年上地味令嬢と婚約中の王太子殿下は若い娘をご寵愛?
白亜のスヴェアルト宮殿に来訪者の名が告げられた。
「ポニャトフスキ公爵家御令嬢、カトレイン様」
宮殿にたむろする貴族顕官たちがざわめいた。
ロウィニア王国最大の貴族であり王家をも凌ぐ権勢から『御一門』と呼ばれる公爵家の姫君であり、王太子スタニスワフの婚約者でもある御令嬢が登城したのだ。
今年二十三歳になったカトレイン・ポニャトフスカは鹿毛色の髪をすっきりとシニヨンにまとめ、素っ気ないほど簡素なドレスに身を包んでいる。
公爵令嬢らしからぬ姿に貴婦人方が扇の奥で囁き合った。
「カトレイン様よ」
「今日も相変わらず地味な装いで」
「宝飾品の一つも着けないなんて」
「あれでは余計に老けて見えますわ」
「ただでさえ、婚約者の王太子殿下より四歳も年上ですのに」
「王太子殿下と言えば、お聞きになりまして? あの噂」
「じゃあ、ご成婚が延期されたのもそのため?」
「婚約指輪も外していらっしゃるのは、もしかして……」
「婚約解消?」
「さすがにそれは『御一門』が許さないでしょう」
公爵令嬢の背後に控える侍女が宮廷スズメどもにちらりと視線を走らせたが、すぐに主人の背中へと戻した。
周囲のざわめきなど物ともせずにカトレインは宮殿の奥へと進み、呼び止める声にふと立ち止まった。
「まあ、カトレイン様、お久しぶりですこと」
彼女とは対照的に宝石と羽根飾りに埋もれるような満艦飾のドレスの貴婦人が進路を塞ぐように出現した。カトレインは扇を広げて挨拶した。
「ご機嫌よう、ブラウンエンシュテット公爵夫人」
『御一門』に次ぐ大貴族の夫人は、かつてカトレインと王太子妃の座を競った相手だった。公爵令嬢の簡素なドレスを上から下まで眺め、彼女は金色の巻き毛を揺らして笑った。
「王太子殿下に謁見にいらしたのかしら? いつ見ても貧相なお召し物ですこと。それではどちらが侍女か分かりませんわ」
あからさまな挑発にも、カトレインは全く動じず微笑むだけだった。じれたように公爵夫人はとっておきの醜聞を口にした。
「そんなことですから、王太子殿下が若い娘に興味を移すのですよ。もうずっと離宮に集めた令嬢たちと籠もりきりで、側近の御令息たちも同様とか。まあ、無理もありませんわね。政略結婚の相手が家柄だけが取り柄の地味な年増では。せいぜい、婚約解消されないように努力なさるのね」
周囲が必死で聞き耳を立てる中、カトレインは琥珀色の目を眇めた。
「あら、ご存じないのかしら、公爵夫人。女性は生きていれば全員年増になりますが、皆が皆、見苦しい体型になる訳ではありませんのよ」
ごく控えめに言っても大層太ましい公爵夫人は羽根扇を落としかけた。そんな彼女の頭頂部から爪先までを視線でひと往復させると、カトレインは余裕を持って微笑んだ。
「それでは、王太子殿下がお呼びですので失礼します」
こそこそとこちらを伺う貴婦人たちに冷たい視線を向け、彼女らが礼をとると目元だけで微笑み、何事もなかったように公爵令嬢は歩き始めた。奥の宮まで来るとようやく周囲が静かになった。ずっと沈黙していた侍女が小声で言った。
「よろしいのですか。ブラウンエンシュテット公爵夫人の物言いはあまりに失礼です」
「あの方はまだ簡単よ。いつも正面からぶつかってきては自爆するのだから。でも、積年の恨み辛みと体重を増幅させるのはまだしも、さすがに少しは節制なさらないと夫婦のベッドで御夫君を押し潰しかねないわ」
主の辛辣な言葉に侍女は微笑み、豪華なシャンデリアを見上げた。
「それにしても贅を尽くした宮殿ですね」
「外国の大使や来賓が通られる区画は特に凝っているのよ。国威を示して威嚇する目的もあるのだから」
「国威にはお金が掛かるのですね」
「戦争よりは安上がりだとお父様はおっしゃっていたわ」
回廊の突き当たりに来た二人は立ち止まった。彼女らの前には大きな扉――花園の離宮の入り口があった。宮廷で噂になっている場所、王太子スタニスワフが若い娘を集めては耽溺しているとされる現場である。
公爵令嬢は侍女に告げた。
「ここからが本番よ、バーシア。準備は良いわね」
主従二人は揃って深呼吸をした。警護兵が離宮の扉を開けた。
「王太子殿下、ポニャトフスキ公爵家御令嬢がお見えです」
