ホテル夜勤で会った女
私はビジネスホテルに勤めている。深夜2時前のフロント。夜勤が好きだ。この時間にここに来る人と私は、どこかしら不器用なところが似ている気がして、勝手に友達になれそうだと思っている。少し不機嫌だったり、上の空だったり、ニヤニヤしていたり、疲れきって寂しそうな顔を見て、ここに来るまでに何があったのだろうと想像する。
10センチ近いヒールのパンプスにスーツを着た女が入ってきた。手にはルームキー。足元は於保つかず、ふらついていた。酒の匂いがしなくても、かなり酔っていることは遠目でもわかった。
「おかえりなさいませ。お客様、大丈夫ですか?」
「だーいじょうぶ。ぜんっぜん、大丈夫。」
そう言ってフロントカウンターにもたれ掛かった。
「あなた、今暇でしょ。ちょっと聞いてくんない?」
半分しか開いていない目を細め、笑っていた。
こういうことは、よくある。私はこれが楽しみなのだ。深夜に酔って話を聞いてくれという人は、その時抱えている荷物や心の傷を見せてくれたりする。そこには思いもよらないドラマがあって、その傷と荷物を抱えながら客室に入り、翌朝にはケロッとしていたりする。今日はどんな話が聞けるのだろうか。
「っていうか、あんた、その頭、ダサいわね」
ひゃーっはっはっは、と私の頭を指差して笑い転げた。
「あぁ、これですか、すいません。ここの規定でおでこを出さなきゃいけなくて」
「あっはっはっは。はぁ、そうね、仕事よね、メリハリは大事よ。あーあれ?メリハリってどっちがどっちなんだろうね?メリもハリも張り詰めてる感じしない?…まぁどっちでもいいかぁ。でもねぇ、そんな規定だかなんだか知らないけどねぇ、そんなことしてるとね、おっと」
女は自分の足に躓いて、しゃがみこんだ。そしてそのまま黙ってしまった。時計の秒針が聞こえる程静かな時間が流れた後、顔を伏せたまま、
「あんた、失恋したことある?」
「まぁ、はい。人並みには。」
「ははっ。…なによ人並みって」
と私を嘲笑うように力なく言った。それは自分自身を嘲笑っているようにも見えた。
「アタシはね、男なんていなくたって生きていけんのよ。仕事だって給料だって男なんかに負けてたまるかって、登り詰めてきたの。それをあんた、」
と言ったきりまた話さなくなった。堪えていたものが溢れだし、静かに泣いていた。
「かっこいいと思います。私も、そんなこと言ってみたかったです。男なんていらないって。すごいと思います。」
精一杯のフォローとして言ったが、嘘はひとつもついていない。この人は本当に格好いい人なんだと思ったのだ。
「…なんかあったの?」
女は下を向いたまま、私に聞いた。
「いえ、昔の話です。」
「なによ、言いなさいよ。フェアにいこうよ。」
どの辺りがフェアなのかわからないが、その提案には乗ることにした。この端から見れば惨めな酔い潰れた女に、私のくだらなく、でも忘れることなんて出来ていない話を聞いてもらいたかったのかもしれない。
「いやぁ…。失恋って仰ったので、10年来の友人にやり捨てされたことがあったのを思い出しました。気を許した私がバカだったんでしょうが、男女の友情は成立しないってほんとだったんだなぁって。ずっと友達だった人にこんなことされるんだって。あ、失恋ではなかったかもしれないですけど。すいません。」
と、話を終える前に女は急に顔を上げ、大きな声で言った。
「なにそれ!最っ低!10年でしょ!?そりゃ気許すだろ。そいつ、今からここに連れてきて。アタシが説教してあげる!」
驚いた。私が怒るならまだしも、この女には全く関係ない話だ。
「いやいや。昔の話ですから」
「昔だろうが何だろうが、ダメなもんはダメなのよ!ほら早く、呼んでよ!」
女は早く連れてこいと言い続けた。困った。少々面倒くさいことになってきた。いつも通りのお喋りなら、お客さんが一方的に話して帰っていくのだが、今回は参加型のようだ。
「もう連絡先もわかりませんし。ありがとうございます、お気持ちだけで十分です。」
