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おいで

作者: 塩生らむね

 階段を上がってくる音で目を覚ました。身体のあちこちが痛い。手を組んで大きく伸びをすると、凝り固まっていた身体の隅々にまで血が流れていくようで心地良い。左頬がひりひりする。

「わ、びっくりした」

 足音が止んで、頭の上から声が降ってきた。声の方を見上げると、見慣れた顔がある。視線は真黒なキャップに遮られており、それとは対照な真白い顔に貼りついた血色のよい薄い唇だけが覗いていた。

「おかえり」

「おう」

 空也は頬の腫れていない右側の口角を上げた。階段を上ってきた全身真っ黒の陰は、肩にかけていたエナメルバッグを前に回して中身を漁る。それを見た後、空也は右手で背後の手すりを掴んで自分の身体を持ち上げた。目の前のドアの鍵穴にささった鍵が回るのが見えた。

「どれくらい待ってた?」

「わかんね。でもすっげぇよく寝た」

 尻をはたきながら玄関のドアをくぐった。ガチャン、という音が、二人を外の世界から隔離した。

 キャップを壁にかけるユウキを見ながら、空也は靴を脱いだ。その視線を感じ、ミント色の髪の隙間から覗く一重の双眸が空也を捉えた。

「まぁた、派手にやられたな・・・とりあえずお前、それじゃ汚いからシャワー浴びてこいよ。俺が帰って来なかったらどうするつもりだったの」

「だってユウくん、大会のあとの打ち上げは参加しない主義でしょ」

「くうがいるからだろ、いいから早く風呂場行ってこい」

「いてぇ!そこ触んないで腫れてるから!」

 頭を撫でようとしたユウキの手を振り払い、空也は玄関のすぐ横の脱衣所に駆け込んだ。空也が脱衣所の引き戸を閉めたのを見てから、ユウキは二人分の靴をきれいにそろえて、居間に向かう。食卓の横にエナメルバッグを落とし、ベランダに出て洗濯物を取り込む。そして、背に大学名の入った真黒のジャージを脱ぎ、ハンガーにかけ、カーテンレールにぶら下げた。青いユニフォームを肘まで捲り、居間に背を向けてキッチンに立った。流し台で手を洗い、そこで初めて落ち着く。部屋に帰ってきてからここまでの動作が染みついてしまい、何も考えなくても身体が勝手に動いている。我ながら恐ろしいとユウキは思う。

 さて、来客がある以上ここから考えることは一つしかない。ユウキは部屋の角を眺め、冷蔵庫の中身を思い出す。中身を見に行くことはしない。極力動きたくはない。

「ユウくんタオルー」

 間延びした声が脱衣所の方から聞こえた。どうやら動かないわけにはいかなくなったようだ。さっき取り込んだ洗濯物の中からバスタオルを探し当てて、脱衣所へ向かう。

「くうー」

 引き戸が細く開いて、傷や青あざがちりばめられた腕がするりとのびてきた。

「くう何食べたい?」

 バスタオルを掴んだ腕は引き戸の向こうへ消えて行く。

「・・・オムライス」

「無理難しい」

「じゃあオムレツ」

「うーん、わかった頑張る」

 カチャリと引き戸が閉まった。キッチンに戻りながら考える。確か卵はあったはず。野菜とひき肉も昨日買った。脳内の冷蔵庫の戸を一つ一つあけながら、ユウキは米を研ぐ。炊飯器のスイッチを押すと同時に、大体のメニューが決まる。そこで初めて、本物の冷蔵庫を開いた。中身が脳内の冷蔵庫と一致したのを確認してホッとする。

 フローリングを叩くように左足を引きずった空也が、シャンプーの匂いを散らしながら居間に入ってきた。

「おかえり。くうお前、それは・・・」

「ん?」

 空也の左頬を見るなり、ユウキは絶句した。

「お前それちゃんと消毒しとけよ、跡残るぞ」

 ニキビひとつない青白い肌に、石を押し当てられたまま擦られたような傷が走っていた。傷の表面にたまった血が固まりだしている。

「わーってるよ」

「お前綺麗な顔してるんだからさぁ・・・それ以上必要ないもん顔につけるなよ」

「それユウくんめっちゃ言うけどほんとに意味わかんないから。綺麗な顔ってなんだよ」

「均整のとれた顔してるってことだよ。全体的にバランスがいいんだよくうの顔は。斜視だけど」

「うるせ」

 ピーッ。冷蔵庫の警告音が鳴った。ユウキは慌てて冷蔵庫の戸を閉める。空也はソファの前に移動し、それを背もたれにして床に座った。目の前の夜景から、心地よい風が吹いてくる。

