第二十一話――成長
シーとの魔法試合から四日後。
ブリーゼの高位治癒魔法によってあっという間に回復した堕天男は、胸の前で大きなボールを抱えるように両の手を前に伸ばし、棒立ちのまま一日中静止し続ける謎の訓練だけを、すでに三日間も繰り返していた。
「私たち魔法使いは、体内あるいは体外にある魔力を消費して魔法を実現する、というのは前に教えたわね。そのためには通常、基礎教育で習う魔法の仕組みに加えて、魔法大学で教えている高度な魔術理論を、理解していく」
「こっちの世界にも、大学があるんだな」
バシン! と、谺するかん高い音。
ブリーゼが堕天男の尻を、鞭でひっぱたいたのだ。
「ぐオ」
「手の魔力が途切れてるわよ。集中しなさい。腹の内にある力を、手に向けて送りこむイメージよ。考えてはいけないわ。感じなさい」
どこかのカンフー映画で聞いたような台詞だ。
堕天男が意識すると、ブリーゼがニヤリと口角を吊りあげた。
「魔法大学は、基礎教育で魔法についての充分な知識をつけた者だけが、厳しい試験を突破してようやく入学を許される超難関よ。魔法使いを志す者が一万人いたとして、入れる者はせいぜい一人か二人……」
とんでもない倍率に、堕天男は絶句した。
日本で言うと東大に入るよりも難しそうだ……
「あんたは魔法大学を出ているのか」
「私は中退したわ。教授がセクハラ親父だったから半殺しにしたら退学処分。まあ、せいせいしたわ。あの馬鹿弟子は首席で卒業したみたいだけれど、その割には出来の悪いこと。学校のお勉強はあくまで基礎であって、魔法使いとしての実力とイコールではない。これは大切なことだから、よく肝に銘じておきなさい」
「う、うむ」
「結論から言うと、魔法学を究めなくても、魔法は使えるのよ。感覚と、簡単な詠唱の手続きさえ覚えれば」
「何だ。そんなに簡単なのか」
だったらなぜ皆苦労して勉強して大学なんぞに行くのか、と、怪訝な顔をして考えこむ堕天男に対して、ブリーゼの返答は。
「簡単と言っても、誰にでもできるわけじゃない。感覚で魔力を操作するには人並外れた才能が要るし、通常の魔法と比べて制約もある――ああ、ホラ! 集中しなさいったら!」
ふたたび鞭で尻をひっぱたかれ、堕天男は歯を食いしばってその苦痛を飲みこむ。
な、何のこれしき。
あの化物の鞭打ち刑に比べたら……!
皮肉なことに、毒親やブラック企業での虐待によって堕天男は多少の痛みでは動じぬ鋼の精神力を手に入れていた。
「魔力はありとあらゆる生物に宿る。魔族や人間はもちろん、そのへんの野生動物や植物、空気中を漂う微生物にすら。魔法使いは通常自分の体外にあるすべての魔力を、利用する。環境にもよるけれど、これによってほぼ無制限に魔力を補給することができるわ」
「そんなことができるのは、お師匠くらいですよ」
唐突にシーが口を挟んだ。
その両手には三人分の洗濯物が積まれているが、洗濯は本来魔法生命メイドの管轄であり、シーが洗濯物の取りこみを偽装して師匠の授業を監視しているのは明らかだ。
「普通の魔法使いは、ごく近くにある魔力しか操作できません。だから体内の魔力で不足分を補って、いずれは魔力切れを起こす。より遠くの魔力まで取りこもうとすると膨大な集中力、精神力を消費し、最後には発狂します」
「あら。そうだったの。知らなかったわ」
あっさりと己の無知を認める、ブリーゼ。
まるで最初から当たり前にそれができたとでも言うように。
「やってみれば、こんなに簡単なのにねえ」
瞬間。ブリーゼの右手が。
まるで台風の中心のように、周囲にある〈何か〉を、かき集め始める――
「う……ぐォ……」
全身から極細の針で少しずつ血を抜かれていくような、奇妙な感覚。