「バカにするんじゃないよ!ちゃんと言ってやった?ふざけんじゃねぇって!」
「ちょっと声が大きいですって。他のお客様もいらっしゃいますから…」
声のボリュームは少しも下がらず、食い下がりもしなかった。
「言ってないの!?言わなきゃだめだよ!怒れよ!なぁ。悲しかっただろ、悔しかっただろ。大切な人だったんでしょ?友達だっけ?守りたかったんでしょ?その関係をさ!ぶつけなきゃダメなんだよ、思ってることは言えるうちに言わないと!大嫌いでもなめんじゃねぇでもなんでもいいから、早く言わないと!言えなくなっちゃうから!」
女は、言わなきゃダメだ、言えばよかったと声を震わせて泣き崩れた。
その時、私はやっと気づいた。女が着ていたのはスーツではない。喪服だった。男なんていらないと自分に言い聞かせながらもきっと大切に思っていた人がいたのかもしれない。その人に言いたいことがたくさんあったのに、今となっては言えなくなってしまったのかもしれない。
会いたい人には会いたいと言わなければならないし、好きな人には好きだと言わなければならないのはみんな知っている。でも同じように、嫌だったなら嫌だったと言わなければならないのかもしれないし、傷ついたなら傷ついたと伝えなければならないのかもしれないと気付かされた。当たり前のことで、誰もがわかっているはずなのに。いや、当たり前であればあるほど難しい。
嘘つき、私を置いていくな、文句ぐらい言わせろ、まだあの時のお礼言えてないんだから、と泣きながら小さな声でいつか言いたかったらしい言葉を絞り出す女を、部屋まで送った。女がいなくなったフロントはなんだか広く感じて、少し寂しい気もした。その後フロントへ来るお客さんはひとりもいなかった。
早朝5:00、早番のスタッフと交代し、スタッフルームで着替えて打刻。早歩きで駐車場へ向かう。急に前が滲んでよく見えなくなった。階段の踊り場で立ち止まる。涙だった。涙が止まらなくなった。今更、あの女の言葉が突き刺さる。
私は悔しかったのだ。悲しかったのだ。そうだよな、10年だ、気を許す。文句をぶつけたかった。最低だ、嘘つきだって言いたかった。信じてたのに、好きだったのにって、伝えればよかった。
ひとしきり泣いた。呼吸が上手くできなくて苦しくなるまで泣いた。何分そうしていたかわからないが、気づけば涙は枯れていた。頬を伝った涙の跡が乾いて、頬がカピカピになっていた。エレベーターの横にある自販機で水を買った。一口飲み始めて、すごく喉が渇いていたことに気づいた。止まることなく555mlを一気に飲み干した。
「あぁ、うっま…」
こんなにも水がおいしいと思えたのは初めてだ。身体が潤って少し気分が晴れた気もする。昇ってきた日の光が、私の目を突き刺す。
もし伝えていたら、何か変わっていただろうか。変わったことなんてなかったかもしれない。余計に傷つくことになる可能性だってある。「好きだ」と言うより「嫌いだ」と言う方が難しいのだ。しかし、それでも伝えた方がよかったのだろうか。
今すぐ答えを出すことはできないが、今はただ、あいつがこの世界のどこかで元気で幸せに生きてくれていればそれでいいや、とオレンジ色の空を見ながら静かに願い、車に乗り込んだ。いつかまたあの女に会うことがあったら、お礼を言おう。
そして翌日、私は退職した。
生きていると、時々、ひどい目に遭ったりする。「なんで私だけ」、「私何か悪い事したのだろうか、なんの罰なのだろうか」と思うしかないような理不尽が、そこらじゅうに舞い降りる。
それでも私たちは、なんとか前を向いて生きていかなければならない。カッコ悪くて、バカで、汚くて、惨めでも諦めちゃいけないんだと思う。自分の心と素直に向き合う時間って必要だ。
今、どこかで消化しきれない何者かと闘っている人が、諦めてしまわないように。ほんの少しでも、力になれますように。時間かかってもカッコ悪くてもいいから、ゆっくり、頑張れ、という願いを込めて。
いつかみんなが、自分の好きな自分のままでいられる世界が来ますように。




