47:不良令嬢、抱擁でフリーズする
新人を訓練した後、屋敷に戻ったクレアはサイファスの部屋にいた。
サイファスと楽しく喋っていたら、いつの間にか部屋に行く流れになったのだ。
急ぎの仕事もないし、彼の部屋で良い酒をたくさん飲ませて貰っている。
クレアに不満はなかった。
「クレア、こっちは毎年数本しか作られない希少なウイスキーで、むこうはビールだよ。セバスチャンが大事に保管していた十五年もののワインも取ってきた」
「王都じゃ手に入りにくい酒ばっかりじゃねえか! サイファス、お前、すごくいい奴だな!」
「おつまみもあるからね」
「サンキューな! サイファス!」
クレアは辺境伯夫人の生活を満喫していた。
日に日にルナレイヴでの暮らしを好きになっていく。
ふとした瞬間、クレオに戻れなくてもいいかもしれないと感じる自分に、クレアは嫌悪感とわけのわからない罪悪感を覚えた。
(何をやっているんだ、俺は……)
あれから、実家からの連絡は来ない。
新しいクレオが、それなりに上手く仕事を回している証拠だ。
自分はもう、ミハルトン伯爵家には必要ない。呼び戻されることなんてない。
本当は、もっと前からわかっていたはずだった。単に目を逸らしていただけで。
でも、このまま状況に飲まれたら何かに負けてしまうような、奇妙なプライドが首をもたげてくる。
「どうしたの、クレア。もしかして酔った?」
サイファスが心配そうに顔を覗き込んできたので、クレアは我に返った。
「なんでもない。このくらいじゃ酔わねえよ」
一人で考え込んでしまったことを誤魔化し、クレアは新たな酒を注ぐ。
実際にクレアは酒に酔わないし、弱い種類なら毒も効かない。そういうものに耐性を付けて育ってきたからだ。
「そういえば、クレアの本当の名前はなんと言うの? クレオもクレアも、ミハルトン伯爵が自分の都合で付けた名でしょう? それ以前は? 七十七番は、もちろん本名じゃないよね?」
唐突にサイファスに話しかけられ、クレアは戸惑った。そんなことを聞かれたのは初めてだったのだ。
アデリオはああ見えて相手を慮りすぎ、肝心なことが言えない性格なので、クレアは彼に名を聞かれたことがなかった。それは、ある意味正しい配慮なのだが……
「本名はない。あったかもしれねえけど記憶にない。本当に小さい頃に親に捨てられたから」
クレアの母親は生活費目当てでミハルトン伯爵に近づいた貧しい女だったらしい。そう父に聞いた。
けれど、ミハルトン伯爵に捨てられたため、彼との仲を取り持つ役に立たなかったクレアは用済みで邪魔になったようだ。母に付けられた名前は覚えていない。
孤児であるクレアは組織に売られる前、ストリートチルドレンとして生きていた。
家族や帰る家のないストリートチルドレンは、同じ境遇の子供同士でつるんで生活する。
幼いクレアは運良く年長の子供たちに世話されていた。「小さいの」と呼ばれていたが、特に名前はなかったように思う。今となっては記憶が曖昧だった。
ある程度大きくなった子供は路上に出て働き、自分が育てられた分、小さな子供たちに還元する。クレアのいたグループでは、そんな仕組みが出来上がっていた。
クレアの場合は、その前に人買いに捕まってしまったわけだが。
ストリートチルドレンは、事故や事件に巻き込まれることが多い。
クレアがクレオになってからは、彼らの生活向上のために職業訓練を行ったり、ミハルトン家の名前で孤児院を作ったりした。
だが、昔の知り合いは見つからなかった。
「……だから、サイファス。俺のことは、今まで通りクレアと呼べばいい」
番号でも他人の名前でもない。
適当に付けられた令嬢としての呼び名だが、「クレア」だけは自分の名だった。
そう伝えると、サイファスはなんとも言えない顔になる。
おそらく同情されているのだろうとクレアは思った。
サイファスは飲みかけのグラスをテーブルに置くと、クレアをじっと見つめて言った。
「頑張ったんだね、クレア」
酔いが回ったのか、サイファスの目元が赤い。
そのまま彼は正面からクレアを抱きしめてきた。
「サイファス!?」
突然の事態に、クレアは体を強張らせる。
そんな言葉を今までかけられたことがなかったのだ。
反応に困るというのが本音だった。




