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 俺は教室を飛び出した。


 先生の「戻りなさいっ」という制止の叫びが聞こえるが知ったことではない。

 廊下を爆走し、階段を全段飛ばして飛び降りていく。上履きを履き替えもせず、グラウンドの側を駆け抜け、閉まっている校門を一飛びで越える。

 校門周りを掃除をしていた事務員のおじさんが呆然とこちらを見ていたが、そんなものは些末事である。


 空は青く澄んでいる。一片の雲もなく、快晴と呼ぶに相応しい天気。

 しかし今の俺にとっては忌むべき空模様だった。土砂降りの雨だったら良かったのに。

 空を睨みつける。悠々と飛んでいく(トンビ)すら憎らしい。

 俺は虚空に向かって、大音声で叫んだ。


 「佳菜子さあああああああああん!」





 前述の学校からの華麗なる脱出劇から始まる、目まぐるしい珍道中を語る前に、俺の身辺について説明しておかなければならない。


 まず始めに、俺が名前を叫んだ『佳菜子さん』について語る。

 彼女の本名を『吉田佳菜子』といい、俺の同級生であり、クラスメイトである。朗らかな笑顔が魅力的な、春の野花のように可愛らしい女の子だ。

 性格も素晴らしく、いつも気遣いを忘れず人を立てるその姿勢は、現代では廃れてしまった大和撫子の趣がある。将来は必ずや良妻賢母となるであろう。

 男女問わず良好な交流を持ち、誰それを蔑むこともない彼女は、我らが学級の華であると言っていい。

 しかし高校に入学して間もない頃の彼女は、そのような明るい雰囲気を持ってはいなかった。

 何があったのかは知らない。ただ、彼女は段々と変わっていった。

 初期は無表情で、前髪を垂らし、眼鏡の奥に陰鬱な光を湛えた瞳を飼っていた。

 それがいつしか、笑顔が増え、髪をすっきりと整え、眼鏡をコンタクトレンズに変え、瞳は希望と優しさに満ち溢れるようになった。

 俺はどちらの佳菜子さんも等しく魅力的に思うが、彼女にとって今が幸せであるならば、それに越したことはない。


 次に語るべきは、俺が優等生であるということだ。

 だからどうした自慢のつもりか死ね、と思われるかもしれないが、俺は事実として、自他共に認める純然たる優等生だ。成績優秀、文武両道、品行方正。俺を表す言葉は数多く存在する。

 決して、学校をアクロバティックに抜け出すような人間ではない。しかし現実に、俺はそれをやってのけた。

 もちろん、理由あってのことである。


 初めて佳菜子さんを見た衝撃は、一年が経った今でも鮮烈に思い出せる。

 入学式当日、彼女が視界に入った瞬間、他の一切の景色が色褪せた。心臓が爆発するような勢いで脈拍が急激に上がり、あわや俺の脳味噌は茹で上がるところであった。

 その時俺が見たのは佳菜子さんの横顔のみで、他の新入生たちの群れに遮られすぐに見えなくなってしまったが、人が恋に落ちる時間などその一瞬で十分だった。

 俺は入学初日から吉田佳菜子に一目惚れした。

 理由などない。容姿に関して言えば上記の通り、暗い印象を受けるであろう佳菜子さんに、俺はメロメロになった。

 彼女が自分と同じクラスだと知ったときの感動は筆舌にし難い。自制心がなければ涎を垂らしながら赤の他人である彼女に抱き着いていただろう。やはり脳味噌はダメになっていたに違いない。


 中学までの俺はお世辞にも優等生とは言えない人間で、成績もよくて中の上ほどであった。部活もしていなかったので男らしい身体も、絵や楽器などの特技の一つも持ち合わせてはいなかった。

