10:新妻は深窓の令嬢(サイファス視点)
薄明かりの灯る妻の寝室で、サイファス・アリスケレイヴは柄にもなく戸惑っていた。
(駄目だ。妻が、クレアが可愛すぎて何もできない……)
目の前にいる新妻は十八歳。鮮やかな赤い髪と珊瑚色の珍しい瞳を持つ、それは美しい女性だった。
彼女は、まだ少女と言ってもいい見た目で、二十六歳のサイファスとは八歳違いだ。
(最近まで名前も聞かなかった相手だし、深窓の令嬢として大事に育てられてきたのだろう。たまに言動が変だけど……)
ミハルトン伯爵の話では、病弱であまり外に出られなかったということである。
そのせいで、日常会話に支障をきたしているのかもしれない。
サイファスは孤独なクレアを想って一人胸を痛めた。
(ここは、私がしっかり彼女を支えなければ)
そうは思うが、クレアに嫌われてしまう未来が頭をかすめ、未だに手を出せずにいる。
愛しの彼女はすぐ隣にいて、自分を見つめてくれているというのに!
サイファスは葛藤のあまり「くうっ」とうめき声を上げる。
これまでの人生で、残虐鬼である自分に対し、優しく微笑みかけてくれた令嬢はクレアだけだった。
他の令嬢たちは全員、サイファスを恐れたのだ。
最初は婚約に乗り気で優しく接してくれた令嬢たちも、戦闘中や戦帰りの彼を見た瞬間に態度を豹変させる。
残虐鬼であることを後悔したことはない。戦わなければ、領地を守ることができないのだから。
けれど、そのことで何度も婚約者に振られるのは精神的に堪えた。
初対面でクレアに血まみれの姿や凄惨な殺人現場を見られたとき、サイファスはこの結婚を白紙に戻されるだろうと覚悟した。
花嫁を守るためやむを得ず取った行動だが、若い令嬢には刺激が強すぎる光景だったに違いない。
幸い今まで迎えた婚約者は格上の貴族ばかりだったため、向こうから婚約撤回の話を切り出すことが可能だった。
しかし、今回の相手であるミハルトン伯爵家はアリスケレイヴ辺境伯家より格下に当たる相手である。
クレアがサイファスを恐れて嫌がっても、ミハルトン家側から結婚の撤回を切り出すのは難しい。
(彼女のために、私が動いて結婚破棄のお膳立てをしなければならないのだろうか……)
この先を思うと、サイファスは悲しみと情けなさのあまり目眩がしそうになる。
敵に囲まれたあの状況で、サイファスが頭を悩ませていたのはそのことだけだった。
そんなときだ、珊瑚色の瞳をキラキラと輝かせたクレアが、手放しでサイファスの剣技を褒めたのは。
あろうことか、彼女は血まみれ姿のサイファスをものともせずに話しかけてきた。
クレアを助けるためとはいえ、彼女の目の前で何人もの敵を斬ったというのに。
細くか弱い身で健気に微笑むクレアを目にした瞬間、サイファスは一瞬にして彼女に心を奪われたのである。
それと同時に、この花嫁を失うことが酷く恐ろしくなった。
だから、細心の注意を払い、彼女に紳士的に接するよう心がけた。
クレアの滞在中に隣国が攻めてきたりしたが、腹立ち紛れに蹴散らして急いで屋敷へ戻った。「自分が留守の間に、花嫁に逃げられたくない」と焦っていただけだったが、「鬼気迫る活躍でした」と部下はサイファスの活躍を賞賛した。
誰にでも気さくに接するクレアは、屋敷の使用人たちにも気に入られたようだ。
逃げられないようにさっさと既成事実を作れと、サイファスは古くから仕える使用人たちからせっつかれていた。
(そのことに異論はないが、余裕のない姿を見せてクレアに嫌われるのは困る。戦ってきたばかりで私も気が立っているから、自分を押さえられないかもしれない)
初心なクレアを怖がらせ、振られるなどということは、あってはならない。
そのほかにも、サイファスには気になることがあった。
やたらとクレアとの距離が近い従者、アデリオについてだ。
(あの従者は何者だろう、やけにクレアと親しげだ)
クレアはことの外、アデリオという従者に心を許しているように見える。
しかも、アデリオは白昼堂々とクレアの部屋に侵入して、彼女の傍に居続けるような図太いやつなのだ。
サイファスは愛する妻のことが心配で仕方がなかった。
もしかすると、アデリオはクレアに気があるのかもしれない。
(クレアも彼のことを想っているのだろうか? だとすれば、私は二人の仲を引き裂いたことになるのか? だが、クレアは誰にも渡したくない。彼女は私の妻だ……!)
サイファスは寝台に腰掛け、自分を見つめる妻にそろそろと手を伸ばす。
気付いたクレアが不思議そうに目を瞬かせた。
「どうしたんだ? サイファス?」
「いや、その……なんでもないよ」
意気地のない自分に失望しながら、サイファスは曖昧に微笑む。
だが、当たり障りなく答えた夫に対し、クレアはとんでもない言葉を返してきた。
「もしかして、ここで一緒に寝たいのですか?」
彼女のまっすぐな問いかけに、思わずサイファスは目を剥く。
(いやいや、勘違いしてはいけない。クレアは何も知らない初心な令嬢なのだから)
今の発言も他意はなく、普通に一緒に眠るかと問いかけているだけだろう。
貴族の令嬢は屋敷の奥深くで純粋培養されていると聞く。
病弱なクレアは尚更、ミハルトン家でそういう育てられ方をされていそうだ。
サイファスは身の内側から湧き上がる雄としての衝動を必死に抑える。
「クレア……私は、私は……」
「……?」
彼女に思いの丈を伝えたい。
しかし同時に「がっついている」と嫌われたらどうしようという不安も首をもたげる。
サイファスはしばらくの間、葛藤し続けた。そうして……。
「…………っ」
結局、何も言えずに妻の横で眠ることに決めたのだった。
朝まで指一本彼女に触れることができず、サイファスは寝不足の朝を迎える。
ゆっくり眠れた様子のクレアは、朝から隣でスッキリした表情を浮かべていた。




