後編
目が覚めると、涙が零れていた。一筋の濡れた跡を手の平で拭う。
あの夢は一体なんなのだろうか。お祭りに行きたいあまりに現れた願望か、それとも……。考えれば考えるほど、胸の奥が締め付けられそうになる。どこも怪我していないはずなのに、なぜか痛いと感じてしまう。僕は一体どうしたんだろう。
「どうしたの、奏多?」
お姉ちゃんの声。振り向くと、お姉ちゃんは先に起きていたようで、すでに身支度を整えていた。
「悲しい夢でも見てたの? お姉ちゃんに話せばスッキリするかもよ」
そう言って、お姉ちゃんは僕の頭を撫でる。その感触は夢に出てきた、あの女の人のそれとよく似ていた。
「ううん、大丈夫。夢は夢だから。もう平気だよ」
なんでもないように平静を装う。零れた涙を懸命に拭う。お姉ちゃんは心配そうに僕の顔を覗き込んでいたけれど、僕の言葉を信じたからか、何も言わないでくれた。
夢でみた場所はどちらも見覚えがあった。もしかしたら、この町のどこかにある場所なのかもしれない。それを確かめるため、僕は町を探索することにした。お姉ちゃんには目的を告げずに家を出た。
家からちょっと歩いた所に公民館がある。そこには町の地図が書かれた看板が設置されている。それを頼りに神社と公園を探すつもりだ。
公園は公民館からはそう遠くない。神社は山の麓辺りにあるけど、一日で周るには十分な距離だ。まずは公園から見てみよう。
今日も晴れの日で、太陽が容赦ない日差しを注いでくる。流れ出る汗が服に染みてベタつく。それが嫌に気になる。家から持ってきたタオルで顔の辺りを拭う。
公園に辿り着く。砂場も水飲み場も滑り台も鉄棒もジャングルジムも、ここにある何もかもが、静かに佇んでいた。
ここじゃない。夢でみた公園とは見た目が違う。けど、何かが引っかかる。何が?
表そうにも表すことのできない思いに苛まれながら、今度は神社を目指す。
何故だろう。いつも通りの町中を歩いているはず、なのに。どうしようもなく不安になってくる。あの夢をみてからというもの、僕の中で何かが渦巻いている感覚に陥っている。これ以上考えるのはダメだ。取り返しのつかないことになってしまう、そんな感じ。心臓のドキドキが徐々に速くなっていく。
とにかく、神社へ行こう。今はできることをやるだけ。よく分からないモノに怯えてどうするんだ。首を横に振って、半ば強引に思考を遮る。神社へ向かう足は駆け足気味になる。
そして、神社へ。結果は、違っていた。夢の中でお祭りが開かれていた所とは姿形が異なる。
確かめたいことは確かめた。それなのに達成感とかはなくて、ただ呆気にとられていた。
僕が探索したことは全くのムダだったのか。根拠はないけど、そんなことはないと思える。もう少し粘れば何かが解るかもしれない。
ダメ元で鳥居の奥へ進んだ。そこで思い出した。僕の手を握ってくれた、あの温もり。
人だ。夢の中のお祭りへやってきたたくさんの人たち。誰か知り合いがいたわけじゃないけど、人がたくさんいたのは憶えている。テレビでも大勢の人で賑わっていたのを映していた。
その人たちは一体どこにいるのか。どこからやってきて、どこへ帰っていくのか。それが解らない。
そもそも、僕はお姉ちゃん以外の人に出会ったことがない。あれだけ町を歩き回っていたというのに。ただの一度も、他の人に出くわしていない。なんで、そんな重要なことに気がつかなかったのか。
それが不安の正体だった。それとともに、新たな疑問が浮かんだ。解決するためには、家へ帰る必要がある。きっと全てが解るだろう。
「ただいま」
家へ帰ってきた。道中は頭の中がごちゃごちゃとして、どこを通ってきたのかなんて憶えていなかった。
「おかえりなさい。今日も暑かったでしょ。早くシャワーを浴びてらっしゃい」
いつものようにお姉ちゃんが迎えてくれた。いつもと同じ笑顔。今はそれを見ると、胸にチクリと痛みが疾る。
「どうしたの? 何かあった?」
何も答えない僕に対して、お姉ちゃんは首をかしげる。
全部、お姉ちゃんに話してしまおうか。このまま引っ込めてしまうよりもずっと楽になるだろう。でも、それはいけないことなんだということも分かっていた。打ち明けてしまえばきっとこれまでの生活が壊れてしまうだろうから。それはできればしたくない。だってお姉ちゃんとの毎日は、僕の中で大事なものだから。でも。
