなく補導されていただろうけれど、幸い、そうはならなかった。
公園に戻った彼女は流れるように準備をした。桜の木の枝にかけたロープでなんの躊躇もなく首を吊ったわ。
あまりのことに呆気にとられて、私は桜の木に揺れる如月さんの姿をそのまま眺めていた。
三十分以上経ってからだと思う。ロープをかけていた枝が折れた。かけた枝が細過ぎたんだと思う。
いいえ。折れるまでの間、公園には誰も来なかったわ。
落ちたとき、彼女声一つ上げなかった。きっと、もう死んでたんだよ。
私はまわりに誰もいないことを確認してから、芝生の上に転がっている彼女のそばに近づいてみた。
きれいだった。
月明かりに照らされたその姿は、首筋にはくっきりとロープの痕があるのに、それ以外はなんにも汚いところがなかった。
腹が立った。死んでもきれいなままだなんて許せない、と思った。
……そうよ。たしかに、私が如月さんのことを刺した。
ナイフは……偶然、落ちてたの。
本当よ。そばに落ちていたナイフで、如月さんの胸やお腹を何度も何度も刺した。
白いワンピースが真っ赤に染まって、顔も身体も血塗れになって、ようやく如月さんはきれいじゃなくなった。
そうよ。きれいじゃない如月さんのことなんて、彼もきっと好きじゃなくなる。
彼女が亡くなった後、しばらくして、彼のほうから声をかけてきてくれて、私たちは付き合うようになった。
大学を卒業して、彼が一人暮らしを始めるって言ったから、私も一緒に住みたいって。そしたら、彼、うちの親を説得しようとしてくれて――。結局、許してもらえなくて、駆け落ちみたいになっちゃったけれど。
気がついたら、いつの間にか部屋から出してもらえなくなってた。
最初は、私のことが好きすぎて、他の男に会わせたくないとか、他の人の目に触れさせたくないとか、そういうことなんだと思ってたけど、だんだんそうじゃないんだってわかってきた。
ああ、そうか。この人は、こうしたいがためにずっと私と一緒にいたんだなって思った。
そっか。やっと終わったんだ。
よかった。
◆◆◆
鈴の音。
軒先に出していた風鈴の音かとも思ったが、明らかに音の質が違う。
そもそも、ここはどこだ。
おれは自室で横になっていたはずだ。ここしばらくは身動きひとつとれなかったというのに、いま、身体はある程度自由に動く。
「ごきげんよう。旦那様」
どこからか声をかけられた。
声のほうを振り向くと、おかしな生き物が立っていた。
ウサギの頭部に燕尾服。映画やドラマに出てくる執事のような佇まい。
「君は、いったい」
「私は当図書館の司書にございます。ウサギ、とお呼びください」
◆八田 匡◆
そうか。おれは死んだのか。
大丈夫。もう長くはないだろうと感じていた。
ここ二、三年は徐々に体調が悪化していた。もういい歳だから仕方のないことだよ。
え。病死の人間はここには来ないのかい?
……そう言われても、おれは病死のはずだが。
如月アリス? ああ。懐かしいな。如月が――彼女が亡くなったのは何十年も前だが、いまでもよく覚えているよ。
当時のおれと彼女は周囲と馴染めていないという点でよく似ていた。生きることにあまり執着していないことも――。
いま、考えると決定的に違ったのは死への考え方だろうか。
おれのはただの逃げだったが、彼女は……なんというか死に憧れのようなものを抱いていたように思う。
学校で話したことはそれほど多くなかったと思う。
おれたちは夜、公園やファストフード店で会ってよく話した。彼女はいつもコーヒーしか口にしなかったな。
◆◆◆
「ねえ、八田くん。私のこと殺してくれない?」
一瞬、耳を疑った。
たしかに、そういった話はよくしていた。というより、如月とはそういう話ばかりしていた。
「ちょっと待ってよ。おれが? 君を殺すの?」
彼女は微笑を湛えたまま、こちらをじっと見つめている。
「そうよ。死んでも構わないって言っていたじゃない。私を殺した後、あなたも死ねばいい」
正直、そんな勝手なと思った。
死にたいなら一人で死ねばいいじゃないか。
「どうせなら、貴方の手で殺されたい。そう思うのはいけない?」
如月の双眸がおれの目を捉えて離さない。肉食獣に睨まれた草食獣のような気持ちに苛まれる。目の前にいるのは同学年の少女にすぎないというのに。
