五、レイガー④
それからゼールの執務室へと戻ったシェルに、ゼールがニヤニヤした笑いを浮かべながら声をかけてきた。
「早かったな。洗濯なんてできずに尻尾を巻いて逃げ帰ってきたか?」
その嫌味な言い方にシェルはきょとんとした表情を浮かべた。
「何を仰っているのですか? 確かに、途中で使用人の女性がいらっしゃったので、残りの洗濯をお願いしましたけど……」
「まさか、それまで一人でやっていたのか?」
「そうですけど……」
シェルの言葉にゼールは信じられないと言う表情を浮かべる。箱入りの姫が洗濯を難なくこなしてしまうなんて、ゼールにとってはあり得ないことだったのだ。
「シェル、そこで少し待っていろ」
ゼールはそう言うと執務室を出て行ってしまった。残されたシェルはおとなしく、いつも座っているソファに座る。そうしてしばらく待っていると、血相を変えたゼールが戻ってきた。
「お前……、本当に自分で洗濯したんだな……」
「さっきからそうだと言ってるじゃないですか」
シェルはおかしくなってクスクス笑った。ゼールは思惑が外れたことにまだ驚いているようだったが、
「ま、まぁ、俺の世話は何も洗濯だけじゃないからなっ!」
そう気を取り直したようだ。
「俺の私室に特別に入れてやる。掃除してみろ」
「ゼール様のお部屋をお掃除したら良いのですね? お任せください」
シェルはそう言うと、ゼールの私室へと初めて足を踏み入れた。ぱっと見たところ、とくに気になるところはない。整然としているゼールの私室に、
「ゼール様、こちらのお部屋、使われていますか?」
シェルは思わずそう質問してしまう。あまりにも整然としていて、生活感が感じられなかった。良く見ると、調度品の上にはホコリも被っているように見える。
シェルに問われたゼールはバツが悪そうな顔をしながらも、
「いいから、この部屋を掃除しろ」
そう言って部屋から出て行ってしまった。残されたシェルはとりあえず、調度品の上に被っているホコリを拭き取っていく。そのさなかだった。シェルはベッドの傍の壁が目に留まった。そこには、
(爪痕……?)
まるで鋭い爪で引っかいたかのような爪痕が、壁にあったのだ。それを見たシェルの胸が痛んだ。これは夜な夜な、ゼールがレイガーの衝動を堪えてできていたものだろうと想像ができたからだ。
(ゼール様の衝動を、早く何とかして差し上げないと……)
シェルはそう思いながら、拭き掃除を続けるのだった。
それから少しの時間が経った。シェルはゼールの部屋の掃除を終え、ついでに殺風景だった部屋に花を飾る。少しでも、ゼールの心を慰めてくれたら、と言う心づもりであった。
「できました」
シェルは仕事中のゼールに声をかけた。ゼールは待っていたとばかりに腰を上げると自室へと向かう。その後ろは、当然のようにフォイの姿もあった。
ゼールは自室の室内を見て呆然とした。日頃から寝ることにしか使っていなかった部屋だったが、床や調度品の上に溜まっていたホコリが綺麗に拭き取られている。花まで飾ってあるのは、いかにもシェルらしいと思えてしまった。
「これはこれは……。シェル様、お見事ですね」
後ろからこの様子を見ていたフォイがゼールに追い打ちをかけるかのように言う。
「シェル様は、家事がお得意なのですね」
フォイの言葉に、シェルは幼少からやっていたことを伝えた。この誤算にはゼールもお手上げだ。深いため息をついて、
「分かったよ。お前はこれからも俺の世話係をやれ」
そうぶっきらぼうにシェルに告げるのだった。
それからの日々、ゼールはシェルに『帰れ』とは言わなくなった。代わりに自分の身の回りの世話をシェルにさせている。
シェルはゼールとの距離が近くなったことが嬉しく、進んでゼールの世話を焼いていた。端から見れば、二人が付き合っていないことが不自然に思えるほどだ。
時々ゼールのレイガーによる発作が見られたものの、それもすぐに押さえ込んでしまうゼールは、本当にレイガーに対抗できるのではないかとシェルに思わせてくれていた。
そんなある日。
「ぐっ……、うっ……」
「ゼール様っ?」
再びゼールにレイガーの発作が見られた。シェルは急いでゼールの元へと駆けつけようとしたのだが、
「来るなっ!」
大声でゼールに拒絶されてしまった。
「どうして……?」
呆然と立ち尽くすシェルに、後ろに控えていたフォイが言う。
「本格的な発作のようです。今までとは比べものにならないくらいでしょう」
「そんな……!」
フォイの冷静な言葉を聞いて、シェルはゼールの制止を無視して傍に駆け寄った。
「ゼール様! 苦しまないでください! 私は、あなたの苦しみを和らげるためにここにいるんです!」
その言葉はシェルなりの決意の証しだった。ゼールと過ごす日々の中で、この人になら自分の初めてを捧げても後悔しないと、そう思ったシェルの言葉だった。しかしゼールは、
「ふ、ざけるな……!」
そう言ってシェルの言葉を受けとめてくれない。その間もゼェゼェと息が荒くなり、呼吸をするのも苦しいのは明白だった。そんなゼールの様子を見ていられず、シェルはゼールの荒い呼吸をする唇に自らの唇を押しつけた。
「……!」
余りに突然のことで、ゼールは目を見開く。唇を離したシェルは顔を真っ赤にしながらこう言った。
「ゼール様、お願いします! 私を、食べてください!」
「おまっ……!」
しかし、ゼールはその次の言葉を継ぐことができなかった。再びシェルから唇を塞がれてしまったのだ。