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◆第1話 「僕が彼女を殺そうと思っていることを、彼女はまだ知らない」

 完全で無垢な暗闇だ。


 何も跳ね返らず何も映し出さない。ただ前を歩く女性の足音だけが、目を閉じた真っ暗な世界の中で、さまようように響き渡っていた。


 僕は耳に神経を集中させる。ただただ、その足音にタイミングをあわせることだけに気をつける。彼女のタイミングをずらさないよう、ひっそりと息を殺して存在を隠し、僕はまるで影のようにあとを追って歩いていた。彼女の後ろを離れずに近づかずに。


 耳を澄ませる。彼女の歩幅、音の軽さ、刻まれるリズム。混ざりあった要素の中から、純粋なリズムだけを取り出す。大事なのはリズムだ。僕は彼女の歩くリズムを心に刻みながら、深く深く息を吐き出した。



 

 真っ暗な世界、この世界では何もかもが自由だ。




 僕は彼女の足音のリズムと、自分の呼吸をあわせながら、ゆっくりとゆっくりと意識を地面に集中させた。這うように意識を地面に落とす。


 それから僕は、意識を集中させた地面からまっすぐ上に向かって、真っ白な線を引いた。目を閉じた真っ暗な世界に、真っ白な線が一本浮かび上がる。それは地面から伸びる彼女の脚の骨だ。何もない世界に彼女の脚の骨だけが浮かび上がる。


 気を休めずに僕は、そこから腰骨を作りはじめた。少しだけつりあがった腰骨。姿勢が悪いのか、ケガでもしたのだろうか。彼女の腰骨は左側に重心がかかって沈んでいる。そのゆがみも計算に入れ、腰骨を再現し終わると、僕はそこから迷わずに背骨、そして肋骨へとつなげた。


 人体の骨格のうち、肋骨までは再現するのがたやすい。


 もう何千回と繰り返してきた作業だ。ただ紡ぐだけ。あるべき所にあるべきものを。


 だが頭蓋骨は気難しい。


 だから肋骨まで作り上げたあと、僕は水深二百メートルまで潜るように、大きく深く呼吸をした。肺の隅々まで酸素が行き届くように限界ギリギリまで空気を吸い込む。


 取り込んだ酸素がつきぬうちに、僕は頭蓋骨の再現にとりかかった。ゆっくりと丁寧に焦らずに、それだけを心がける。アリが進むようにゆっくりと地道に頭蓋骨を作る。薄い膜を徐々に徐々に上へと積み上げていく。一秒間に一ミリだけ刻む。根気のいる作業だ。誰にでもできるわけではない。そう思う。


 下あごから、口へ。口から鼻へ。セロファンフィルムを重ねるように、一枚一枚つみあげていく。鼻から目に。目から額に。その場で倒れそうになるほど集中をして、頭蓋骨を紡いでいった。額から頭頂部にかけてゆっくりと。

 幾層にも積み上げられた薄い白い膜がようやく頂点で結ばれたとき、僕はパッと目を開けた。


 すべてを遮断していた僕のもとに、まぶしさとともに、自動車のひどい騒音が飛び込んだ。海底から帰還して、僕は大きく息を吸い込んだ。


 僕は光の中に残る残像と、目の前を歩く女性とを照らしあわせた。輪郭が一分の隙もなくぴたりと重なり、満足げに一人でうなずく。我ながら、なかなかいい出来だった。


 僕はタッパーにしまうように、作りかけの人体を頭の隅にしまいこんだ。ここまで来ればあとは十分だ。続きは家でもできる。一仕事を終え、先を急ぐために、僕は目の前を歩いている女性を追い抜いた。


 交差点の角にあるローソンを右手に折れると、駅前の繁華街に出る。待ち合わせの相手はもうすでにそこで待っていた。彼女は駅前のガードレールにもたれかかって時計を見ていた。


 遠くから彼女に呼びかける。


 彼女は僕の姿を見つけると、笑顔で手を振った。思わず僕も笑顔がこぼれる。少しだけ足を速めて彼女に近づく。


「みんなは?」


 五メートルぐらい手前から呼びかけると、「まだみたい」。


「そう」


 僕は彼女のとなりで立ち止まり、彼女がもたれている壁に、横に並んで背中を預けた。そっと彼女を見つめる。


 肩まで伸びるまっすぐな髪と、空を覗き込む彼女の大きな瞳を。


 僕は彼女のことが好きだった。


 空を眺める。電線に区切られた空。


 それが空と僕とを遮断していた。




 不来方の

 お城の草に寝ころびて

 空に吸われし十五の心





 石川啄木の詩を思い出して、少しだけ哀しく思った。立ち並んだビルが僕のまわりから地平線を奪い、空への逃げ道は電線に遮られている。


「遅いねえ、みんな」


 つぶやく彼女に僕は小声でコタエル。


 彼女をもう一度見つめる。彼女はまだまっすぐで偽りのない様子で無邪気に空を眺めていた。


 僕が彼女を殺そうと思っていることを、彼女はまだ知らない。

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