 しかし恋が俺を激変させた。

 俺は佳菜子さんとの恋路を成就させるにあたって、己自身を磨き上げることにした。今のままではとても彼女と釣り合わぬと判断したからだ。

 やるこべきことはたくさんあった。

 勉強、鍛練、精神修行の三項目を毎日みっちりこなしながら、彼女に披露する日を夢見て楽器や手品の練習に励んだ。図書館に通い詰め、詩や文学の素養も身に付けた。

 俺の人間性をアピールするために日頃の素行にも心掛けた。掃除を真面目に行い、教師をよく手伝い、指南書で得た技術でもって事あるごとにクラスをまとめ上げ、同級生の悩み事を次々と解決して回った。

 表彰台に幾度となく上がったが、俺が欲しかったのは紙切れではなく佳菜子さんからの視線であった。

 校内のあらゆる所で俺を褒め称える噂が流れていたが、俺にとっては佳菜子さんから褒めて貰えることだけが全てであった。

 そうして順調に人としてのランクアップを果たした俺は、綿密に立てた『佳菜子さんとラブラブになるための百八の課題』なる計画を実行に移した。実際に百八課目もあったわけではないが、それほど迂遠かつ慎重になっていたと思ってもらえれば良い。

 俺の下心を悟られないよう、外堀を埋め、石橋を叩き壊して鉄の橋をかけ、俺は着実に彼女との距離を詰めてきた。ついに今では昼休みの度に向こうから、昼食を食べに俺の席へ来てくれるようにすらなった。

 そしてフルマラソンのごとき苦難の道のりはようやく最終段階へ到達し、ゴールテープの先にイエス枕を掲げた佳菜子さんが俺を待っている光景も、現実のものになりつつあるように思われた。


 最後に、俺が何故、学校を飛び出て行ったのかをお教えしよう。


 佳菜子さんが本日付で、海外に留学するのだ。





 事は朝のホームルーム中に起こった。俺が教室を飛び出す、一分前のことである。

 担任の先生が出欠をとっている最中、隣の席の男子が小声で話しかけてきた。


 「なあ、お前さ、ヨシダのこと、何も知らねえのかよ」

 

 言われて俺は、斜め前辺りに位置する佳菜子さんの席をちらりと見た。

 そこに座っているべき当人は居らず、佳菜子さんは今日は学校に来ていないようだった。彼女の性格と統計から見るに遅刻とは考えられず、風邪でも引いて欠席してしまったのだろうと、俺は思っていた。

 「きっと風邪だろう」とその旨を伝えると、男子は深刻そうな表情で口元に手を当てて考え込んだ。不穏な緊張感が漂う。

 しばらくして彼が放った言葉に、俺は凍りついた。


 「あいつな。今日からアメリカに留学するんだって」


 晴天の霹靂であった。

 ポカンと口を開けて呆然とする俺に、男子生徒は重々しく続ける。


 「残りの高校生活は向こうで過ごすって話だし、もう会えるか分かんねえんだと。なあ、お前ら仲良かっただろ?本当に知らなかったのかよ」


 真っ白になった頭の片隅に、僅かに残っていた冷静さでもって、特技の一つである読心術を試みた。

 あまりにも突拍子がない。こいつの質の悪いイタズラだと、必死の期待を込めて観察する。

 しかし、どこにも、彼が嘘を言っている要素はなかった。


 俺は発狂した。


 「何時の便だ!何時に出発する!」


 男子生徒の胸ぐらを掴み上げて滅茶苦茶に揺さぶる。

 出欠確認中に突然起立し、大声を張り上げてクラスメイトに暴力行為を働く俺に、教室内の全員が奇異の目を向けてきたが、それに気を割く余裕はない。

 怯える隣人から飛行機の出発時刻を聞き出した俺は、即座に暗算し、全力を出せばなんとか空港に間に合うという結論を弾き出した。

 

 かくして俺の、怒濤の追走劇の幕が開けたのである。





 「ふざけろっ、ふざけろっ!」


 俺は鬼の形相で、街道を猛然と駆ける。

 

 どうしてこうなった。あと少しで告白しようと思っていたのに。春休み前に恋人となって輝かしい二年生のスタートを切り、ゆくゆくは夫婦として一生添い遂げる予定であったのに、俺の一年かけた努力と妄想は水泡に帰そうとしていた。

