3:大根令嬢と美しき辺境伯
普通の令嬢なら悲鳴を上げて逃げ出すところだが、耐性のあるクレアは平気でその場に突っ立っていた。
そんなクレアの前で青年の足が止まる。
「お怪我はありませんか、クレア嬢」
彼の言葉を聞いたクレアは、持っていた剣をドレスの後ろに隠しつつ首をひねった。
「ああ、問題ない。しかし、どうして俺……わたくしの名前をご存じなのですか?」
後ろでは、アデリオが片手で顔を覆い震えている。
クレアの完璧な令嬢ぶりを見て、必死に笑いをこらえているのだ。失礼な従者である。
密偵時代は演技の練習もしていたクレアだが、がさつな性格ゆえに細かい芝居が苦手だった。
任務では力技メインの、脳筋でもできる役目を言いつけられることが多く、変装をすることがあっても少年姿。
クレオの影武者をしているときは多少礼儀正しく話すだけで楽だったが、令嬢役はやりづらい。
貴族令息から貴族令嬢になった途端、クレアは上手く取り繕うことができなくなった。
唐突に嫁げと言われたので、令嬢として体裁を取り繕う練習もろくに済ませていない。
人生の大半を男として過ごしたクレアにとって、女の真似――しかも、おしとやかな令嬢になることは苦行だった。
未熟な演技に気がつかないのか、言葉遣いなど気にしないのか、青年は微笑みながら言葉を続ける。
「私はあなたの夫だから」
彼の言葉を聞いて、クレアは得心がいった。
「はじめましてクレア嬢、私はサイファス・アリスケレイヴ。この先の領地を治める辺境伯だ」
「そういうことか」
クレアは警戒を解き、笑顔で彼に対峙した。
「なるほど。残虐鬼なら、あの卓越した剣技にも頷ける……ですわ。わたくし、感動いたしました」
荒事に慣れ、他人の技を見るのが好きなクレアは、心の底からサイファスを褒め称える。
サイファスはというと、クレアの反応に驚いた様子だ。
「クレア嬢は血を見ても平気、なの?」
「もちろん……」
まじまじと見つめてくる空色の瞳に、やや居心地の悪さを感じるクレアだった。
「そっか。女性から剣技を褒められたのは、初めてだなあ」
少し顔を赤くした彼は花のような笑みを浮かべる。
残虐鬼の名前にふさわしくない大変艶やかで儚く優しげな表情を見て、クレアは少しだけ動揺した。
(予想していた男とだいぶ違う。だが、あの剣技は本物だ)
目の前の青年が「残虐鬼」ということで間違いないらしい。
にこにこと笑うサイファスは、クレアを気に入ったようだった。
「嬉しいな。戦っている私の姿を見て、そんな風に言ってくれるなんて。屋敷へは一緒に馬車に乗って行こう。二人で馬に乗る方が早いけど、それでは君の体に負担になるからね」
慣れない「令嬢扱い」を受けたクレアは、全身がムズムズした。
(変わった男だな)
同じことを思っているのか、アデリオも複雑な顔つきでサイファスを見ている。
結局、クレアはサイファスと一緒に馬車で領地へ向かうことになった。従者のアデリオは、大人しく御者台に戻っている。
大量の酒瓶はどさくさにまぎれ、使用人たちがこっそり片付けたようだった。助かる。
サイファスの治める領地は、この国ゼシュテの東部――最果てにある領地だ。
そして、ゼシュテの東側はアズム国という好戦的な国に隣接している。
この国は、宝石の取れる鉱山を欲して度々ゼシュテに侵攻していた。
それを食い止めているのが、クレアの夫となる残虐鬼というわけだ。
今まで一度たりとも敵に負けたことはない彼は、ゼシュテ国最強の盾である。
しばらく走り続けた馬車は翌日、辺境伯領にあるサイファスの屋敷へ到着した。