純文学とは何か
我ながら厳しいタイトルをつけたものだと思う。
しかし、私はこれを語れる人間であると自負している。
古今東西の優れた文学作品を無数に読んで来たわけではない。
過去に権威ある文学賞を受賞したことがあるわけでもない。
純文学について立派な考察の出来る頭があるわけでもない。
しかし、世間一般的に思われている『純文学』に対して、物申したいことが、私にはある。
ただそれだけで、つまりはあんまり他人が言ってないことを自分は言えるように思うので、ゆえに私は純文学について語れる人間なのである。(←批評文、論文は『断定口調』で書くのが基本と習った)
さて、純文学とは何か?
世間一般的には次のような定義がなされているように思われる。
『立派なもの』
『難しそうなもの』
『過去の優れた文学作品みたいなやつ』
『つまりは漱石や太宰、ドストエフスキーやあんな感じの真面目なやつ』
あるいは、
『教科書に載ってるようなやつ』
確かにそれは純文学である。
そうですね、としか言えない。
しかし、パロディーは別として、それらを真似て書かれたものは、最も純文学から遠いものであると、私は言いたい。
SF小説といえばどんなものか。
とりあえずサイエンスフィクションだから、科学的な虚構でなければならない。
でもSF『っぽい小説』もSFと呼ばれる。
過去の優れたSF小説みたいな雰囲気があれば、大した科学的基礎がなくてもSF小説と呼んでいい、みたいな。
では純文学はどんなものか。
とりあえず純だから、純粋なものでなければならない。純粋とは何かは今は置いておく。
でも純粋『っぽい小説』も純文学と呼ばれているのが現状だ。
過去の優れた純文学みたいな雰囲気があれば、別に本当は純粋じゃなくても純文学と呼んでいい、みたいな感じである。
果たして本当にそうであろうか?
否! と、私はそこに物言いをつけたい。
現状、純文学と呼ばれているものは、むしろそちらのほうがメインである。
純文学『っぽい』ものこそが、現代では本物の純文学とされてしまっているのである。
さてここで、それでは『純文学』の『純』とは何か? ということについて触れて行きたい。
純喫茶みたいなものだろうか? 純喫茶って何? 私は知らないのでこれから調べてみる。
(検索中)
……よくわからなかった。
営業許可の内容によってカフェ、喫茶店、純喫茶に分けられるようであるということしかよくわからなかったが、たぶん、純喫茶とは純粋に、コーヒーだけを出すお店ということなのであろう。アルコールとか料理とかは、出せない。
では純文学も、そんな風に、限られたものなのだろうか?
真面目な感じで、エンターテインメント小説にあるようなそういう面白いものは出してはいけないような、ストイックで厳かで、人間の本質とかそういうものしかお出ししてはいけないような、ふざけたことを書くのは許可されていないようなものなのだろうか?
それならポストモダン文学の作者さんの作品は大抵純文学ではないということになってしまう。
面倒臭いので結論から言おう。まず私は『純文学』という言い方が好きではない。
なんだかとても権威的な、偉そうな匂いがする。産まれた時から元々そうだったのかは知らないが、後世の人がみんなでつけたような、御立派な装飾がゴテゴテとつけられて、それでいて『シンプルですよ?』『清貧ですが?』みたいな澄ました平安貴族顔してて、私は気に入らない。
過去の優れた文学作品をファッションみたいに身に着けて、『私が純文学です』『とても偉いのです』『これこそが正しいものなのです』みたいに上から目線で見下ろして来るような感じがして、スネとか蹴りたくなってしまう。
むしろアンタは偽物だよと真実を突きつけてやりたくなる。
真実。
そう、真実だよ。
ここで私が『小説とは何をどういう風に書いてもいいものだ』と主張すれば、純文学のやつに、こう言われそうである。
「貴様は過去の優れた純文学作品を馬鹿にする気でおじゃるか」
「過去の優れた純文学作品のようなものだけを書くがよろし」
「なんにも知らないバカのくせに意気がるんじゃないですわよ」
ごめんなさい。
その通りです。
その通りです……が!
カビ臭い過去の優れた純文学作品の物真似する意味が現代にどれだけあるんじゃー!?
その後、昭和ぐらいからたぶん村上春樹とかのポストモダン文学からまた『文学っぽい』の意味は変わったんだと思うけど、それの物真似してオシャレっぽくしたりアラレちゃんのパロディーっぽくしたりすることにもどんな意味があるんじゃー!?
好きにすればいいじゃない。
その場合の『好きにする』は、たとえばドストエフスキーの真似を好きにするとか、村上春樹みたいなのを好きに書くとか、そういうんじゃなくて、
本当に、すべての価値観をリセットして、何もないところから、そこに残った自分が好きなものを好きに書けばいいじゃない。
もちろん出来上がったものはどこかで見たような、何かに似たようなものにはなるかもしれない。
いやむしろそうでなかったら読んでも読者がチンプンカンプンで、誰にも読んでもらえないかもしれない。
あぁ……
なんか疲れた。
とりあえず『いかにもな純文学』は、最も純文学から遠いものである。
いわば純文学とは世に溢れる純文学っぽい装飾の裏をペラっとめくって覗いてみたら、そこにキョムさんという名前のナニカがいて、そいつが「ようやく見つけてくれたー」とか涙するような、なんかそんなものなのである。
純粋に自分が見つけたもの、自分の中から出たもので、SFだとかホラーだとかには当てはまらないなと思ったものならば、なんでも純文学なのである。
カビ臭いのも偉そうなのもいかにも純文学っぽい雰囲気のも『権威系文学』とでも名付けてどこかにうっちゃってやりたい。
だって私は純文学が好きだから、その名前から『純文学とはこうあるべきでおじゃる』みたいな雰囲気を取り去りたいのである。
逆なのである。
『純文学とは【こうあるべき】をぶっ壊して、そこに自分をぶち込んで笑い飛ばしてやるもの』なのである!
ははっ。本当かな?