前編
日光が燦々と降り注がれる夏の午後。僕は駆け足で家路を急いでいた。全身が焼けそうだ。額から汗がとめどなく流れ出る。
途中で休んでいこうかな。いや、家に帰るまでの辛抱だ。クーラーでキンキンに冷えた居間、氷と麦茶の入ったコップ、冷凍庫にしまってあるバニラアイス。それらを想像することで己のモチベーションを高める。僕はさらに加速した。
林道を抜けて、舗装された遊歩道へ。近所の家々がポツポツと見つかる。やがて目の前に横断歩道が現れる。信号は青だ。僕は止まることなく走り続け、ようとした。
車のブレーキ音。迫る車体。全身を襲う衝撃。視界には一面の青空。
一つ目の白線を踏んだところで、何故か足が止まった。辺りを見渡す。幸い自動車は通っていない。
とても嫌な感じがした。それが何によるものかは分からない。とにかく一刻も早く家に帰りたくなった。
横断歩道を渡って、再び走り出す。生ぬるい風が僕の肌を撫でる。
そして、瓦屋根の和風家屋が見えてきた。それが僕の家だ。ゴールはもうすぐ、いよいよラストスパート。門扉をくぐって玄関まで一息に駆ける。
「ただいまー!」
僕の声にこだまするように、奥の方から「おかえりなさーい」という声が返ってくる。
居間へ向かうと、お姉ちゃんが掃除をしていた。黒のロングヘアをなびかせて、白いワンピースとのコントラストがよく映える。いつ見てもお姉ちゃんは綺麗なお姉ちゃんだ。
「いっぱい汗かいたでしょ。先にシャワーを浴びてらっしゃいな」
お姉ちゃんがそう言うと、
「うん、分かった!」
と荷物を置いて、一目散に脱衣場へ向かう。濡れた服はカゴに投げて、風呂場へ入る。シャワーのバルブを緩めて、ベタつく汗を洗い流す。肌を伝うお湯がとても気持ちいい。
スッキリとした気分で再び居間へ戻ると、お姉ちゃんはキッチンで何やら作業をしていた。気になって覗いてみると、お姉ちゃんの懐中には大きなスイカがあった。僕の視線に気がつくと、お姉ちゃんは柔らかく微笑む。
「この間買ってきたスイカがあるんだけど、食べる?」
お姉ちゃんの誘いに、僕は悩む間もなく「食べる!」と答えた。
お姉ちゃんがスイカを切ってくれている合間に、僕は縁側へ移動する。スイカといえばやっぱり縁側がテッパンだよね。日差しが未だに肌をヒリヒリとさせるけど、これからスイカを食べるのだと思えば何も苦にならない。
どこかからかセミの鳴き声が聞こえる。鳴き方から察するにミンミンゼミだろうか。高々と鳴く声が鼓膜を震わせる。
手持ち無沙汰で庭を眺めると、アサガオが咲いているのに気がついた。青や紫、ピンクといった鮮やかな色合いが見事だ。とても綺麗に咲いていることだし、スケッチでもしようかな。あ、でも色ペンはどこだったっけ……。
自分の部屋へ向かって、ペンやらスケッチブックやらを取り出す。縁側へ戻ってきた頃には、
「おまたせー」
という声とともにお姉ちゃんがスイカを持ってきてくれていた。お盆の上に載せられたスイカが均等な二等辺三角形を成している。
お盆を間に挟んで、僕とお姉ちゃんは横に並んで座る。それからスイカを手に取って、まずは一口。水気たっぷりの甘味が口の中へ広がる。喉を通る時には、夏の暑さが和らいでいくのを感じた。
「今日は何をして遊んでたの?」
「今日はね、川へ行って魚釣りをしてたんだ。でも全然釣れなかった」
「それは残念だったね」
「うん、だから今度行った時は絶対に釣ってみせるんだ! その時はお姉ちゃんにも見せてあげるね」
「楽しみにしてるわ」
お姉ちゃんがにこやかに笑うと、自然と気持ちがウキウキとする。居ても立っても居られず、口の中に溜まったスイカの種を庭へ飛ばす。種は思いのほか遠くまで飛んでいって、草葉の陰へ吸い込まれていった。
食べ終わったスイカの皮や種を処理してから、居間でゴロゴロとすることにした。と思ったら、お姉ちゃんはおもむろに眼鏡をかける。それから、ノートパソコンを取り出しては何やら作業を始めた。「何してるの?」と聞きたいけれど、お姉ちゃんがあまりにも真剣な表情をしているので、口は開かずにいた。
お姉ちゃんが作業をしている手前、僕だけゴロゴロとしているのはなんだか恥ずかしく思える。なので、図書館から借りてきた本を読むことにした。
借りてきたのは、いわゆるディストピア物の小説だ。主人公は、病気も天災も犯罪も何一つ悪いことの起こらない世界の中で幸せに暮らしている。しかし、主人公が暮らしてきた世界は偽物で、現実世界では主人公は寝たきりの状態だという事実を告げられる。真実を知った主人公は悩み、葛藤していき──というあらまし。まだ読んでいる途中なので、結末は分からない。
もし、僕自身がこの本の主人公と同じ立場だったらどうするか。きっと彼と同様に悩んでは苦しい思いをすることだろう。ましてや、どちらの世界が良いだなんて決断はできないと思う。偽物とはいえ幸せに満ちた世界。不幸ではあっても歴とした本物の世界。答えを出そうにも判断材料が少ない。もしかしたらずっと決断できないまま生き続ける、なんてこともありえる。