 ふざけろ。このままで終われるか。せめてお別れの挨拶をしたい。あわよくば恋仲の契りを交わして遠距離恋愛に持ち込んでやる。


 忌々しくも、太陽は青空の中で燦然(さんぜん)と輝いている。天候不良で飛行機が足止めを食らえばいいものを、そんな気配は微塵もない。

 この空に向けて旅立つ佳菜子さんを想像すれば焦燥に拍車がかかる。ああ、でも飛行機の窓から寂しげに街を眺める佳菜子さんは素敵かもしれないぞ。

 極度の緊張と、阿呆な妄想を胸に、自分の足へ鞭を打つ。

 「ママーあれなにー」と俺を指差す子どもとすれ違い、学校をサボった不良が絡んでこようとしたのを闘牛のごとく跳ね飛ばし、俺は最寄りの駅までの最短経路を突き進んだ。


 駅舎が見えてくる。

 腕時計を確認すれば目的の電車が来るギリギリの時間だ。俺は満身に力を込めて、歩道橋を駆け上がる。


 しかしそこに、大きな荷物を持ったおばあさんがいた。

 亀やカタツムリさえ追い抜けそうな、よろよろと覚束(おぼつか)ない足取り。いかにも重たそうな風呂敷を、呻きながら一段ずつ引っ張り上げては、膝に手をついて休んでいる。

 いかにも手を差しのべたくなる状況に歯噛みする。

 俺は断腸の思いで、無視することにした。おばあさんに心の中で謝る。佳菜子さんは、この世の全てに優先するのだ。

 息を切らしているおばあさんの横を通り過ぎようとした瞬間だった。チラリと横に流れた俺の視線と、顔を上げたおばあさんの視線が交錯した。

 良心の核を射抜かれた気がした。

 勢いづいていた俺の足は、歩道橋の階段を上がりきった所で止まる。

 後ろを振り返れば、おばあさんがきっと、助けて欲しそうに俺の背中を見ていることだろう。俺は唇を噛み締めて項垂れる。

 あえてもう一度記すが、俺は優等生である。

 一年間をかけ、たゆまぬ訓練のもと、爪先から頭の天辺、骨の髄に至るまで総身に優等生としての自覚と誇りを刻み付けてきた。

 その全ては佳菜子さんのためにこそあるが、今ここに困っているご老人を見つけ、俺の優等生細胞は烈火のごとく「助けろ、助けろ」と騒いでいた。

 助けるか、否か。

 俺の中で天使と悪魔がぶつかり合う。

 ここでの俺にとっての天使は「おばあさんを見捨てて佳菜子さんに会いに行け」と言っている方であり、「おばあさんを助けなさい」と必死に抗議してくる方が悪魔である。黙れ悪魔。佳菜子さんはどうするのだ。


 短くも濃密な葛藤の末、俺は決断した。

 踵を返しておばあさんに近寄り声をかける。


 「大丈夫ですか、おばあさん。荷物をお持ちしましょうか」


 「あらまあ、ごめんねぇ。ありがとねぇ」


 俺はおばあさんが抱えていた風呂敷をひょいと片手で持ち上げて、空いているもう一方の手でおばあさんの補助をした。

 風呂敷は、持った感覚から米袋一つ分くらいの重さだった。小柄で腰を折ったおばあさんが運ぶには、確かに重たすぎる。

 「そこの駅まで行きたい」と言うおばあさんの願いを、微笑んで承諾する。内心では早く歩けと毒づく。


 「それにしても、この風呂敷には何が入っているんですか」


 私が聞くと、おばあさんは「んふふ」と奇妙な笑い方をして答えた。


 「ありがたい魔除けのお守りだよ。これから友達に売りにいくところなの」


 まさかの詐欺師だった。ふざけるなババア。

しかも自分では持ちきれない程の量を売ろうとは、どれだけ貪欲なのだ。


 駅前に着いて、ここで友達と待ち合わせるというおばあさんに「じゃあ僕はこれで」と言って足早に立ち去ろうとした。


 「ああ、お兄さん。これをあげるよ。助けてくれたお礼」


 おばあさんはそう言って風呂敷をごそごそと漁り、俺に魔除けのお守りを渡してきた。古びたかまぼこ板のような木板に、何やら古風な文字が書かれている。達筆すぎて読めない。


