第十話――伝説の大魔道士
「うおおおあああああ――!」
シーの危機に気づいた堕天男が何も考えずに突っこんでこなければ、彼女は今ごろ原型も留めぬ肉片と化していたであろう。
堕天男の、決死の特攻――
たったコンマ数秒、決断が遅れていれば。
彼はシーもろとも暗黒騎士の巨大剣に押しつぶされ、仲良くあの世行きだったであろう。
しかしそうはならず。
間一髪、二人の死は回避されたのだった――
「冗談じゃないぞ、こんなの!」
シーをお姫様だっこしたまま全力疾走する堕天男は、恐怖のあまり裏返った声で叫んだ。
「修行する前に死んじまったら意味がないだろう! さっさと帰るぞ、こんな魔王城。出口はどっちだ。魔法なら、お前が教えてくれれば――」
意識の朦朧としていたシーは、堕天男の腕の中で何も語らず。
――ただ恐怖に顔を歪め、彼の後ろにいる〈何か〉を、見上げていた。
百メートル走三秒台の凡夫たる堕天男が、ウサイン・ボルトそこのけの俊足を誇る暗黒騎士から逃げられる道理はない。
これがフィクションならば主人公補正で何とかできたかもしれないが、生憎これはまごうことなき現実なのだ。
『終ワリダ。蠅ハ蠅ラシク潰レテ死ネ』
横薙ぎの鉄塊が堕天男とシーを引き裂かんとする――その時。
「『硬化せよ』」
何者かによる呪文の詠唱と、ほぼ同時に。
暗黒騎士がスチル写真に捉えられたかの如く、静止する。
「はー。なあにやってんのよ。この馬鹿弟子は」
ため息とともに、落ち着いた大人の女性の声が聴こえる。
それを受け、堕天男の腕の中でシーは。
「お師匠……」
と、小さく呟いた。
人間味を感じさせぬ白い肌に尖った耳は、シーと同じ〈魔族〉であることを思わせる。
そして闇夜を想起させる暗紫の髪と、桜さながらの桃色の瞳は、その人間離れした色気、さらにソファーか何かに座っているような姿勢で空中浮遊する非現実的な光景と相まって、妖しい雰囲気を醸し出していた。
明らかに只者じゃない感を出していたその女性を見て、堕天男は確信する。
彼女こそがシーの師匠――伝説の大魔道士〈万魔典〉ブリーゼ・フヴェルゲルミルその人であると。
堕天男の生物としての本能が、最大級の音量で警鐘を鳴らす。
彼女がその気になれば……否、気まぐれに適当な呪文をひとつ唱えるだけで、自分はシーもろとも一秒後にはこの世から抹消される――
背後で硬直している暗黒騎士などとは比較にもならぬ、あまりに大きな戦力差。
決して逆らってはならない――それは死を意味する、と。
「ああら♡ 馬鹿弟子ったら、いつの間に男なんて作ったのよ。こんな若くてピチピチ(死語)の男連れてくるんだったら、先に言いなさいよね、もうっ」
いきなり頬を紅潮させて艶かしく体をくねらせ、肘でシーを小突くブリーゼを見て、堕天男の中に汚泥の如くこびりついていた死への恐怖が、消失した。
「んもう! せっかくひさしぶりに若い男が来たっていうのに、あなたが無断侵入なんてするから危うく殺しちゃうところだったじゃないの!」
ハイテンションでシーを糾弾する、見た目は三十代くらいの、露出度の高いローブを纏った熟女。
「相変わらず若い男を見ると節操がありませんね。お師匠」
やれやれ、と、ため息をつきながら脱力するシー。
暗黒騎士の石の弾丸に全身の骨をへし折られる重傷を負っていた彼女は、しかし稀代の大魔道士の鶴のひと声(治癒魔法)で何事もなかったかのように座り、自ら入れた紅茶を優雅にすすっていた。
「だって! こんな荒野に籠もっているんだもの。魔法生命を作ったり異世界から暗黒戦士を召喚することはできても、生身の、しかも若い男なんてそれこそ何十年ぶりかしら――ユリウス以来かしらねえ」
