9:鋭すぎる結婚相手
「ただいま、クレア! 今帰ったよ!」
ぶんぶんと手を振る彼を見て、使用人たちまで踊り場にいるクレアへ一斉に視線を移す。
「お、おう。おかえりなさいませ、サイファス」
挨拶を返すと、サイファスは羽のように身軽な動きで手すりを飛び越え、クレアの前に降り立った。恐ろしい身体能力の高さだ。
「会いたかったよ、私の奥さん」
甘い言葉を受けたクレアの背中がムズムズし出すが、そんなことはお構いなしにサイファスの青い瞳が迫る。
「こんな遅くまで待っていてくれたんだね、ありがとう」
小さく音を立て、サイファスがクレアの頬に口づけた。
「問題ありませんわ」
「嬉しいよ……さあ、もう夜も遅い。レディは着替えて眠る準備をする時間だ。部屋まで送ろう」
素直に頷くと、壊れ物に触れるようにサイファスがクレアの手を引いた。
穏やかそうに見えるが、戦帰りの人間は気が高ぶるものだ。
心を鎮めるため、娼館へ通う者も多いと聞く。
残虐鬼の内心がどうなっているのか気がかりである。
(サイファスは大丈夫なのか?)
クレアが悩み始めたのと、サイファスが声を発するのは同時だった。
「クレア、よかったら入浴を済ませたあと、部屋で待っていてくれるかい? せっかくお嫁に来てくれたのに、ゆっくり話す暇もなかったから」
……これは、初夜の誘いなのだろうかとクレアは頭をひねった。
(まさかな)
クレアは異性が怖いわけではない。
しかし、サイファスと夫婦になる未来が思い浮かばない。
(まあ、なるようにしかならんか)
素直に部屋まで送られたクレアはメイドたちに言われるがまま入浴し、寝台の縁に腰掛けてサイファスを待つ。
クレアとしても、彼に質問したいことがたくさんあった。
ふと、天井裏に気配を感じて声をかける。
「……アデリオか?」
問いかけると、声が降ってくる。
「そうだよ。そっちへ行っていい?」
「ああ、もう少ししたらサイファスが来るが……」
天井板の一部が外れ、アデリオが器用に降りてくる。
元密偵でクレアの片腕だった彼は、このくらいのことなら簡単にやってのける。
「クレアは本当にいいの? 今ならまだ逃げられるよ? このままだと残虐鬼に貞操を奪われちゃうかもよ?」
訴えるアデリオの目は真剣だ。
「俺は嫌だ。今まで一緒に育ってきた大事なクレアを、あんな得体の知れない男に差し出すなんて」
思いのほか強い幼なじみの言葉に、クレアは驚いた。
「アデリオ、そんな大げさなもんじゃないぞ? あいつと寝たところで死ぬわけでもないし」
「クレアは馬鹿だし鈍いし、全然わかってない! 俺がどんなにあんたを……」
そう言うと、アデリオはつかつかと寝台に歩み寄った。藤色の瞳が間近に迫る。
「おい、何の真似だ?」
「ねえ、辺境伯に貞操を奪われるくらいなら俺でも良くない? ずっと一緒に生きてきた仲だし、俺がクレアの一番の理解者だろ?」
いつもの彼とは違う甘く激しい雰囲気のアデリオを前に、慄いたクレアは思わずのけぞった。
「……アデリオ。なら、今の俺の気持ちだってわかるな?」
負けじとまっすぐにアデリオの目を見つめると、ややあって彼は黙って顔をうつむけた。
肩上で切りそろえられた銀色の髪がさらりと流れ落ちる。
「お前が心配してくれたのは嬉しい。俺自身も長くここにいるべきではないと思っている。ただ……もう少し待ってくれないか? 俺の覚悟が決まるまで、全てのことに諦めがつくまで。どのみち、今のタイミングで辺境伯の元を去ることは避けたい」
ただでさえ王都での評判が悪い残虐鬼だ。
せっかく得た花嫁に速攻で逃げられたとなると、悪評に拍車がかかるだろう。
「初夜についても、回避する方法はいくらでもある」
サイファスはクレアたちに誠意ある対応をしてくれた。
クレアはサイファスやこの領地の人々になるべく嫌な思いをして欲しくない。
昨日今日で、そんなことを思うようになってしまった。
(今まで自分やアデリオのためだけに生きてきた身勝手な花嫁なのに)
そのくらい、この領地に住む者はクレアに親切で、情を抱かせるのである。
しばらくして、部屋の外に他人の気配がした。
すぐさまアデリオが窓から外へ飛び出す。
やや間を置いてノックの音が響き、扉の外から遠慮がちな声がかけられた。
「クレア、まだ起きているかい?」
「……大丈夫ですわ」
寝台から立ち上がったクレアがスタスタと歩いて扉を開けると、外にはいかにも湯上がりといった格好のサイファスが艶めいた笑みを浮かべて立っていた。
簡単な寝間着を緩く羽織っただけの彼は、クレアを見て嬉しそうに口を開く。
「よかった……中へ入ってもいい?」
「構いません。何か飲み物でも用意しますか?」
気を利かせるクレアを見て、サイファスは横に首を振った。
「大丈夫。それより、今この部屋にいるのはクレアだけだよね?」
彼は、部屋の中を注意深く観察している。
「……そう、です。どうかされたのですか?」
少し焦りながら、クレアはサイファスに質問した。
「ううん、なんでもない。私の思い過ごしだったみたいだから気にしないで」
一瞬アデリオのことを勘づかれたと思ったが、そうではないらしい。
(残虐鬼、鋭すぎないか?)
少し警戒しなければならない相手のようだ。