怖い。素直にそう思える。この本はフィクションなのは分かってるけど、それでも本当のことのように考えてしまうと、やっぱり怖い。それと比べると、僕がいるこの世界がとても愛おしい。この世界に生きられて良かったと、胸を撫で下ろす。
気がつけば、もう夕ご飯の時間になっていた。お姉ちゃんはパソコンを閉じて、軽く背中を伸ばす。
「夕ご飯作ろっか」
「うん!」
本の途中にしおりを挟み、お姉ちゃんと一緒にキッチンへ向かう。二人で夕ご飯を作るのが毎日の日課になっている。僕とお姉ちゃんとの共同作業、なんて言うと小っ恥ずかしいよな。
お姉ちゃんが食材を切り、僕は鍋の見張りをする。トントンと奏でる包丁のメロディーにグツグツと煮える鍋のリズム。二人肩を並べて家事に取り組むこの時間が、一日の中で最も好きな時間だ。
「なんだか嬉しそうね。何を考えてたのかな?」
お姉ちゃんはいつの間にか僕の方を見てニヤニヤとしていた。顔が熱くなる。
「な、なんでもないから!」
お姉ちゃんから視線をそらして再び鍋を見る。鍋はさっきよりも強く泡を吹かせていた。
「「いただきまーす」」
二人手を合わせて、一緒に掛け声をかける。テーブルには、冷やし中華をメインに豚しゃぶサラダとナスのおひたしが並んである。盛り付けはバッチリで、我ながらとても美味しそうに仕上がっている。まずは冷やし中華から。つゆと絡んだ麺があっさりとした味でスルスルと食を促す。
「今日も美味しいね」
なんて口に出してみると、お姉ちゃんは「そうだね」と言って微笑する。
夕ご飯を食べ進めている中、テレビの向こうではニュースが放送されていた。
『────ただいま○○県××市では夏祭りが行われています。見てください、この活気! ズラッと並ぶ屋台に大勢の人が集まり、心ゆくまでお祭りを楽しんでおります』
リポーターの人が元気良く祭りの雰囲気を伝えている。賑やかな様子が映像だけでもよく分かる。
夏祭りか。とても楽しそうだな。僕も行けたらいいんだけど。
叶うとも知れないお祭りを夢想する。お姉ちゃん共々浴衣を着て、手を繋いで歩く縁日。わたあめにチョコバナナを食べては、射的に熱中する。金魚すくいにも挑戦するけど、多分僕の実力だと一、二匹が精々かな。一通り屋台を見て回った後は、打ち上げ花火を観る。色とりどりに夜空で咲き乱れる花々。それを眺める僕とお姉ちゃん……。考えるだけでワクワクする。
テレビに映る人達も思い思いに屋台を巡り歩いていて、とても楽しそうだ。羨ましいな。そう思うと同時に、なぜだろう。心にポッカリと穴が空いたような気持ちになるのは。
「ねぇ、お姉ちゃん。お祭り、行ってみたいね」
ワクワクを共有しようと、お姉ちゃんにそう言ってみた。すると、
「そうだね。いつか行ってみたいね」
テーブルに目を向けたまま、お姉ちゃんは答えた。
それからしばらくして。夜もすっかり更けてきたので寝る準備をすることにした。畳の上に布団を敷く。形はいつものように隣り合わせだ。
「それじゃ、電気消すね」
お姉ちゃんがそう言うと、部屋は間接照明のみを残して闇に紛れる。お姉ちゃんが隣の布団へ潜るのがシルエットとして見える。
「おやすみ、奏多」
「おやすみ、お姉ちゃん」
挨拶を交わすと、それきり会話はなかった。しばらくソワソワと落ち着かなかったけど、そのうちに眠気がやってきて、とうとう眠りに落ちた。
僕は神社の前に立っていた。鳥居の向こうは騒がしく、大勢の人が往来している。
「奏多、こっちへ来なさい」
数歩先へ進んだ所で、男の人が僕の名前を呼んだ。誰なのかは知らない。なのに、とても懐かしい心地がする。僕の足は自然と男の人の下へと向かう。
男の人の隣には女の人もいた。僕が近づくと優しい笑みを浮かべて、
「あっちの方でわたあめが売ってるみたい。買ってあげるわね」
と言った。女の人が僕の右手を手に取る。空いた左手は男の人が握る。それから神社の中へ入っていく。二人から伝わる手の温もりは、不思議と心地が良かった。
右はたこ焼き、焼きそば、ベビーカステラ。左はお面、くじ引き、輪投げ。たくさんの出店に目移りしてしまう。通りすがっていくたくさんの人たちは、誰もが晴れやかな表情を浮かべている。やがて目的のわたあめ屋へ着くと、女の人がわたあめを買ってくれた。一口かじれば、ふんわりと甘い世界へ。わたあめを堪能していると、女の人は優しく僕の頭を撫でた。
次に、僕は公園にいた。周りには僕と同い年ぐらいの男の子たちもいた。僕達が手に持っているのは、木の枝ぐらいの細長い棒。先端から白い光がバチバチとほとばしっている。
外は暗くて遠くが黒に染まっている中、いくつもの白い光が僕達を照らす。光を眺めるみんなの瞳もまたキラキラと輝いている。
それからも。地面をクルクルと回る輪っかの光、筒から激しく飛び出す光、色とりどりの光を眺めていた。
「綺麗だな」
誰かがそう呟く。「そうだね」と頷く。先ほどまでとは打って変わって、静かに散っていく淡い光。迫力があるわけではないけれど、終わりの時までずっと目が離せなかった。