「……本気なの?」
「もちろん」
彼女の言葉に嘘はない。直感的にそう感じた。
たしかに、死んでもいい、死にたいと言ったこともある。
けれど、実際に突きつけられると、困惑してしまう自分がいた。情けないことに。
しかし、異性にここまで求められるというのも悪い気はしない。たとえ、それが殺人依頼だったとしても。
「本当におれでいいの?」
如月の瞳は少しも揺らがない。
「貴方だから言っているのよ」
心が揺らぐ。
本気で死にたいと思っていたかというと、疑問だ。
おれは一人っ子で、母一人子一人で、母はいつも仕事が忙しくて。
無理を言って、うちで飼っていたペットも少し前に亡くしたところだった。
正直、死んでしまってもいいかとも思っていたが、積極的に死ぬことを考えていたかというと、そこまでではなかった。
現実が上手くいかず、そこに喜びや楽しみが見い出せないがために、死ぬことをぼんやりと考える、そんな程度だった。
目の前の少女は、それを至高のものとして考えている。
そこには、天と地ほどの隔たりがあるように感じた。
今まで共感にも似た感情を持っていたのに、突然、目の前の少女が得体の知れないなにかに変わったような錯覚を覚えた。
「ちょっと考えさせてくれない?」
「じゃあ、一週間。一週間後の深夜日付が変わる頃、いつもの公園。桜の木の下で待ってる」
そう言うと、彼女は席を立った。
去り際に、
「来てくれるって、信じてるから」
彼女はその美しい笑顔で、無慈悲にそう告げた。
◆◆◆
当日。
おれはやはり決心がつかなくて。
自宅を出たものの、公園に足を向けることができずにいた。
いつものファストフード店。ハンバーガーとポテトを頼んで少しずつ手をのばす。
約束の時間の五分前。いまから行っても遅刻だろう。それでも、公園に向かうべきだ。この手で実行するにしても断るにしても。
頭ではそうすべきだとわかっているのに、彼女を殺すのも、彼女に落胆されるのも恐ろしくて、結局、動けずにいた。
ポテトを食べきってしまってようやく我に帰った。
時計を見る。
深夜一時を過ぎていた。
如月はどうしただろうか。
おれが来ないことで思いとどまってくれただろうか。
いや。
彼女の死への思いが、そんな生半可なものではないだろうことはわかっていた。それでも、そう願わずにはいられなかった。
おれは彼女に死んでほしくないのか。
そうだとわかったときにはもう約束の時間を二時間も過ぎていた。
もう遅いかもしれない。
そう思いながらも公園に向かっていた。
夜の闇に桜の花が舞っていた。
桜の花びらに埋もれるようにして、彼女が倒れていた。
近くに足場にしたのであろう脚立があった。
彼女の首にはロープが巻き付いていた。
脚立に乗って、ロープの輪に首をかける姿が目に浮かんだ。
彼女はすでに息をしていなかった。
とても安らかな顔をしていた。首吊り死体なんてもっと醜いものだと想像していた。
だとしても、こんなのは間違っている。
死んでほしくない。死なないでほしい。そう思っている自分がいた。
勝手なのはわかっている。
自分の手で殺すのも、彼女が死のうとしているのを止めることもしなかったくせに、いまさら死んでほしくなかったなんて。
それでも、そう思ってしまったのだ。
――どうせなら、貴方の手で殺されたい。
彼女が言っていたのを思い出す。
ポケットの中のナイフに手が触れる。――彼女を殺すために用意していたものだ。
取り出して、鞘を払う。
抜き身となったナイフは月の光を受けて、微かに光る。
せめて、彼女との約束を守ろうと、ナイフを振りかぶる。
見下ろした先で、彼女は身動ぎひとつしない。
青白い顔をしてはいるが、目も舌も飛び出ておらず、下腹部も汚れていない。
まるで、ただ眠っているかのようだ。
――どれくらい、そうしていただろう。
おれは、振りかぶったナイフを下ろすことができずにいた。
夜の闇の中、自分の荒い呼吸だけが聴覚を支配している。
なぜだ。
なぜ、こんな簡単なことができない。
ただこのナイフを、彼女の心臓に突き立てるだけだ。
なのに、なぜ――。
振り上げた両腕が徐々に痺れてきた。
いつまでもこのままというわけにもいかない。