「網戸なの?」

「だって暑くない?」

「ユウくんは試合してきたからでしょ、俺もう寒いよ」

「俺これから作るんだから、寒いなら自分で閉めてよ」

「えっ、今から作るの?」

 空也の顔がユウキのほうを向いた。ユウキも包丁を持ったまま空也を見た。

「オムレツ?オムライスでいいよ、時間かかるじゃん」

「いやだよ、俺うまく作れないもん。くう、見た目が汚いの食べないじゃん」

「食うよ」

「食べるの?」

 今度はユウキが目を丸くした。

「食うよ、ユウくんが作ったやつは、俺食うよ」

「・・・あ、そうなの?」

 スローモーションで包丁を元の場所にしまい、さっき出した野菜も冷蔵庫の一番下に戻した。

「でも、ご飯まだ炊けてないし・・・」

「あ、俺が昨日食わなかったやつ冷凍庫に入ってるよ」

「それは初耳だよ。くう、ちゃんと残したやつは書置きしてってよ」

「ごめんなさい」

「・・・怒ってないよ」

 さっき炊き始めたご飯は明日朝食べればいい。ユウキは冷凍庫から、ラップにくるまれたこぶし大の白米を出して、そのままレンジに投げ入れた。空也はずっとそれを見ていた。

「ユウくん幽霊みたい」

 卵をかき混ぜている背中に向かって空也は笑った。

「はぁ?」

「なんか、キッチン暗くてユウくんのユニフォームは溶け込んでるのに、ユウくん白いから肘からとか膝から先だけ浮いてるように見えるのおもしろい」

「よくわかんねぇな」

「わかれよ。頭いいでしょユウくん」

「勉強ができるのと理解力があるのとは別」

 小学生に向かって何を話しているんだと思いながら、ユウキはフライパンへ卵を流し込んだ。


    ☆


「うっま」

 見栄えが良いとはいえないオムライスを一口食べて、空也は声を上げる。ユウキはしばらく自分の料理には手を付けず、ひたすらスプーンを動かす空也を見ていた。絆創膏が邪魔をして、左頬が動かしにくそうだった。

「くうさぁ」

 食べるスピードが落ち着いてきた頃、ユウキは空也に問うた。

「来年からどうすんの」

「・・・」

 空也は、まだ半分ほど残っているオムライスに視点を置いた。だがその眼は、ずっと遠くの何かを見ていた。

「俺、来年から社会人になるって言ったの、覚えてる?」

「うん」

「そしたら俺ね、今みたいに絶対毎日決まった時間には帰って来れないの。だから今日みたいに、くうのことを暗くなるまで待たせるのが、むしろ普通になると思う」

 ユウキは一呼吸置いた。

「どうしたい?くうは。それでもウチに来たい?」

 空也はいよいよ目を伏せた。ユウキは空也の言葉を待つ。

「俺は・・・」

 そこまで言って、空也は言葉を見失った。言いたいことはあった。それに合う言葉も用意した。いつかは聞かれるだろうと思って、ずっと考えていた。なのに、それなのに。鼻の奥が痛くなり、顔全体が熱を帯びていく。

「・・・ごめんなさい」

「くう?」

 あざだらけの右腕で、空也は口元を隠した。嗚咽がのどを塞ぎ、用意していた言葉は目から流れ出ていった。

「ユウくんに迷惑かけてばっかで、・・・僕がいるからユウくん、自分のことたくさん我慢して、他の人みたいに自由に何でもできなくて、・・・」

 ついに何も言葉にならなくなった。体の内側からこみあげる申し訳なさが、溢れて止まらなくなってしまった。

「・・・くう」

 ユウキは空也を抱き寄せた。この子に決めさせてはいけない。この子は、わがままを言うことを知らないから。自分を追い出すことしか、できないから。

「いいんだよ。お前は、ここにいて」

 ユウキは、自分の腕の中で震える空也に向かってつぶやいた。

「お前の面倒を見てるのは、俺がやりたいことだからいいんだよ、くう。お前のことを粗雑に扱う家になんか、帰る必要はないんだよ」

「・・・何?」

 空也は、涙でぐしゃぐしゃになった顔をユウキに向けた。

「そざつって、何?」

「あぁ」

 ユウキは、空也の頭を自分の胸にそっと押し当てた。

「お前の親みたいな、ってことだよ。ちょっとニュアンスはずれてるけど」

 腕に込める力を、少しだけ強めた。


    ☆ ☆


「ユウくんおかえり」

「今来たところか?」

「うん」

 空也はユウキの部屋の前で立っていた。

「今日早いね」

「部活オフだったから」

 ユウキはなめまわすようにして空也を見た。

「今日は傷増えてねぇな」

「今日学校行ってねぇもん。親帰ってきたのさっきだし」

「そうか。なんか食べた?」

「コンビニでおにぎり食った」

「・・・そっか」

 ユウキは部屋の鍵を開ける。

「くう、バスケしにいかね?」

「行く!」

「じゃあちょっとそこで待ってて」

 玄関のドアを開けたまま、ユウキは居間のほうに入って行き、エナメルバッグを床に下ろした。中からバスケットボールと小さな袋を取り出す。そして、財布を尻のポケットに突っ込んだ。

「お待たせ」

「どこ?」

「いつもの公園。・・・あ、ちょっと待って空也」

 駆け出そうとする空也を、ユウキは呼び止める。

「これ」

 そういって、さっきエナメルバッグから取り出した袋を空也に渡した。

「何?これ」

「見りゃわかる」

 空也は袋の口を留めてあったテープをはがす。

「・・・鍵?」

「俺の部屋の鍵。それ持ってれば、俺がいなくても部屋入れるだろ」

「・・・まじ?」

 その大きな目を見開いて、空也はまじまじとユウキを見た。

「・・・ふふっ」

 どんな顔をすればいいのかわからないでいる空也が可愛くなって、ユウキは思わず笑ってしまった。

「ほら、行くぞ」

 動こうとしない空也の手を引いて、ユウキは夕焼けに向かって足を踏み出した。


 弟のようにかわいがってきたこの家無し子から、まだ手を離すわけにはいかないみたいだった。

閲覧ありがとうございました。

よろしければ感想お願いします。

誤字・脱字などの指摘もお願いします。


作者は、空也が可愛くてかわいくて仕方ありません。アジア人顔の美男子を想像して書いています。

ユウキには毎晩夕飯を作りに来てほしいと思っています。あと、自分を強く持ってほしいと思っています。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 抽象的に書かれた容姿が、2人の関係性をより不思議なものに感じさせている気がしました。 唯一懐いているからこそ、一番伝えるべきワガママは言い出せない空也の心情が、鍵を渡された時の反応で現れた…
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