カーテン
超短編です。
「朝飯食べた?」
「朝っぱら開口一番それか」
無造作に荒れた髪をそのままに寝ぼけ眼でそう問われ、つい答えるよりもつっこむ。
「食べた?」
「…まだ」
「よし、ホットケーキ食べよ」
「あら珍しい。焼いてくれるの」
「…え。」
「自分で言い出して人にやらせる気かよ」
「お願いします」
「お前な…その代わりそこの時計外しといて」
「りょーかい」
知り合って12年目。
お互いに研究室や実習が忙しくなり、助け合おうと一緒に暮らし始め、気が付けば3年が経とうとしている。
時は流れ行く川の様だ。
人もまた変わる。
それはいつの時代も普遍的な事実なのだろう。
「あ、牛乳切れてる」
「コンビニ行く?」
「あり。一緒に行くわ、財布取ってくる」
「はーい」
新築の8畳一間、入居時は真新しいキャンバスだった壁も、大小様々な傷や色に彩られた。
「…懐かしいな」
財布を置いてある本棚のすぐ側にある大きな引っかき傷を、そっと親指の腹でなぞる。
「何してんの」
「これ」
焦れたのか玄関から戻ってきた彼、義人は隣に立ち少し笑みを浮かべた。
「これ転けて椅子でやらかしたやつか」
「そうそう」
「…修理代、怖いな」
「そこはお互い様、全て折半にしましょう」
「えー」
「あっちの傷は君がつけたんでしょーが」
「折半にしようそうしよう」
「早いな」
名残惜しいと思いつつ、腹の虫を抑える為にも早くコンビニへ……いや、
「やっぱあっちのスーパーに行かない?」
「…あり。行こっか」
コンビニより遠いけれど、閑静な並木道や公園を抜けた先にあり、お手頃価格で財布に優しかったスーパーはかなり重宝した。
「暖かくなってきたねー」
「まだ蕾だな」
「ね、開花予報が楽しみ」
見慣れた公園のベンチに落ちる梅の花を掬い上げ、陽にかざす。
ふわりとくすぐる香りは、この3年を思わせるものだった。
「バウムクーヘンいる?」
「いる。ヨーグルトは?」
「いる!ギリシャね!」
「はいはい、蜂蜜のな」
「さっすがー」
買い物を終えて部屋に戻ると、換気のために窓を開けたままにしていた事を思い出す。
「あー!窓!」
「あ。まー特に大事なもの無いしいいだろ」
「それもそっか」
カーテンも外した窓からは、柔らかな春が訪れを知らせる。
「「気持ちいいな」」
「ハモった」
「な」
最後のバウムクーヘンと最後のヨーグルト。
残せないから牛乳はミニパックで。
泡立て機やフライ返しは洗って段ボールに。
ひとつひとつ、その時を迎える準備をする。
「義人はあれ、この後鈴谷宅直行?」
「あーそれな。荷物運んだら綾連れて実家に行くつもり」
「らぶらぶですねー」
「らぶらぶですよー」
「くそぅ、なんだこの敗北感!」
「自分で言っておいて!」
ゴミは一纏めにし、最後の段ボールに封をすると後は引っ越し業者が来るのを待つだけだ。
「薪は大学病院だっけ」
「そうだよー。義人はご両親のところ?」
「そうそう、でも研修は大学病院」
「そっかーならライバルだー」
「何のだよ」
「…年収?」
「世知辛い!」
「わーくらいふばらんす?」
「現実が!」
窓へ差す木陰が伸びる。
あと15度ほどだろうか。
『本当に好きなら手放さない』
ーーーうるせえよ、と。
唯一人の幸せを願っていた。
幸せとは複合的な物だ。
様々な幸せを紡ぎ、一人の幸せが叶う。
それは周囲のーー家族の、幸せも含まれていて。
彼一人の問題ではない。
彼が彼女と結ばれる事は、片思いをしていた者が不幸になるだけだ。
しかし、彼が、彼がもしーー。
そんな事を考えるのは今日で最後にしよう。
もう全て終わりだ。
あの時、人生から逃れようとした時に救われた御礼は出来たのだろうか。
時間も労力もお金も、何一つ惜しくなかった。
この両手には、何一つ残ることは無かった。
本当に欲しいものは、何一つ手に入らなかった。
新たな居場所は築50年は経つ古びたアパートだ。
こだわりなど何もない。
あの部屋から移す場所が必要だった。
錆びと埃で薄暗く汚れた鎖を撫でる。
立入禁止の文言さえも崩れている。
少し鎖を乗り越えれば、雨風に晒され転倒しているベンチがあった。
ベンチを起こして座り、数刻前が夢であったかの様に澱む風を受ける。
どうか、これが蝶のみる夢ならば。
紫煙の雲は、まるで青空のように透き通っている。
手を伸ばしても届かないが、もうすぐ触れられる。
ほんの少し背伸びをして、あと少し。
ーーーああ、
こうして、抱きとめられたかったな。
いかかでしたでしょうか。
初の短編投稿、緊張しました。
続編は考えておりませんが、感想を頂ければ幸いです。