開け放たれた扉の中には、色とりどのドレスを着たうら若き乙女たちがそこかしこで戯れる光景があった。確かに男性にとって桃源郷であるかも知れない。彼女たちの平均年齢がもっと高ければだが。
離宮の王族に向けて、カトレインは淑女の礼をした。
「ご機嫌よう、スタニスワフ王太子殿下。第五王女アグネシカ様、第六王女ベアタ様、第七王女パウリーナ様……」
全員の点呼を終える前に、わらわらと彼女に駆け寄る姿があった。
「カトラ!」
「遊んでー!」
「ご本読んでー!」
離宮にいるのは七歳の第五王女を頭にした十一人もの王女たちだった。
カトレインは慣れた様子で幼い姫君たちの相手をした。まず、大きな眼鏡で遊ぶ幼女に声をかける。
「アグネシカ様、その眼鏡はトマシュ様に返して差し上げましょうね。あの方はそれがないと歩くことも出来ないのですから」
第五王女は手探りで這い進む宰相の長男の元にとことこと歩くと、その顔に眼鏡をかけてやった。
「ありがとうございます、ポニャトフスキ公爵令嬢」
トマシュ・アシュケナージはようやく戻ってきた正常な視界に感涙していた。
次にカトレインは大柄な筋骨たくましい青年を三人で馬代わりにしている王女たちに歩み寄った。
「エヴェリナ様、マジェナ様、ヨランダ様、そろそろお馬さんを休ませてあげましょうね。グスタフ様が腰を痛めてしまいますわ」
幼女を降ろしてやると、陸軍元帥の次男グスタフ・エデルマンが息を切らしながら礼を言った。
「……かたじけない、カトレイン嬢」
円形の花壇の向こうに、掠れた声で読経のように延々と絵本を読み続ける者を見つけ、公爵令嬢は彼の膝にいた幼女を抱き上げた。
「ヤドヴィカ様、あちらで私の侍女がご本を読んで差し上げますわ」
最年少で法学院を首席卒業した英才アンジェイ・ミクリが死んだ魚のような目で彼女に会釈した。
「……助かった……」
更にカトレインは幼い姫君を抱えてひたすら回転している青年を助けに行った。
「ユスティナ様、『ぐるぐるぶんぶん』はそのくらいにしましょうね。レフ様は限界のようですし」
第十三王女を抱き取って離宮の侍女に預けると、政商と呼ばれるグレツキ商会会頭の三男レフ・グレツキはピルエット状態から床に倒れた。
「……感謝します、カトレイン様」
解放される側近たちに安堵の吐息を漏らした後で、カトレインはそもそもの訪問相手が見えないのに気づいた。
「王太子殿下? スタシェク様?」
幼い頃からの愛称で呼びかけると、いささか情けない声が耳に届いた。
「…助けてくれ」
幼女の山の下から片手が伸びているのを発見し、公爵令嬢はただちに救出に向かった。駆け寄る侍女に幼い王女たちを手渡すと、発掘の果てにようやく彼女の婚約者が見えてきた。
「……まったく、ここに来るといつもこうだ」
公爵令嬢の手を借りて、王太子スタニスワフは立ち上がると枯れ草色の髪を掻き上げた。カトレインは数日ぶりに会えた婚約者に微笑みかけた。
「皆様あちらに避難されていますわ」
彼の腕にそっと手をかけて、彼女はお茶が用意されたテーブルへと移動した。
喉を潤してようやく生き返った顔をする男性陣にカトレインは質問した。
「後宮の捜査は終結したのでしょうか」
「ほぼ終わった。後宮内での毒殺の実行犯は一時収容された地下牢で『病死』。他の関係者は重罪犯監獄の独房棟で終身刑」
苦い顔で王太子が答えた。
「まったく、恥さらしもいいところだ。側室同士の権力闘争で毒殺事件に発展するなど……不幸中の幸いは妹たちを後宮からここに無事保護できたことだな。…間に合わなかった者もいるが」
数年前から続いていた後宮での不審死は大規模な連続殺人事件であったことが発覚し、王太子は異母妹たちの安全を最優先して花園の離宮を避難場所としたのだ。
それでも、後宮で生まれた姫君たちのうち五人が突然死していた。スタニスワフは厳しい声で自らの父を糾弾した。
「父上も無責任すぎる。八年前に母上が亡くなった直後は寂しさからの逃避かと思ったが、物には限度があるぞ。自分の娘が次々と死んでいった上に、あの後宮で男子が一人も誕生しない不自然さに何故見て見ぬ振りが出来る」
現国王の艶福家ぶりのおかげで、彼には十三人にも及ぶ腹違いの妹が存在するのだ。憤慨する王太子に、宰相を父に持つトマシュ・アシュケナージも同意した。
