55:残虐鬼の焦り(サイファス視点)
その夜、サイファスはドキドキしながら妻の寝室の前にやって来た。
昼間浴びた血は綺麗に洗い流し、清潔な夜着に身を包んでいる。
今日こそ初夜の儀式を成功させようと、屋敷の者が結託してサイファスをクレアの元に送り込んでくれたのだ。
彼の後ろでは、セバスチャンとマルリエッタがサムズアップしている。
「ご武運を!」
「サイファス様、応援しております!」
いい大人になったというのに、二人はサイファスを昔のように扱う。
マルリエッタなんて、サイファスより年下なのに。
というか、恥ずかしいので、いちいち応援しに来ないで欲しい。
だが、二人の満面の笑みを前に、サイファスは何も言えないのであった。
緊張しつつ、フリフリのレースに覆われた妻の部屋へ足を踏み入れる。
しかし、中はもぬけの殻だった。
「……? クレア……?」
窓が開いており、外から夜風が吹き込んでいる。
しばらくして、部下の兵士が駆け込んできた。
「サイファス様、大変です……! アズム国から砦に『クレア様を攫った』と連絡が入ったそうです!」
「なんだって!?」
その後、マルリエッタからアデリオもいないと連絡が入る。
第七部隊からは「隊長もいない」と知らせが来た。
(二人はクレアを追ったのかもしれない。やむを得ない事情で、私にすぐ連絡できなかったのか?)
いずれにせよ、クレアを助け出さなければならない。
いくら彼女が強くても、敵の大軍の中ではどうにもならないだろう。
サイファスは急いで砦へ向かった。
すぐに全部隊に連絡し、ミハイルを初めとした精鋭の第一部隊と共にアズム国との国境沿いギリギリまで先行して進む。
(クレア、どうか無事でいて……)
最悪の事態も想定すべきだと頭のどこかで理解している。
クレアは残虐鬼の妻だからだ。
だが感情が追いつかない。
愛する妻のことを考えるだけで、冷静ではいられない。こんなことは始めてだった。
たとえ、クレアの身に何が起きていても、怪我をしていても純血を散らされていても、サイファスは今まで通りクレアを愛するつもりだ。
権力者の中には人質に酷い扱いをする者もいる。それは事実。
全てが明るみに出る前に秘密裏に妻を奪還したい。彼女の名誉のためにも。
アズム国側もサイファスの襲来に気づいていた。
国境沿いに陣取っていた敵の兵が、隊列を組んで味方に迫る。
機動性を最重視したため、サイファスの兵は少ない。
だから、討ち取るチャンスと見たのかもしれない。だが……
「邪魔だ、失せろ」
普段からは考えられないような冷たい声で、サイファスは言葉を吐き捨てる。
そのまま剣を掲げ、無表情で敵に突っ込んでいった。そして敵をなぎ倒していった。
後に同行していたミハイルが語った。
サイファス様の通ったあとには、無数の屍の道ができていたと。
そして、サイファスが国境を越えるかどうか逡巡していたその時、アズム国側から三頭の馬が走ってくるのが見えた。
思わず身構えるサイファスだったが、向こうからの呼びかけにハッと目を見開く。
それは、身を案じていた愛おしい妻の声だった。
「クレア!!」
三頭の馬は、国境を越えてルナレイヴ側へ入ってくる。
サイファスは馬に乗ったままクレアに駆け寄り、人目も憚らず大胆に馬上の彼女を抱きしめた。
……なぜか、ものすごく酒の匂いがした。
「クレア、本当に怪我はない? 小さな傷一つでも見過ごせないよ。帰ったらすぐに全身を改めよう」
小柄なクレアの体をかき抱いたまま、サイファスはランプで彼女を照らし、大きな怪我がないか確かめる。見たところ、出血などはないようだった。
クレア自身もケロッとしている。
「大げさだなあ、無傷だってば。アデリオもハクも怪我一つないから心配すんな。あ、それと、敵の王子を捕ってきたぞ。こいつで交渉できねえかな」
ハクの乗る馬には縄でぐるぐる巻きにされた、変な髪型の男がくくりつけられていた。気を失っている。
(これが敵側の第二王子? なんでこんなことになっているんだ!?)
変な髪型の男もまた、強烈なアルコール臭を漂わせていた。
(もしや……)
それを見て、サイファスは、色々悟ってしまう。
クレアは攫われたのではない。
わざと敵地に潜入して敵の頭を誘拐してきたのだと。
無意識のうちに眉をひそめ、クレアと向き合う。
「クレア、本当に君が無事でよかった。クレアを失うのではないかと、ずっと気が気でなかったんだ」
そう口にすると、クレアは普段通りの様子で答える。
「そん時はそん時だろ。次の妻を娶ればいい」
サイファスは耳を疑った。
根本的な部分で、自分たちは意識のずれがあったのだと気づく。
二人のすれ違いについて、今伝えないと、取り返しのつかないことになるような気がした。
「違うよ、クレア。私はそういうことを言っているんじゃない」
慌てて否定すると、クレアは不思議そうな目でサイファスを見る。
「私はクレアを愛しているんだ。君がいなくなるなんて、考えただけでどうにかなってしまう。クレア、お願いだから自分の命を大事にして」
「……んなこと言われてもなぁ。人の命なんて、吹けば飛ぶような軽いものだろうが」
弱く軽い命の灯火。ちょっと風が吹いただけですぐに消えてしまう。
それは、サイファスだって重々承知している。
幼い頃から、そして今でも、嫌というほど思い知らされているから。
「ああ、軽いよ。君の言うとおりだ。でも、だからこそ大切にしなきゃならない。ちょっとした油断で、すぐ消えてしまう儚いものだから、なおさら」
おそらく、クレアはサイファスの言った言葉を完全に理解できていない。
そういう環境で育ってきたからだ。
楽しければいい、その日無事ならいい。刹那的で享楽的。
でも、それでは駄目だ。いつか、彼女がいなくなってしまう。
せっかく出会えたのに、この手を離れてしまう。
大切な相手をつなぎ止められない。
(もうそんなのは嫌だ)
取り乱しそうになるサイファスに、冷静な声が掛かる。部下のミハイルだ。
「サイファス様、早く撤退しましょう。奥方様の身柄は取り戻したのですから」
ハッとサイファスは我に返った。
「……ああ、そうだな」
深呼吸をし、部下たちに撤退の指示を出す。
その際、クレアを抱き上げて自分の馬に乗せた。前に座る彼女をしっかりと支える。
手を放せば消えてしまいそうな彼女を、確実に腕の中に留めておきたかったのだ。