 「今時の若者にも、こんなに親切な人がいるんだねぇ」


 親切からもっとも遠くにいる詐欺師にそう言われても困る。

 俺は一礼してお別れを告げると、脱兎のごとく改札口へ向かった。





 予定していた電車には見事に乗り遅れた。

 時刻表を確認すると、次に来るのは特急電車であり、俺の手持ちの金では空港まで行くのに僅かながら足りない。

 その次が普通電車となっているが、各駅停車など論外だ。さらにその後に急行電車が来るとあるが、正直間に合うかは分からない。

 それでも今は、望み薄な急行に賭けるしかなかった。


 幾度となく佳菜子さんの携帯に電話をかけたが、少しも繋がる気配はなかった。それがさらに腹立たしさを募らせる。

 もしや、もう飛行機に乗り込んで機内モードに設定しているから、電話に出ないのか。

 俺が焦るあまり駅構内をうろうろと早足でさ迷い歩いた。時には立ち止まって佳菜子さんを呼び出している携帯の画面を食い入るように見続ける。

 そんなことをしていると、後ろから服を引っ張られた。

 驚いて振り向くとそこには、まだ四、五歳くらいの男の子がいた。

 俺の学生服の裾をむんずと握っている。

 

 「ぐすっ」


 鼻をすすって泣いている。どう見ても迷子であるが、俺にはこの子に構えるだけの心の余裕はない。

 しかしまたも、俺の中の優等生という名の悪魔が首をもたげてきた。煩わしくて堪らないが逆らえもしない。


 「どうしたの。迷子になっちゃった?」


 そう聞くと、男の子はこくりと頷いて、泣き腫らした瞼を擦った。

 

 話を聞くに、一緒に来たお父さんとはぐれてしまったらしい。

 俺はとりあえず周りにそれらしき人がいないか確認して、この子を駅員の所まで連れていくことにした。そこからは駅員が何とかしてくれるだろう。


 駅長室へ行くと、先客である男性が駅員さんと何やら話していた。

 男性は俺と迷子の幼児を見ると、目を見開いて勢いよく立ち上がった。駅員さんも相手の狼狽ぶりに慌ててこちらを見ている。


 「どこに行っていたんだ!探したんだぞ!」


 男性はそう言って子どもを抱き締めた。どうやら無事に解決したようである。

 子どもを抱え上げた男性は俺に向き直り、頭を下げた。


 「あなたが連れて来てくれたんですよね。本当に何とお礼を言えばいいか」


 駅員が微笑ましそうに私たちを見ているが、俺の胸中はちっとも微笑ましくなんかない。佳菜子さんの名前を念じすぎてゲシュタルト崩壊を起こしかけている。

 「じゃあ僕はこれで」とその場を離れようとすると、抱っこされている男の子が俺の襟を引っ張った。


 「ぐえっ」


 「こらっ、助けてくれた人になにしてるんだ」


 お父さんに叱られた子どもは涙目になりながらも、ポケットから何かを取り出して俺に渡してきた。


 「あげる。お兄ちゃん、ありがとう」


 俺の手のひらにチャリンチャリンと硬貨が乗せられる。十円玉が三枚と、五十円玉が一枚。計八十円の報酬である。

 読者諸君は少ないと思われるだろうか。しかしこれは、男の子が頑張って貯めたであろうお小遣いに違いない。するとこの八十円の重みが、ぐんっと増すように感じる。

 さらにこの八十円があれば、ちょうど特急に乗れるのである。

 俺は感極まって男の子を見つめた。

 男の子が眩しい笑顔をくれる。


 「ありがとうっ。これからは気を付けるんだよ」


 俺は手を振り、大急ぎで電車に乗るべく走り去った。


 駅長室を出る間際、「こらお前、あのお金は猫ババしたやつだろ」という男性の声が聞こえた気がするが、きっと気のせいである。

 