「お姉ちゃん……」
お姉ちゃんの顔をまっすぐに見る。お姉ちゃんは「うん」と答える。そして決心する。
「僕の家族って、お姉ちゃん以外にはいないの?」
頭の中で引っかかっていたことを口に出した。すると、たちまちお姉ちゃんの顔がこわばっていく。
「お祭りに行く夢を見たんだ。僕の他に、男の人と女の人も一緒で。三人で手をつないで屋台を歩き回って。女の人がわたあめを買ってくれたんだ。とても美味しかった。それから、同い年ぐらいの男の子たちと花火をしてた。いろんな花火を眺めて、すごくキレイだなって思った。どれもこれも、大事な思い出だったんだ。
「でも、この町には誰もいない。ここにいるのは僕とお姉ちゃんだけだ。今思えばずっとそうだった。僕が憶えてる限りじゃ、他の人に出会ったことは一度もない。これっておかしいよね。
「ねぇ、お姉ちゃん。お父さんやお母さんはどこにいるの? 友達はどこ?」
どうして今まで忘れていたんだろう。僕にとって、とても、とっても大事な人たち。それこそお姉ちゃんと同じぐらいに。そのことを思い出して、少しだけ、痛かったのが無くなっていた。
お姉ちゃんは僕の頭から手を離す。お姉ちゃんの表情は暗かった。いつも笑顔だったお姉ちゃんが初めて見せる顔だ。やがて口元が動く。
「そっか。思い出しちゃったんだね。大丈夫だと思ってたんだけど、お姉ちゃんの詰めが甘かったんだろうな」
お姉ちゃんはわらう。それは弱々しく、今にも崩れそうな表情だった。
それからお姉ちゃんは、僕の知りたかったこと、本当のことを教えてくれた。
実はこの世界は、本物の世界じゃないの。体感じゃ分からないかもしれないけど、ここはVR、バーチャルリアリティという科学技術によって造られた虚構の世界なの。あなたのためだけに用意された偽りの箱庭。
あなたのお父さんやお母さんは現実の世界で今もお元気でいらっしゃるわ。もちろん、お友達もそっちにいる。ただ、そこでのあなたは……。現実のあなたはベッドの上で寝たきりの状態よ。交通事故による下半身不随でまともに歩けない体になっているの。
事故に遭ってからのあなたはまるで抜け殻のようだったと聞いているわ。自分の足で歩くことのできない日々に苦痛を覚えるばかりで、常に生気のない瞳をしていたとも。不条理な不幸によって、あなたの希望も幸せも無残に壊されてしまった。
そんなあなたを見かねたご両親が下した決断は、あなたをこのVRの世界へ転送することだったの。
この仮想空間でなら、現実の肉体がどのような状態であろうと自由に動き回ることができる。外を走り回ることも、川で遊ぶことも、縁側でスイカを食べることも。なんだってすることができるの。いつか医療の技術が発展して、あなたの足が治るようになるまで、この世界に住んでもらう。それで少しでもあなたに人並みの幸せを感じてもらうことができるのなら、と医療機関がご両親に勧めたの。ご両親はそれに賛成した。そして、あなた自身も。
ここへ来る際に、それまでの記憶は封印させてもらったの。現実の不幸を背負ったままでは、この仮想空間での幸福を一心に受け入れることなんてできないだろうから。ご両親やお友達がここにいないのもそれが理由。
そして。私もまたこの仮想空間の一部。いわゆるAIという存在なの。私はあなたのお姉ちゃんじゃなくて、お姉ちゃんのフリをしてた偽物なの。騙すようなことをして、本当にごめんなさい。
お姉ちゃん、僕がお姉ちゃんと呼んでいたヒトは、深く頭を下げる。
今まで僕が暮らしていたのは偽物で、夢の中で見た記憶が本物。お姉ちゃんの説明を信じるならば、そういった結論に至る。聞いた話はあまりにも現実味がないし、それに信じたくないものだった。
──横断歩道を渡る僕。そこへ突然駆け込む自動車。ドン、という重い衝撃。薄れる意識──。
「奏多!」
お姉ちゃんが近づいて僕の背中をさすってくれているのを感じた。
どうやら今の記憶は、交通事故に遭う瞬間の光景だったようだ。息は絶え絶えに、心臓は破裂しそうなほどうごめいていた。そっか。この前感じたのは、意識を失う直前の記憶だったんだ。この世界と同じように、まぶしいほど日光が当たる、夏の日のこと。
「お姉、ちゃん」