時間にすれば一瞬だったのかもしれない。けれど、おれには永遠にも似た時間だった。
ナイフを振り上げている間だけは、彼女はいつまでも目の前に存在しているような、そんな錯覚に苛まれる。
ダメだ。いつまでもこうしてはいられない。
こんなところを誰かに見られたら――。
いよいよ腕は痺れて感覚がない。
意を決して、振り下ろす。
――刃はむなしく地面を抉った。
土の感触だけがこの手に残った。
眼前にある彼女の姿は、あまりにも美しかった。
その彼女を自分の手で汚すことなんて、できるはずがなかった。
ナイフから手を離す。
桜の花の上に横たわる彼女の姿をしっかりと脳に焼き付けて、おれはその場を後にした。
永遠に忘れないように。
◆ウサギ◆
来訪者を告げる鈴の音が鳴った。
穏やかな目をした老人だった。見るからに寝間着といった装いからは、およそ事故や事件といった匂いはしない。
こういう老人が図書館を訪れるのは極めて稀だった。
しかし、ここに来たということは、ただ寿命で亡くなったということはないのだろう。
目の前の老人の匂いにどこか懐かしさを覚えながら、上階でなにか動く気配を感じて、そちらに目を遣る。
如月アリスがこちらを見下ろしていた。
彼女が書から目を離して、これほどはっきりと来訪者のことを見ているのを私は初めて見た。
如月アリスのことを訪ねると、老人は遠い目をしながら、つらつらと思い出話を巡らせている。
それはおよそ他人に聞かせられるような話ではなかったが、自らの死を自覚しているからか、なんら隠す様子は見受けられなかった。
老人は一通り話し終えると、息を整えてこちらを見た。
老人の表情が驚きに固まる。その目は私を見てはいなかった。
振り返ると、如月アリスがそこにいた。
彼女が上階から下りてきたのはいつぶりだろう。
老人の目に涙が溢れてくる。
「如月? ほんとうに? 如月なのか」
少女は笑みを浮かべる。
「あなたって本当に、いつまでたっても他人行儀なのね。一度くらい名前で呼んでくれてもいいのに」
老人の目に宿る光は複雑過ぎて、私にはその感情を推し量ることができない。
「如月。ほんとうにすまなかった。おれが決断できなかったばかりに、君を一人で逝かせて。あんな死に方になってしまって――」
アリスはただ黙って首を振る。
それは、私は汚されてなどいない、という意味だったのだろう。
たとえナイフで滅多刺しにされて、血塗れになっていたとしても、それは自分が肉体から離れた後のことなのだから気に病む必要はないのだ、と言っているように思えた。
彼女の微笑みの意図がそうだとして、それがまったくの嘘であることを私は知っていた。
彼女に嘘をつかせたのは彼への優しさからか、彼女自身の矜持からなのか。それはすべてを知ってしまった私にもわからない。
◆◆◆
少女との再会が老人にとって救いになったのかどうかはわからない。
ただ目の前の老人が、これまでここを訪れたすべての者たちと同様、光に包まれた後一冊の書になるその瞬間、笑顔を浮かべているのがわかった。
その表情を見て、ついさっきまで彼だった書を手に取ってページをめくるうち、私はようやく安堵した。
彼がここへ来てしまったときにはどうしようかと思ったが、彼の人生は決して悪いものではなかった。少なくとも私にはそう思えた。
彼はたしかに、アリスの望みを叶えられなかった後悔から、他人を苦しめ、何人かを死に追いやり、自らもその最後は他者に何らかの方法で殺害されたのかもしれない。
それでも、不幸な人生を送ったわけではなかった。
それだけで私はもう満足だった。
この図書館に司書として居座るようになって、どれほどの時間が過ぎ去っただろう。
やっと、終わりにできる。
私が、何度も何度も目にしてきたあの光に包まれながら思い出していたのは、幼き日に初めて見た飼い主とその息子の幸せそうな笑顔だった。
◆◆◆
鈴の音が鳴った。
目の前に広がるのは本と本棚ばかりの光景。
他はすべて本棚に整然と並べられている中で、一冊の本だけがフロアの床に落ちている。
手に取って、開いてみる。
そこに書かれていたのは、一人の少女の人生。
◆如月 アリス◆
――公園で首吊り自殺を試みる。
その後、クラスメイトにより刺殺される。