 今日ほど特急電車が頼もしく感じられたことはない。

 早く着けと焦れったい気持ちはあるが、最初に逃した電車よりも、これなら幾分か早く空港に到着する。

 待っててくれ佳菜子さん。必ず君に会いに行くから。

 強い思いを胸に、流れる景色を見ていると、唐突に後方から呻き声が聞こえた。


 俺が恐る恐る後ろを向く。

 するとそこには、グッタリと座り込み、しがみつくように手摺に掴まっている女性がいた。

 女性のお腹は大きく膨れていて、どうやら妊婦のようである。朝方のラッシュも終わった平日だからか、この車両には俺と女性以外の乗客はいない。

 苦しそうに喘いでいる女性に駆けよって、俺は「大丈夫ですか」と片膝をついて声をかけた。


 「う、産まれそう……」


 俺は戦慄した。

 女性はうわ言のように呟く。


 「なんで……予定日まで、まだ、あるのに」


 痛みで立てそうにない女性に「少し待っていてください」と言い残し、最前列の車両まで全力疾走した。疎らにいる乗客が俺を見てくる。

 俺は車掌車のドアを、窓ガラスを割らんばかりに叩きまくって叫んだ。


 「赤ちゃんが!赤ちゃんが産まれそうなんです!電車を止めてください!」


 怪訝そうに俺を見た車掌さんは次第に愕然とした表情をし、俺に言った。


 「次の駅の近くに病院がある!そこで止めるぞ!救急車を呼ぶより走った方が早いからな、お前が走れよお!!」


 中年太りの車掌さんが俺に負けない音量で声を張り上げる。

 特急列車を通過駅で停めれば一体どれほどの責任になるのか。俺には想像もつかないが、それを怖れず停車を即断したおじさんに不覚にも惚れそうになる。

 俺たちは戦友のように互いに視線を交わし合い、各々の持ち場についた。

 俺の脳裏で弱々しい天使の声が響く。

 ああ佳菜子さん。貴女は今もまだ日本にいますか。


 女性を抱き上げたのは人生初であるが、それが陣痛を催している妊婦だというのだから、俺にのしかかった緊迫感は尋常ではない。

 俺は極力揺らさないようにしながら病院まで走った。駅の改札は他の乗客が開けてくれた。

 妊婦をお姫様だっこして駆け込んできた学生を見て、受付のお姉さんは度肝を抜かれた顔をしていたが、すぐに事情を察して医師に繋いでくれた。


 聡明そうな若い医師がやって来て女性を診たところ、今から産婦人科のある病院へ運ぶとのことであった。

 陣痛が治まったてきたのか、ほんの少し顔色が良くなった女性が、俺に笑顔を向けた。


 「本当にありがとうございます。あの、何かお礼を」


 「いえ、当然のことをしたまでです」


 俺はどうにか空港まで行けないものかと考えながら、取り敢えず病院から出ようとした。

 しかし女性は尚も私を引き止める。


 「あの、そんなに慌てて、どちらに行かれるんですか」


 「すぐにでも空港へ行かなければならないのです」


 「そう、ですか。私のせいで……」


 申し訳なさそうに俯く女性。

 俺はすぐにでも走り出したかったが、女性は「少し待ってください」と言い誰かに電話をかけ始めた。

 少し話し込み、やがて電話を切った女性は俺に言った。


 「私の友達に、車で貴方を送ってもらえるようお願いしました。彼女、ここの近くに住んでいるので、すぐに来ると思います」


 奇想天外な展開に呆然とする俺を見て、女性はくすりと上品に笑った。

 佳菜子さんとは比べるべくもないが、大人の女性を意識させる、素敵な笑顔だった。





 「待ったぁ~?」