妖艶な笑みを浮かべて堕天男をチラ見し、舌なめずりをするブリーゼに、しかしシーは真顔で諌める。
「三十五年前ですね。彼――ユリウスがお師匠のもとから逃げ出したのは、婚約者がいたにもかかわらず、あなたが無理矢理……したのが悪いんですよ。いい加減過去から学んでください」
「ああら。それは無理な話よ。若くてピチピチな男と〈ピ――〉できなくなったら、私は何を糧に生きていけばいいのかしら。千年も生きれば魔法研究なんてもうすることもないし、〈ピ――〉もできないこんな世の中じゃ、もう滅ぼすしか……」
ブリーゼは蠱惑的な微笑でさらりと途方もない年齢を暴露し、とんでもないことを口走る。
「お師匠も黒き翼の組合に入って、教団に迫害されてる同志たちを救うの手伝ってくださいよ。お師匠がいれば百人力――いや万人力、いやいや不可説不可説転人力です。堕天男のような若い男だけでも救って、つまみ食いすれば良いでしょう」
「嫌よ、そんなの。私は働きたくないの。労働なんか絶対に嫌。あなたが若い男とっ捕まえて連れてきてよ。魔法教えてあげた恩を、今こそ返す時よ」
伝説の大魔道士も、蓋を開けてみれば欲求不満の残念熟女である。
先ほどまでの緊張感は一体何だったのか、と、堕天男の全身を凄まじい疲労感と脱力感が支配していた。
「魔法を教えてもらう代わりに、身の周りのお世話は全部私がやったじゃないですか」
事務的口調をやめ、ややムキになってシーは反論する。
「じゃあ何しに来たのよ。冷やかしならさっさと帰りなさい。私はこう見えて忙しいの」
働かない無職に忙しいも何もあるのか、と、疑問の眼差しを向ける堕天男に、しかしブリーゼはかく語りき。
「さっさと漫画の続きが描きたいのよ」
「お師匠の仰る漫画とは、殿方と殿方が絡みあう、何というか奇特なもので――」
「シャラップ!」
堕天男に耳打ちするシーを、変な印象を抱かせまいと遮る熟女。
「率直に言いましょう。堕天男に魔法を教えてください」
「何だ、そんなこと。いいわよ」
あまりにもあっさり承諾され、シーは意外そうに眼を丸くした。
「条件とかは、ないのですか」
念を押してそう訊ねるシーに。
「んー。そうねえ。家事はやっぱり面倒くさいわ。魔法で片づけるにも限度があるし。魔法メイドの生み出す料理は味気なくてねえ。昔みたいにまたシーがやってちょうだいな。あなたのシン料理が恋しいわ」
なお補足しておくとシン料理とは、〈第一世界〉東方の大国でありシーの故郷でもあるシン帝国の料理のことである。
「いいでしょう。ただし堕天男に魔法を教えている間だけですよ。私をつなぎとめておくためにわざと教育を遅らせたら、即座に出ていきます」
「な〜によ、いけず。久しぶりに会えたのに、そんな態度ってないんじゃないの?」
「あなたが私に何をしたのか、お忘れのようですね」
張りついたような笑顔でそう言うシーの瞳の奥には、何か得体のしれない黒いモノが渦巻いていた。
いったい彼女たちの間に何があったのか、と、堕天男はふたたび緊張で体を硬直させる。
「まあ、正直退屈しててねえ。若い男の子なら大歓迎よ」
そう言ってブリーゼは堕天男に近づき、顎を軽く指で掴み、引き寄せた。
それは彼女の全身から溢れだす無尽蔵に等しい魔力のせいか。
あるいは魔族特有の、人間離れしたその妖艶さか。
堕天男は頬を紅潮させ、思わず唾を飲みこんだ。
「お姉さんが手とり足とり、教えてア・ゲ・ル♡」
ナニを教えてくれるんですかね、と、堕天男は期待半分、不安半分であった。