「二桁に及ぶ被害者が出ていながら後宮のこと故に裁判にかけることすら出来ないのが後味悪いですね」
侍女と無邪気に遊ぶ王女たちに目をやり、カトレインが不安そうに尋ねた。
「側室方の処分は?」
「聖ツェツィリア修道院に収監、いや一時預りとなる。処罰と矯正に、大叔母上が手ぐすね引いておられるだろうな」
彼女の隣に座る王太子が苦々しく答えた。峻厳な山嶺の奥に建立された女子修道院は前国王の妹が院長を務め、不始末をしでかした貴族令嬢・夫人を収容し再教育を施すことで知られている。
「あそこから戻ってきた御婦人は皆形相が一変して何故か軍への入隊志願者が続出すると聞いている」
陸軍騎兵に所属するグスタフ・エデルマンが良く通る声で言った。
「そのうち修道院出身の傭兵部隊でも結成されそうだ」
乾いた笑い声がテーブルを周回し、忌々しそうにスタニスワフが吐き捨てた。
「後宮など俺の代で廃止してやる、こんな厄介ごとと無駄の巣窟!」
拳をテーブルに叩き付けると膝にいた幼女が驚いて泣き出し、彼は慌てて宥めた。
「ああ、お前を怒ったんじゃないんだ、大声を出してすまない」
「さあゾフィア様、こちらに」
カトレインが第十五王女を自らの膝に乗せてあやすと、ようやく泣き止んでくれた。
「後宮の廃止は賛成ですが、いきなり大鉈を振るえば対抗勢力を結集させかねません。国中の実力者が王妃の座を狙って娘を送り込んでくる場所ですから」
眼鏡の位置を直しながらトマシュ・アシュケナージが意見を述べた。
「できれば徐々に解体していくのが理想ですね。勿論、二度と同じ事を出来ないように少しずつ確実に実権を削り取っていった結果として……、あ、グラシナ様、そのミルクはまだ熱いですから、ふーふーして飲みましょうね」
「先王陛下時代からの軍事方面での拡張は限界がある」
グスタフ・エデルマンが腹に響く声で語った。
「現に、ザハリアス帝国との戦争では賠償金も取れず、国内の不満分子を暴発させる結果になってしまったからな……、ベアタ様、そのパイは得物を使用するべきかと。右手にナイフ、左手にフォーク。お間違えなきよう」
「教会も問題だよ。あのぼったくり坊主ども、側室を神の教えに背く存在とか言いながら、金を積まれると後宮生まれの姫君たちにあっさり『王女』の称号を許可するんだから」
アンジェイ・ミクリが童顔に似合わぬ毒舌を披露した。
「聖光輪教会本部に密告して失脚させる証拠を今からかき集めておこうよ……ああ、マジェナ様、指をしゃぶってはダメですよ。せっかく可愛い唇してるのに」
「商人サイドから言わせてください。後宮は結構歴史があるから、既に後宮ビジネスみたいなのが確立してるんですよ」
挙手したのはレフ・グレツキだった。
「解体するなら代わりになる儲けのチャンスを提示して貰えると混乱が少なくて……待って、イレナ様、そのお皿は高価だから投げて遊ぶのはこっちので」
真剣な論議の合間に、次から次へと膝の上によじ登ってくる幼い王女たちを彼らは相手しなければならなかった。せわしない状況に王太子は苦笑した。
「落ち着かないが、忌憚ない意見を聞けるのが宮殿内ではここだけだからな」
王女たちを養育する離宮の侍女頭は彼の乳母で、他の侍女や護衛もその身内で固めている。宮廷改革に備えた密談のため、誤解や噂をそのままにして王太子派が集結していたのだ。
膝の上にいる幼児が船をこぎ出したのに気づいたカトレインが侍女を呼んだ。
「バーシア、王女様はお昼寝のようだから寝室にお連れして」
「はい、お嬢様」
目を覚まさないようそっと手渡すと、公爵令嬢はほっと息をついた。
「スタシェク様、王女様方は母君の件については……」
「側室どもが我が子を放置してライバルを蹴落とすことに血道を上げていたせいで、母親不在は気にも留めていない」
「そうですか」
「上の二人は家庭教師を付けられるようになったが、この野猿の群れをどうやったら淑女に出来るんだ」
嘆く彼に、カトレインは提案した。
「我が家の乳母たちを交替でこちらに派遣しましょう」
「助かるよ」
彼らの会話を聞いていたレフ・グレツキが不思議そうに尋ねた。
「公爵家にはそんなに乳母がいるんですか」
それには王太子が答えた。
「御一門、ポニャトフスキ公爵家は多産家系で有名だ。カトラは十一人兄弟姉妹の長女だぞ」