 病院のロビーに入って来て、猫撫で声で俺のいる方へ手を振るおじさんは誰なのか。

 青髭が目立ち、ガッチリした骨格に日本人離れした肉体を持ったおじさんは、しかし毒々しい赤の口紅をヌラヌラ光らせていた。

 オカマという奴だろうか。

 辺りを見渡してみるが、あの変態おじさんの知り合いらしき人は見当たらない。


 「あらぁ?無視かしら。もう、恥ずかしがり屋さんなのね」


 くねくねと鰻のごとき奇怪な動きで俺へと近付いて来る。

 その様は妖怪じみていて末恐ろしく、未曾有の恐怖にさらされた俺はいつでも逃げ出せるように立ち上がった。


 「んもう、そんなに警戒しないで?あなたでしょう?私の友達を助けてくれたナイガイは」


 俺は呼吸が止まるかと思った。

 あの妊婦の女性は言っていた。「少し変な人だけど、すごく優しくて面白いんですよ」と。しかも『彼女』などと呼んでいた。

 何が少しだ。どこが彼女だ。よくも俺を騙したな。

 オカマは俺に強烈なウインクを投げて擦り寄ってきた。


 「んん~、ガイって言うよりはボーイね。まだまだ食べ頃は先って感じ」


 産毛が全て逆立つ。

 一瞬、愛しの佳菜子さんのことが完全に思考から外れ、どうしようもない生命の危機に泣きそうになってしまった。

 オカマはそんな俺の気持ちなど露とも知らず「まあ、ナイスなことに変わりはないわね」と言った。


 「じゃあ早速行きましょうか」


 「へ?」


 「なにボーッとしてんのよ。空港、行くんでしょ」


 オカマが人外の腕力で俺を引っ張って行く。

 本能では逃げ出したかったが、俺は彼の言葉に己の使命を思い出した。

 この際だ。藁やオカマにすがってでも、行き着くところまで行ってやる。


 俺はオカマのスポーツカーに乗り込んだ。

 自慢の愛車であるらしく、じーてぃーあーるがどうの、プレミアムがこうの言っていたが、俺は車にまるで詳しくないのでサッパリ分からなかった。

 ただ格好いい車だったので、オカマの心の奥底は、ちゃんと男なのかもしれないと思った。





 「空港で、誰か待ってるの?」


 車内でオカマが話しかけてきた。

 図星を突かれた俺は「オカマ恐るべし」と身震いする。


 「よく、分かりましたね」


 「女の勘よ」


 それはきっとオカマの勘だろう。


 「大切な人が、海外に行ってしまうんです。今日突然知って、会わなきゃいけないって必死になって」


 「ふうん。カッコいいじゃない、坊や」


 「そうでしょうか」


 「最近はいないわよ。そうやって熱くなれる人って」


 サングラスをかけたオカマが笑う。「つまんない奴ばっかり」

 俺たちが乗る車は高速道路に入った。

 高速で流れていく街並みを眺めていると、それにつれて不安が加速するようだった。全てのものは目まぐるしく変わって行く。俺と佳菜子さんの関係さえ例外ではない。


 「留学するだなんて、一言も、俺に話してくれなかったんです。俺はそいつに凄く憧れていて、そいつも俺と一緒にいるとき笑ってくれて。けどひょっとしたら、俺たちの関係って、俺の独り善がりだったのかなって思うと、今からそいつに会っても良いのかどうか……」


 胸の奥に、暗雲のような悲しみが漂っている。

 本音を言えば、別に彼女が海外に行くくらい、どうってことはない。一年や二年離れるくらいで俺の想いが欠片も衰える気はしないし、何よりも彼女の人生は彼女のものだ。佳菜子さんが幸せになることが、一番なんだと心から言える。

