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名も無き一夜

作者: 武蔵山水

窓に映る夕刻時の近づいた紫色の空をある女は眺めつつ洗濯物を畳んでいた。その中には女用の衣服だけではなく男物の衣服も含まれている。女はたまに泊まりに来る彼氏の分の衣服も清潔に保とうと努めているのである。


女の名前は伊藤奈々、当年取って26歳である。平成が始まって数年してから生まれた。実家は小金井にある。両親は定年退職している。奈々は現在池袋のある飲食店に勤めている。そして此処、中野の小さなマンションに住んでいるのである。                                   

彼女の人生は決して劇的なものでは無い。ごくありふれた日本に住んでいる一人の女である。


伊藤奈々はすっかり夜が更け渡った空を見るのに飽きテレビをつけた。テレビを見ながら残りの極少数の洗濯物を畳んだ。                  

畳み終えた後も暫くはテレビに目をやっていた。彼女は忙しなくチャンネルを回すが何処も似た様な番組しか放送されていない為とうとう飽きてテレビを消した。


今しがた綺麗に畳んだ洗濯物を静かに持ち上げてクローゼットの中に規則正しく収納すると彼女は特にやる事もなくなってしまった。ローラー付きの椅子に腰掛け携帯を取り出して彼女の友人の現状を確かめた。ある女は今日静岡に行った様であった。ある男は今日迷惑な客と遭遇したそうであった。そしてまたある女は実家に久方ぶりに帰省した様であった。奈々はひとしきりそれらの投稿を見ると無感情で“いいね”をした。その後下らない動画を見て生活の痕跡をネットにばらまいた。そうして一時間が過ぎた。彼女は携帯をベッドの方へ放り投げ椅子から立ち上がった。夕飯を作るのである。冷蔵庫を開けるが材料がほとんどなかった。あるのは卵ときゅうりだけであった。彼女のため息が寂寥とした部屋に響いた。


仕方がないのでコンビニに行こうと彼女は思い立った。ハンドバッグに財布やら鍵を入れて外にでた。                           


早春の頃の風はまだまだ諸人を物悲しくさせる。今日も中野のビルの光が悲しく明滅しているのを奈々は認めた。


近くのコンビニはいつもの通り人がいなかった。ただ従業員だけが生気のない顔で彼女に挨拶するだけであった。そんな空間に彼女はいたものであるから自ら夕飯を作るのが面倒くさくなってしまった。結局食材を買わずに弁当を買って帰った。


マンションに到着した奈々はすぐに弁当をレンジで温めた。そして温まった弁当を机に置いて食べた。如何なる感動もその弁当は彼女に与えなかった。


風呂に入ろうと洗面所に向かうとそこにはまだ洗濯を終えていない彼氏の服がだらしなく横たわっていた。彼女は少し苛立ちを覚えながらその洗濯物を洗濯機の中に放り込んだ。


風呂から上がった彼女は鏡を見ながら歯を磨き洗顔しパジャマに身を包んだ。そしてベッドの上に横たわり電気を消した。目を閉じて二十分程して彼女は眠りの世界に陥った。


こうして伊藤奈々の一日は終わるはずであった。


日付を跨ぐ少し前。暗黒が支配する静寂なる部屋にけたたましく電話のベルが鳴り響いた。彼女は飛び起きまだ夢か現か判然ならない頭で携帯をとった。朧げにひかるディスプレイには『増田ヒロ』と表示されていた。奈々の彼氏である。彼女は電話に出た。


『もしもし』


「もしもし」


『ごめん。寝てた?』


「当たり前じゃない。今何時よ。」


少しの間があった。男が現在の時刻を確認しているらしかった。


『十一時三十分』


彼女は一つ大きなため息をした。


「一体何よ、こんな夜中に。」


『今から話そうよ。』


「いいよ。」


『やった。じゃあ今から渋谷来て。』


男はそう言って電話を切った。


「えっ、ちょっと。」


彼女は切れた電話に必死に呼びかけた。然し当然のことながら返答はなかった。彼女は自分だけが置き去りにされたかの様に悲しくなった。果たしてどうするべきか、と彼女は思案した。そして行くか行くまいか逡巡した。一度寝転んで目を閉じてみたが男の可哀想な顔が浮かび到底眠れそうにもなかった。彼女は布団を勢いよく剥ぎ身支度をした。面倒臭いという気持ち以上に何故だか喜びが大きかった。


終電近くの中の駅は降りる人間こそ多いが入る人間は極端に少なかった。彼女は私服であるが他の人間は残業終わりのビジネスマンだけであった。社内はの臭いで酷かった。電車に乗った彼女は特にする事もなく只車窓から見える東京の光の海原を眺めた。次第にビルの明かりが星に見えてきた。幻想的なる光景に彼女は感動した。そんな幻想的な外界と車内の静寂さが作用し彼女は南十字の方へ向かってしまうのではないかとも思った。然しそんな甘美なる幻想も新宿に到着する頃には綺麗に失せていた。混沌とした街の明かりが彼女の目に飛び込んできたのである。


彼女は周りの人間の様に機械的に降車した。そして山手線に乗り換え渋谷へと向かった。


渋谷駅にとうた約してすぐに彼女は携帯を取り出し男に連絡をした。現在地を確かめる為である。男はすぐに返信を寄越した。どうやらハチ公口にいるらしい。おおよそ検討はついていたが彼女は足早にそちらの方に向かった。