「あっ……! ちょ……や、やめてくださいよ、お師匠。私たちから魔力を奪うのは」
堕天男同様、苦悶に顔を歪めるシーに、ブリーゼは。
「情けないわよ、馬鹿弟子。ちょっとは抵抗してみせなさいな。そんなんだから頭でっかちとか言われるのよ」
ため息まじりにそう言った。
* *
それからさらに数日後、堕天男の拳の先から黒い靄が出始める。
「あら~。やればできるじゃないの、ダーリン」
ここ数日威厳たっぷりの大魔道士だったブリーゼが、ひさしぶりに破顔した。
「この黒いのは何なんだ」
先日の魔法試合でシーに同じものをけしかけたことを、堕天男は憶えていない。
「これがあなたの魔力よ。本来はお腹の奥底に眠っているのだけれど、それをうまく操作できるようになってきたみたいね。なかなかいいセンスしているじゃないの」
妖しい笑みで堕天男に抱きつき、頬に軽く口づけをするブリーゼに。
「お、おい。くっつくなよ」
頬を赤らめながらうろたえる堕天男は、しかしまんざらでもなさそうだ。
「おや。今日は何だかご機嫌ですね。師匠」
己の師に冷たい視線を向けるシーが、張りついたような笑顔で言った。
相変わらず師の授業を監視しているようだった。
「また堕天男を食い物にしたのですか。まったく」
「ああら。違うわよ。どこぞの馬鹿弟子と違って飲みこみが早いから、感心していたのよ」
「飲みこみですか……基本発火魔法くらいは扱えるようになったのでしょうか?」
「いいえ。からっきしね」
「ダメじゃないですか」
呆れ顔でそう言うシー。
うん……まあ予想はしてた、と、堕天男は心の中でうなだれる。
すでに物体操作魔法や衝撃魔法、基本の防御魔法を使えるようにはなったものの、自在に空を飛び、手から光のロケット弾を連発できる、言うなれば人間爆撃機のシーと比べたら、まだまだヒヨッ子なのだろう。
その人間爆撃機だって、あの母や店長ら天使どもに比べれば劣るはずだ。
でなければ、そもそも幻惑魔法などかけて逃げる必要などなかった。
先はまだまだ長い……
そうげんなりする堕天男に。
しかし、ブリーゼ。
「ほら。馬鹿にされてるわよ、ダーリン。見せてあげなさい」
と、耳元で妖艶にささやく。
何を見せるんだろう……とりあえずさっきの黒い靄を出してやればいいのか、と、堕天男は精いっぱい、腹に力をこめた。
「憤ッ――!」
ボワン。
一気に力をこめたせいか、黒い靄状の物質は。
先ほどよりも勢いよく、煙幕のように四方八方に放出された。
「な」
意外にも眼の前の魔法優等生は、驚いたように眼を見開く。
「ああら。さっきよりもさらにイイわァ~。さすが私のダーリン♡ 今日は特別にた~っぷりご褒美あげるからね♡」
「いや……それはいい」
先日、まあ……色々と吸いとられて腎虚になった記憶が蘇る。
こうしている間にも、〈第三世界〉では多くの同胞たちがかつての堕天男のように過酷な労働刑を受けているのだ。
「なるほど……たしかにセンスはいいようですね」
シーはなぜか悔しそうに顔を歪めた。
「他人事みたいに言ってるんじゃないの。ボサッとしてるとあっという間に抜かれるわよ」
「それより、もっと高度な魔法を教えてくれ。シーのように、爆弾をぶっ放す魔法とか」
「焦らないの、ダーリン。物事には順序ってものがあるのよ。明日にはお姉さんがとっておきを教えてあげるわ。だから――」
堕天男の視界が、まるで全身麻酔をかけたように、急激にぼやけていく。
「う……」
ずっと魔力を放出し続けたことにより、実は堕天男の魔力と精神力は、限界近くまで枯渇していたのだ。
「今日はもう、お休みなさい」
立ったまま白眼を剥いて気絶し、倒れこむ堕天男を、ブリーゼが優しく抱き止めた。