 だが一言くらい、何かあっても良かったはずだ。お別れも言えないだなんて、寂しすぎるじゃないか。

 佳菜子さんは俺のことなど、どうでも良かったのだろうか。仲良くなれたと思っていたのは、ただの虚妄に過ぎなかったのか。

 負の思いがグルグルと頭の中で渦巻いて、思考の隘路(あいろ)に陥る。


 そんな俺の背中に、痛烈な衝撃が走った。

 声にならない叫びを上げ、意識が現実に引き戻される。


 「しゃんとなさい。良い男が台無しよ」


 どうやら、オカマが俺の背中を叩いたらしかった。叩かれた所がヒリヒリと熱を持っている。

 突然のことに言葉を失っている俺に、オカマはニヤリと笑った。


 「あたしには分かるわ、その子の気持ち。きっと坊やのことが好きなのね」


 「え?それって、どういう」


 「本物の愛ってのはね。いつだって重いのよ」


 オカマは俺の質問には答えずに、よく分からないことを言う。サングラスを中指で押し上げる仕草が様になっている。


 「いい年こいた大人でも、重すぎて逃げ出したくなること、よくあるわ。けどその子は幸せよね。こうして意地でも追いかけてきてくれる人がいるんだから」


 素敵よ、あんたら。

 俺は何故だか涙腺が緩んだ。

 親指を立て、白い歯を見せて笑うオカマは、少し格好良かった。





 学生とオカマが鬼気迫る表情で突入してきたために、道行く人々が騒然となる。

 空港に着いた俺とオカマは二人で手分けして佳菜子さんを探すことにした。

 佳菜子さんは未だに電話に出てくれない。こうなっては思い当たる所をしらみ潰しに探すしかなかった。


 「その子の特徴を教えてちょうだい!」


 オカマが言った。

 高速道路をかっ飛ばしたとは言え、猶予はない。俺は走りながら自分でも意味不明な答えを返した。


 「春の野花のように可愛い子です!」


 「よっしゃ任せな!」


 今ので何が分かったというのか。

 オカマは頼もしく叫んで俺と別方向に駆けていった。


 俺はまず登場手続きのカウンターに飛び付いた。動揺する係員に、佳菜子さんが既に手続きを済ませ、ゲートに向かってはいないかと聞く。

 親切な係員のお姉さんは律儀にも端末で調べてくれて「そのような情報は見当たりません」と教えてくれた。

 つまりはまだ、佳菜子さんはロビーにいるということになる。

 風前の灯火であった希望の炎がにわかに勢いを増し、俺は笑顔で係員さんにお礼を言って走り去った。最後に「そもそも吉田佳菜子様という人は」とか何とか言っていたが、テンションも緊張も最高潮に達していた俺の耳にはちゃんと届かなかった。


 ロビーに戻り佳菜子さんを見つけようと奮戦していると、聞き覚えがある野太い声が俺を呼んだ。


 「見つけたわー!こっち、こっちよー!」


 立ち止まって一点に視線を集中させている客たちを押し退け、俺は走った。

 心臓が爆発してしまいそうだった。

 もう何百何千回と心の中で呼び続けた彼女の名前を、一際強く想った。

 佳菜子さん。吉田佳菜子さん。

 これが最後でもいいんだ。

 ただ俺に、あと一回だけでも、その顔を見せておくれよ。


 背の高いオカマはすぐに見つかった。丸太のような手をブンブン振って、喜色満面で俺に呼び掛けている。

 彼の片脇にいる人こそが、愛しの佳菜子さんであろう。

 俺の意味不明な説明でどうやって特定したのかは知れないが、オカマは確信を持って彼女を見つけたようである。

 よくやったオカマ。でかしたオカマ。

 俺は脳内で拍手喝采を叫びながら、ついに彼らの元へ辿り着いた。

 オカマは俺にサムズアップしてみせる。

 しかし俺は返事などできなかった。

 オカマが連れている『俺が探し求めていたであろう人』を見て、俺の時間は完全に停止した。


 そこには男が立っていた。





 読者諸賢に一つだけ、説明し忘れていたことがある。

 俺の幼馴染みであり、そこそこ仲の良い友達『良田』についてだ。

 念を押しておこう。

 吉田ではない。良田である。

 互いの家が近かった良田君とは、何かと遊ぶ機会が多かった。小中学校を共にし、高校も同じところに通っている。そう珍しくもない関係だろう。

 彼は気が弱く、昔からあまり友達もいないようだったが、優しい奴だったので俺は普通の友達として接していた。

 高校に入り、俺が佳菜子さんに認められようと躍起になってからは疎遠になりつつあったが、それでも交流はあった。


 問題は何故、彼が空港にいるかである。大きなスーツケースを持っている様子は、今から海外にでも行くようである。

 いやそんなことはどうでもいい。

 佳菜子さんは何処(いずこ)