精いっぱいの声を振り絞って、お姉ちゃんを見上げる。濡れた瞳がうるうると揺れ動く。
「大、丈夫。少し気分が、悪くなった、だけ、だから」
「でも……! 今の奏多、とてもしんどそうだよ! 私が余計なことを話しちゃったから!」
お姉ちゃんは悪くない。そう言ってあげたいのだけど、口は思うように動いてくれない。
だってお姉ちゃんがついた嘘は僕を想ってくれたからこそついたものなんだ。お姉ちゃんを責めるつもりなんて全くない。お姉ちゃんはやっぱり、綺麗で優しくて一緒にいると温かくなる、僕のお姉ちゃんなんだ。
僕は布団の上で横たわっていた。あれから意識が飛んでしまったようだ。
「気分はどう? 少しは楽になった?」
お姉ちゃんは僕の枕元に座っていた。穏やかな声はさっきまでとは打って変わっていた。僕は肯定の意味でコクリとうなずく。
お姉ちゃんが僕の体調を軽く調べてくれて、それからはしばらくゆったりと沈黙が流れた。僕は布団にくるまって頭の中を整理し、お姉ちゃんはただ僕の頭を撫でてくれた。
「お姉ちゃん」
「うん、なぁに?」
「僕は、どっちを選べばいいのかな」
一方は両親や友達が待っていて、歩くことのできない現実。もう一方は、お姉ちゃんと二人きりでどこまでも自由に走ることのできる虚構の世界。
僕は直感した。お姉ちゃんの話は真実なんだ。ここは機械で造られた世界で、本当の僕は別の世界にいるんだ。
自由に歩けないのは嫌だ。またあの頃のような痛みと無力さに苛まれる日々を過ごすのは、もうたくさんだ。ここでなら、好きなだけ外を駆け回ることができる。家に帰ればお姉ちゃんが待ってくれているし、二人並んでご飯を食べることもできる。ここには自由がある。
でも、向こうの世界にはお父さんやお母さん、友達らが待っている。こうしている間も、眠り続ける僕をみんなは見守ってくれているのだろう。みんなに会いたい……。そんな気持ちが次々と溢れてくる。
「奏多」
僕の名を呼ぶ声。それにつられて、お姉ちゃんの顔を見る。まっすぐな視線は、僕の答えをじっと待ってくれている。
そうだ。僕がもし現実へ戻ったとすれば、お姉ちゃんは一体どうなるのか。誰もいないこの空間で、たった一人で暮らすことになるだろう。次の患者が来るまで、ずっと一人で。
散々悩んだ。同じようなことを延々と繰り返し考えた。その度に胸が張り裂けそうになった。それだけの重さが、この選択にかかっているんだ。どれだけの時間が経ったことか。そして、僕は────。
とある病室にて。ベッドの上で、いくつもの機械に繋がれた少年が眠っている。彼の周りを囲うようにして、彼の両親と彼の主治医らが目覚めを待っている。沈黙が保たれていた中、彼の母親がポツリと呟く。
「私、時々怖くなるの。このまま奏多が向こうの世界へ行ったまま帰ってこなくなるんじゃないかって。夜、寝る前にそんなことを考えるものだから、一晩中体が震えてしまうのよ」
母親はうなだれる。やがてすすり泣く声が漏れ出る。そんな彼女を慰めるように、父親が彼女の肩を抱く。
「帰ってくるさ。今はちょっとばかり遠い所へ留学に行ってるんだと思えばいいんだ。こうしている間にも、奏多の足を治すための治療が施されている。いつまでも絶望的な現実のままにしてはいないだろう。僕達にできることは、奏多の帰りを待ってあげること。それだけさ」
彼の言葉に、少年の母親は静かに涙を流す。
「奏多くんの治療は今も問題なく進められています。それに、当院のVRシステムは最先端の技術を結集した代物ですので、ご心配には及ばないでしょう。こうしている間も、奏多くんはVR空間の中で幸せに暮らしています。彼の足が治るまでは、我々が万全の体制でサポートさせていただきます」
少年の主治医は母親を安心させるための言葉を紡ぐ。泣き続ける母親に代わって、父親が「ありがとうございます」と答える。
やがて、面会の終了時間となり、少年の両親は病室を出ることとなった。後ろ髪を引かれるような思いで、部屋を去る二人。医者らも、引き続き治療にあたるための準備をするため、一旦病室を出る。
誰もいなくなった病室に、少年一人。少年は依然として沈黙を守っている。酸素マスクに覆われた彼の表情は、とても穏やかだった。いくつもの機械が奏でる無機質なメロディーだけが部屋中に響き渡った。