目を丸くした後で、豪商の息子は呟いた。
「…後宮いらねー」
ポニャトフスキ公爵家の特殊事情について、カトレインが説明した。
「傍系だった曾祖父が公爵家を継いだのは、相続争いで有力者が牽制しあった末に人畜無害という点を評価されてのことでした。ただ、彼らは曾祖父の多産血統を甘く見ていたのでしょうね。十二人の子供に恵まれ内外の有力者と婚姻関係を結んでいった結果、王国内で最大勢力になりましたの」
そして、彼女は戯れる幼女たちを見回した。
「王女様方は言わば、国の貴重な資源です。いずれ国内をまとめるため、または他国との結びつきを強固にするため嫁ぎ、そこで血脈を繋ぎ大陸を網羅するほどの同盟を築くことも可能ですから」
息を呑む王太子たちに、彼女は笑いかけた。
「でもそれにはロウィニア王家との絆が重要になります。姫君たちの実家への愛情と忠誠が我が国を繁栄に導くのですから。つまり、『お兄様』の役割が重要ということですわ、殿下」
何とも微妙な表情の後で、スタニスワフは覚悟を決めた表情で頷いた。
「分かった。どうせ、あの生ませるだけのオットセイ野郎には任せられないからな」
現国王への暴言は淑女らしく聞こえなかったふりをして、カトレインが王太子の側近たちに言った。
「この次にこちらを訪問する際は、アリツィア様、カタジナ様、ラウラ様、ヴァンダ様にもお手伝いを頼んでみますわ」
それぞれの婚約者の名を聞いて、側近たちの目が輝いた。それを微笑ましげに眺め、彼女は注意事項を加えた。
「ただし、王女様方のお相手をするのですから、装いは侍女と大差なくなってしまいますわ」
「構いません」
「うむ、問題ない」
「楽しみだなあ」
「商会一推しのエプロンを用意する」
服装ごときでは彼らの期待に影すらささないようだった。
やがて公爵令嬢が帰宅する時間になり、王太子は離宮の出口で別れを惜しんだ。侍女は気を利かせたのか、少し離れた所で待機している。
寂しさを誤魔化すように、カトレインは冗談めかして言った。
「ここに来るまでに、宮廷中の人に憐れみの目で見られましたわ。殿下が私に飽きて若い娘を侍らせているともっぱらの噂で」
「……すまない、今はそれを逆手にとって不穏分子をあぶり出している所だから」
「仕方ないですわね。ここしばらく地味な格好ばかりなのは事実ですもの」
幼い王女たち相手では華美な装飾は不要だし、怪我をさせる危険のある宝飾品など一つも身につけられない。
事情は十分承知しているはずなのに、カトレインは自らの言葉に胸の奥がざわつくのを感じた。
彼の目に自分はどう映っているのだろう。子守ばかりで本当に『地味な年増』と思われてはいないだろうか。
昏い不安を打ち消すように、両手がぬくもりに包まれた。
彼女の手は王太子スタニスワフの手の中にあった。そして本来指輪が嵌められているはずの左薬指に、彼は恭しくくちづけた。
「あなたの姿は、俺や妹たちへの愛情の証だ」
カトレインは自分の鼓動が早まるのを感じた。それが指先から伝わってしまわないだろうかと、息をするのも忘れてしまう。
初対面の時は弟のようにしか思わなかった小さな男の子が、いつしか自分の背丈を超えて真剣な愛情を乞う目をするようになった。
彼女の気を引こうと高い木に登ったり池に飛び込んだりと時に暴走する少年をハラハラしながら見守った日を思い出し、公爵令嬢は幸福そうに笑った。
そのなめらかな頬を両手で挟むようにして、スタニスワフはゆっくりと唇を寄せた。
触れ合う直前に、何かが彼の服の裾を引っ張った。視線を下に向けると、困り顔の幼女が訴えかけてきた。
「おにーたまー、おちっこ~~」
硬直した王太子は恐慌状態に陥った。
「えっ? な、おい…」
「パウリーナ様、もうちょっとだけ我慢なさって。バーシア、来て!」
近未来の王太子妃も巻き込む騒ぎは他の王女たちにも伝染していき、拡大するばかりだ。
花園の離宮が託児所状態から脱却するには、まだ時間が必要らしかった。
二年後、ロウィニア国王リシャルドは健康上の理由で退位し、若き王太子がスタニスワフ二世として即位した。
王妃カトレイン・ポニャトフスカとの仲は睦まじく四男五女に恵まれ、王国の改革に尽くした賢王としてその名は伝えられた。