 結局は俺の勘違いだったのである。

 吉田佳菜子と良田君の名前を聞き間違えた挙げ句、学校を抜け出して空港まで来たのだった。


 良田君は俺を永遠の友と思ってくれているらしく、そんな俺に別れを告げるのが辛くて、アメリカに留学すると言い出せないまま当日が来てしまったのだとのことだった。

 偉丈夫のオカマに捕まえられた彼は散々に怯えていたが、俺が学校をサボってまで来たことには感激し、涙を流していた。


 当の俺は、どっと肩の力が抜けた気がした。もう何も考えたくはなかった。


 良田君を拉致したと勘違いされたオカマが警備員と一悶着あったが、無事に誤解はとけた。

 良田君とお別れをして、オカマに自宅の最寄り駅まで送ってもらえば、すでに陽は西へ傾き始めていた。

 家に帰り、学校をサボったことについての親からの追及に生返事で答え、自室に入っておもむろに携帯を着けてみれば、佳菜子さんからの折り返しの電話や、電話に出られなかったことへの謝罪のメールがたくさん来ていた。


 単純な話である。

 留学するのは俺の友達の『良田』だ。

 そして俺の唯一無二の想い人である『吉田佳菜子』は、携帯の電源を切ったまま風邪で欠席していたという、ただそれだけの話であった。


 翌日、佳菜子さんは普通に登校してきた。マスクを着けてはいるが、元気そうに俺に相変わらず天使のように微笑んで挨拶をしてくれた。

 学校中で、俺が良田を追いかけて怒濤の追走劇を繰り広げたとの噂が跋扈(ばっこ)しているが、事実であるので何とも言えない。

 ただ噂に尾ひれは付き物であり、しまいには俺に同性愛疑惑がかけられたので、俺はこれを必死に払拭しなければならなかった。

 その際に佳菜子さんの目の前で「俺は佳菜子さんが好きなんだ!」と口を滑らせ、計画から大いに逸れて、俺は衆人環視のもと佳菜子さんに公開告白をするはめになった。

 俺の想いは遂げられた。

 佳菜子さんは涙ながらに告白を受け入れてくれて、その後は学内の誰もが知る公認の仲となった。惚気はいくらでも語りたいところではあるが、これ以降はただ単に俺の幸福な毎日が列挙されるだけとなるので、特筆すべきことは何もない。


 思えばたった半日の間に、この一年に勝るとも劣らない、濃い時間を過ごしたものである。

 重い風呂敷を抱えた詐欺師のおばあさん。

 猫ババした小銭をお礼として渡してきた幼児。

 オカマの友達を持つ妊婦。

 そしてオカマ。

 俺の行く手を阻んでいるかのように思われた彼らであったが、その実、一つの出会いでも欠けていれば、俺はあの時間に空港へ行くことは出来なかったのだ。

 そう思うと、縁というのはつくづく不思議なものだと感じる。


 ちなみにアメリカへ発った良田君には別れの品として、おばあさんから貰った木札のお守りをあげた。他にあげられる物がなかったからで、断じて気味が悪くて押し付けたわけではない。

 しかし、それの効力が本当に働いたのか、アメリカに住み着いた良田君はその後、次々と大成功を収めていった。

 今では現地人のお嫁さんを貰い、幸せな家庭を築いているという。


 俺と佳菜子はそんな旧友の年賀状を見ながら、どちらからともなく微笑んだ。

 良田君は近々、家族を連れて遊びに来ると言っている。彼らが来る頃には俺たちの間にも、新しい家族ができていることだろう。


 窓から空を見上げると、一対の鳶がゆったりと飛んでいった。片方が悠々と飛び回り、もう片方は必死に追い付こうとしているようにも見える。

 俺は晴れ渡った空を気持ち良く思い、愛しの君を追っているであろう鳶に、心からのエールを送った。

 大丈夫だ鳶よ。その愛が本物であれば、きっといつか報われることだろうよ。





おわり

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[一言] 強引さなど感じる暇もないほどの清々しい疾走感。好きです。
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