4:夫婦の会話と未練
辺境伯の屋敷は、クレアにとって斬新な場所だった。
当主のサイファス・アリスケレイヴは、クレアより八つ年上の二十六歳。
戦の多い場所を治める領主は、それなりに経験を積んだ実力者である場合が多いが、それに比べると彼はかなり若い。
父親だった前の辺境伯が、早くに戦死したせいだという。
ただ、残虐鬼の話は王都まで聞こえてくるほどなので、それだけの実力があるのだろう。
王都で耳にしたのは物騒な話ばかりだったが、こちらでの彼は領民に慕われる良き領主のようだ。
屋敷に到着したクレアはすぐ、サイファスから「私の妻だ」と使用人たちに紹介された。
続いてメイドに引き渡され、彼女らに髪やドレスを整えられる。
苦行だったがなんとか耐えた。
再び花嫁らしい姿を取り戻したクレアを見て、サイファスは空色の瞳をキラキラと輝かせながら手を差し伸べる。
クレアはどぎまぎしながら彼を見た。
「クレア嬢。改めて遠い王都から東の辺境――ルナレイヴへ来てくれてありがとう。私も含めここの皆が、あなたを心から歓迎している。疲れているだろうけれど、この後領民への結婚発表があるんだ。もう少しだけ耐えてくれるかな」
「問題ない。このくらいの行軍なら慣れ……大丈夫ですわ。わたくし、とっても頑丈な令嬢ですの!」
クレアは慌てて令嬢らしく取り繕う。
「頼もしい言葉だね。でも、無理はしないで。君はか弱い女性の身なのだから」
甘い眼差しを向けられ、クレアは全身がゾワゾワした。
(俺が、か弱い……だと!?)
そんなことを言われたのは生まれて初めてだ。
今まで出会った誰もが、クレアのことを猛牛や大熊以上の頑丈さだとのたまう。
クレアは、サイファスの態度に戸惑うばかりだった。
「さあ、クレア嬢。そろそろ出発だから馬車に移動しよう。結婚発表と言っても、そこまで大層なものではないから安心して? ここから近い丘の上に見晴らしの良い塔があってね、そこから領民に君を披露するんだ」
「そうか。あのさ、サイファス」
「……!?」
名前を呼んだだけなのに、なぜかサイファスが悶えだす。
「どうした? どこか悪いのか?」
「……っ! なんでもないよ、可愛い声で名前を呼ばれて嬉しかっただけ。それで、話しの続きは?」
「えっと、わたくしのことは、気軽にクレアと呼び捨ててください。これから夫婦になるのですから」
「わかったよ! クレア!!」
心底嬉しそうに破顔し、クレアの手を取る彼の顔は林檎のように赤い。
(本当に、なんなんだ?)
クレアは、ますますサイファスがわからなくなった。
いくら考えても理解できないので、彼は未知の生物だと思うことにする。
その後、クレアたちは揃って屋敷を出て馬車に乗り込んだ。
辺境伯家の大型馬車は、なだらかな上り坂を進み、領内の丘の上にある塔を目指す。
そこで領民たちに結婚の発表がなされるのだ。
「クレア、君は本当に美しいよ。花嫁衣装も似合っている」
馬車の中、サイファスは彼の本心であろう賛辞をクレアに送る。
クレアは困惑しながら礼を述べた。
「あぁ、ありがとう」
「君みたいに素敵な女性を妻に迎えることができるなんて、私は幸せだな」
「サイファス、今までどれだけ女に恵まれなかったん……ですの?」
客観的に見て、サイファスは女性に人気のある容姿をしている。
サラサラの金髪も澄み渡った空色の目も美しい。
性格は温厚そうで何より強い。
(東の辺境という場所にさえ目をつむれば、嫁の来手はいくらでもいるだろうに)
なぜ、にわか令嬢のクレアごときに、彼がキラキラした目を向けているのか疑問である。
すると、サイファスは少し顔を曇らせて質問に答えた。
「そうだなあ。伴侶を望んで、かれこれ八年くらい経つけど。君が来るまで誰も私の傍にいてくれる令嬢は現れなかったんだ。三回ほど婚約にこぎつけたものの、上手くいかなくて」
「不思議なことがあるもん……ですわ。サイファス、落ち込むことありません。出会って間もないですが、お前は充分魅力的だと思う……いますわ」
「ありがとう。そう言ってくれる女性はクレアだけだよ」
微笑みながらクレアの手を取ったサイファスは、手袋越しにふわりとキスを落とす。
「お、おう」
なんともいえない違和感に襲われたクレアは、戸惑いつつサイファスを見上げる。
(いつもは逆の立場だった、クレオとしての俺がこうして女にキスをしていた)
こうして何かあるごとに、クレオだったときの自分との違いを思い知らされるのだろう。
もうクレアは、周囲から求められる期待の次期伯爵ではなく、ただの令嬢なのだ。
サイファスのことは嫌いではないが、異性として恋しているわけでもない。
政略結婚の相手……それだけ。
(アデリオに指摘されたとおりだな)
クレアはまだ、未練たらしく「クレオとして再起できる日」を待っているのだろう。
(ルナレイヴ辺境伯夫人の座も「一時的な身分」で、いつ手放してもいい地位だと思ってしまっている)
だが、「クレオ」という立場への強い執着は、どうしても消すことができなかった。