男は大きな広告看板の元にいた。うつむきながら必死に携帯を操作している為まだ彼女の存在には気付いていない様である。チェックのズボンに白いパーカー、ヨレヨレのコートをきている。そして首からニコンのカメラをぶら下げている。いつもとさほど変わりがない格好である。                     

増田ヒロは彼女より五つ下の二十五歳である。現在は東京郊外の美術学校に通っており写真家を志している男である。二人のでありは至極単純なものである。   

ある日男が彼女の働く飲食店に訪れ双方一目惚れをした。そうして交際に至ったのである。


彼女は男の元に近づいて肩を叩いた。     


「来たよ。」


歳の割に幼い男の顔が彼女の方を向いた。男は彼女を認めるや否や抱きついた。何時ものことであるから彼女はさほど恥ずかしいとは思わなかった。


「行こっか。」


男は彼女の手を取った。そうして東京の摩天楼を歩み始めたのである。


「ちょっと待って。どこ行くの。」


彼女が訊ねたが男は聞こえない風を装ってそのまま歩き続けた。彼女は男に只着いていくだけであった。彼女は果たしてどこに向かうのかもわからないまま男について行った。


渋谷の繁華街を抜ける。右手には沈黙した山手線の線路が闇に消えてるまで伸びている。男はそこで止まった。


「そこに立って。」


男はそう言いながら地面を指差した。彼女は只黙って男の言うとうりたった。すると男は一枚写真を撮った。


「いいね。今日も綺麗に撮れた。」


男は満足するとまた歩き出した。


「なんで今日は私を呼んだの。」


彼女は暗闇の道を歩きながら男に尋ねた。


「別に理由はないの。ただ会いたかっただけ。」


彼女はその答えをおおよそ予想していた。全くこんな夜中に女を呼び出すなど非常識な奴だ、と心の中で憤りながらも男が可愛くて許してしまうのである。


しばらく男は夜のしじまに浮かんだ都会の一瞬を只淡々とカメラに納めていた。彼女はそんな真剣にカメラを構える男の横顔を見てまた惚れるのであった。


原宿駅を超えても二人はなおも歩いた。静寂が支配する表参道は日中とはまた違う様相を見ていた。男の目には一体何が映るのか。少しばかり興奮しながら男はその一瞬をカメラに納めた。そして二人は二人だけの空間や感触を楽しみながら青山通りの交差点へと辿り着いた。


青山通りの入り組んだ裏路地を抜けるともうずいぶん昔から商っている茶店兼バーがある。二人はその店に入った。店に入るとカウンターの男がこちらを無言確認した。奥から若い女が出てきて二人を二階のテーブル席へと案内した。二人は向かい合わせに座った。ウイスキをーを注文した。


男は店員が去っていくとカメラを操作し始めて先ほどまで撮っていた真夜中の朧げに写る東京の写真を奈々に自慢げに見せた。彼女には写真を見ると言う以前に芸術を感ずる心が殆どと言って良いほど無い。故に男が取った写真を見ても果たしてそれが芸術的に優れているか又は或いは劣っているかのという批評は全くできないのである。然し彼女の目に写っている男というものは彼女に取っては絶対的なる美を有しているのである。彼女がカメラの液晶に映る写真ではなく男の顔に見惚れていると唐突に男が彼女の唇を奪った。あまりの唐突なる出来事に呆気にとられた彼女はどうして良いか分からずたじろいでしまった。その表情を見て男は笑みを浮かべた。彼女は恥ずかし紛れにバッグからメビウスを取り出しはにかみながら喫んだ。その内に店員がウイスキーを持ってきた。タバコを喫む奈々を見て店員は困った様な顔をした。


「お客様、この店は全席禁煙です。」


彼女は急いでタバコの火を消した。


二人はそのみせで随分と長いこと話していた。話の内容など重要ではなかった。ただお互いがお互いの目を見て言葉を交わすそれだけで十分に満足できたのである。二人が店から出た時空はほのかに夜明けを告げていた。車の少ない往来が世間が始動した合図の様に思えた。


彼女は目の前で始まろうとしている世間を認め一つ大きなあくびをした。男は彼女のあくびをカメラに収めた。彼女は少し頬を膨らませて男の方をみた。男は微笑んだ。


二人はまた歩き始めた。来た表参道をもう一度戻り原宿駅に到着した。


「私はもう帰るは。」


奈々がそういうと男の面持ちは明瞭に悲壮感を帯びた。そんな顔に彼女は胸を締め付けられるのである。


「一緒に来る。」


彼女は男にそう言った。ビル群により隠された向こうの地平線から太陽が昇り来る時分だった。男はまるで子犬の様に喜びながら彼女の手を握った。二人は始発の電車の中で笑顔を絶やす事なく話し続けた。朝日が昇り照らす中野の混沌とした路地の隅々さへも美しく感じたので会える。彼女のマンションの扉を開いた瞬間に今まで消えていた眠気が二人の人生を包む様に襲ってきた。そうして同じ寝床で同じ夢を見た。


彼女は男よりも早く目覚めた。昼前であった。先ほどまでの幻想的な街は最早消え去り詰まらない日常の一部へと戻ってしまった。彼女は男を起こさぬ様に静かに動き洗濯機から昨日放り込んだ洗濯物をカゴの中に入れ替えた。そうして静かにベランダへ向かう。振り返ると自分の部屋のベットに男が無上の平和を感じている様な面持ちで眠っている。奈々は其様子を男のカメラで収めた。


其写真を一頻り眺め終えると背を向けベランダに出た。


そして彼女は今日も普通でとこしへに普遍なる風に吹かれて洗濯物を竿に引っ掛けるのであった。

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