１：不良令嬢の婚約事情
だんだんと緑が減り険しさを増し始めた山道を、黒い鉄製の馬車がスピードを上げて通り過ぎていく。
その頭上には、血のように真っ赤な夕焼け空が広がっていた。
馬車の窓からは、しかめっ面の花嫁が顔を出している。
燃えるような赤い髪に意志の強さを秘めた珊瑚色の瞳を持つクレアは、今年で十八歳になったばかりの伯爵令嬢だった。だが、少々素行に問題がある。
純白の花嫁衣装に包まれたその足は行儀悪く広がり椅子の上へと投げ出され、隣には大量の空になった酒瓶が転がっていた。
馬車の中にはアルコール臭が充満している。
「まったく、なんで俺がこんな格好をしなければならない。親父め、覚えていろ」
令嬢はふてくされた表情で口汚く、この場にいない父親に向かって抗議する。
乱暴な言葉に返事をするのは、御者台に座った小柄な若い従者――アデリオだ。
こちらは銀髪に藤色の瞳を持つ中性的な美青年である。
「黙って服に着られていなよ、クレア。この国の貴族令嬢は、嫁ぐ相手の家へ向かう時も花嫁衣装を着るしきたりなんだから。それから、貴族の令嬢は『俺』なんて言わないよ？ おしとやかに『わたくし』とか言ってみれば？」
その態度は主人である令嬢に対するものとかけ離れているが、周囲を固める護衛や使用人はそれについて何も突っ込まなかった。ひとえに慣れていたのだ。
クレオとアデリオは主従というより、気の置けない友人に近い間柄である。
「今まで男として生きてきたのに、急にお嬢様言葉で喋れと言われても困る」
「たしかに、お嬢様言葉のクレアなんて笑えるよね」
提案しておいて「笑える」だなんて酷い。
クレアは近くに転がる空の酒瓶をひっつかんだ。
「アデリオ、ごめんあそばせ？」
窓の外の御者台にいるアデリオに向け、クレアは勢いよく酒瓶を投げつけた――が、従者アデリオはそれを難なくかわす。
彼は余裕の表情を浮かべ、馬を走らせ続けていた。
「やっぱり避けた。可愛げのない従者ですわ」
「その言葉はそのまま返すよ。クレアお嬢様？」
ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべたアデリオは、隣にいた使用人に馬の操作を任せると、するすると馬車を伝って窓の中へ入ってきた。身軽である。
そうして、クレアの正面の席へ腰掛けた。
「ねえクレア、このまま俺と一緒に逃げよう。でないと本当に、残虐鬼に嫁入りしなきゃならなくなる」
クレアは化粧を施された長いまつげで瞬きする。
「アデリオ。逃げるというのは、今この場所からという意味？」
「そうだよ。嫁入りからも、あんたのお父上からも、この国からも逃げるんだ。クレア、本当にいいの？ 俺たちなら貴族じゃなくなったってやっていける。昔みたいに――」
アデリオの言うとおり、やろうと思えばやっていけるだろう。
自分たちにはそれだけの力がある。だが……
「今は無理。親父だって目を光らせているし、何かあれば黙っていない。昔でさえ、俺はあいつの手のひらの上で踊らされていただけだった。不確定要素が多すぎる」
馬車の中でアデリオと向かい合うクレアは、苦い感情と共に今までのことを思い返す。
かつて、クレアは名前を持たない孤児だった。
物心ついた頃にはこの国――ゼシュテ国の密偵を養成する組織で見習いとして働いていたのだ。
一つ年下のアデリオともそこで出会った。
幼いクレアは組織で実績を残し、それに目をつけたミハルトン伯爵という男に引き取られた。
その際、我儘を言って、組織にいたアデリオも一緒に連れてきてもらった。
そこでクレアは自分が「伯爵の落とし胤の一人」だと知らされる。
ミハルトン伯爵は国内各地で優秀な庶子を拾っては、将来手駒として使うために屋敷に引き取り教育を受けさせていた。
優秀でない者は、そのまま放置される仕組みらしい。
そんな中で正妻の子――クレオにそっくりだったクレアは、病弱な彼の影武者兼補佐として育てられた。
しかし、十五歳の時にクレオがこの世を去ってしまった。
正妻の子供は一人しかおらず、クレオを溺愛していた伯爵は大変悲しんだ。
そうして、終いには「庶子には彼の座を渡したくないと」意地を張りだした。
そこで、影武者だったクレアが臨時のクレオとして、とりあえず次期伯爵を演じることになったのだ。
クレアは真面目に役目を果たし、伯爵もそれに満足していた。
あの男が現れるまでは――
