五、レイガー⑧
シェルはそのまま真っ直ぐにゼールの執務室へ戻る気にはなれず、中庭へと向かった。あいにく空は曇りで、こんな時に限って元気な太陽は姿を隠している。今にも雨が降り出しそうな中庭のベンチに座り、シェルはぼーっとしていた。
まさか、国王から帰国の命令が下るとは思ってもみなかった。
(それもそう、か……。私は、『極上の生贄』としてこの国に来たんだもんね……)
ここ最近のゼールとの生活で、どこか自分は特別なのではないかと思っていた。しかしそれはただの思い上がりに過ぎなかった。
(私、バカだな……)
周りの人間が言うように、自分は『極上の生贄』であり、それ以上でもそれ以下でもない。ゼールに対しての自分の気持ちは本物だったとしても、ゼールからの気持ちも同じとは限らないのだ。
(同じどころか、きっとみんなと同じだよね……)
そう、自分のことを『極上の生贄』としか思っていないに違いない。
そんなことを思えば思うほど、シェルの気持ちはどんどんと沈んでいく。気付けば空からぽつりぽつりと雨が降り出してきていた。
(雨、か……)
シェルは暗い空を見上げる。すると我慢していた涙が一筋こぼれ落ちた。
(あ、あれ……? 私、泣いてる?)
ぼやける視界にシェルは自分が泣いていることに気付く。涙を拭っているうちに雨脚は少しずつ強くなってきて、とうとう本降りになってしまった。
(部屋に、帰らないと……)
雨に打たれながらそう思うものの、シェルの身体はなかなか言うことを聞かず動かない。そのうち涙なのか雨粒なのか分からなくなるくらい、しゃくり上げて泣いてしまった。
(私……、ゼール様のお傍から離れたくない……)
ゼールの肌のぬくもりを思い起こしては、胸の中が苦しくなってしまう。シェルはしばらく、雨に濡れながら思い切り泣いたのだった。
翌日。
シェルは高熱を出して倒れてしまった。
「全く。ゼール様の世話係が聞いて呆れますね」
「ごめんなさい……」
シェルの枕元にはフォイが座っており、シェルの看病をしていた。昨日、雨に打たれてずぶ濡れになっていたシェルはベッドの中でおとなしくしていた。
今朝、何だか身体が重いと感じながらも、いつものようにゼールの執務室へと向かったシェルはあまりの顔色の悪さにゼールに叱られた。
「お前、こんな体調で良く来たなっ? 黙って部屋で休め!」
そう言ったゼールはすぐにフォイへシェルの看病を命じたのだった。
フォイの態度からはその命令が不本意だったと言うことが伝わってくる。フォイの口から出てくる不平不満がシェルにとっては耳の痛いものばかりで、申し訳なく感じてしまうのだった。
「だいたい、自己管理もできないなんて、王族失格ですよ」
「ごめんなさい……」
「謝ってばかりですね。それで済むなら今、私はあなたの看病をしていないんですよ」
「はい……」
フォイの言動からシェルに対して良い印象を持っていないことが伝わってくる。弱っている時だからこそ、それはシェルにとって刃となってグサグサと突き刺さってしまうのだった。
そうして正論を言われ続けていた時だった。
「そんなに自国へ帰ることがお嫌ですか?」
唐突に出たフォイの言葉にシェルは驚いて目を丸くする。その様子を見ることなく、フォイは言葉を続けた。
「何故知っているのかって顔をしていますね。あなたが人間国へ帰れるように国王様へ進言されたのは、他ならぬゼール様ですからね。喜んでください」
「ゼール様が……?」
思わぬ人物の名前にシェルの頭は混乱する。しかし昨日の雨の中、なんとなく予感していたゼールの気持ちに触れた気がした。
(ゼール様は、やはり私のことをただの『極上の生贄』としか思ってはくださらなかったのですね……)
それは覚悟はしていたこととは言え、やはりシェルにとってはショックなことだった。熱を出しているのとは違う、めまいの感覚に襲われてしまう。そんなシェルへ、
「シェル様。あなたの王族としての理想は何だったんですか?」
そう言ったフォイの言葉が突き刺さる。
(私の、理想……?)
ここ最近はゼールの腕の中にいることが幸せすぎて忘れていた。
自分がどうしてここまで、ゼールに惹かれてしまったのかを。
ゼールが見せる、国民への思いや、その行動。そしてゼールが持つ王子としての信念に、シェルは惹かれたのだ。
自分もそんな姫になりたい。
自分も、国民への思いを形にできる姫になりたい。
そう思っていたはずなのに、いつの間にかゼールの身体の虜になってしまっていた。自分を見失っていたのは、レイガーで苦しんでいるゼールではなく自分の方だったのだ。
「信念を持った王族になってください、シェル様」
フォイはそう言い残すと、また来ます、と言って一度シェルの部屋を後にした。
シェルはうつらうつらとする意識の中で、今までの自分について省みる。初めてゼールの身体を知った時から、自分はもう王族とか、姫とか、そう言うものを全て忘れていた。ただただ、ゼールの腕に抱かれていたかった。あの温かい腕の中が心地よくて、全てどうでも良くなっていた。