第3話:初夜(?)
朝起きると、自然とくしゃみが出た。
いつのまにか掛け布団が剥がれて傍に放ってあり、俺の服も下半身の方だけ乱れている。
起きようとすると、腰が重く、腰と背中が筋肉痛になっていた。当然、俺は健康体で、昨日何か激しい運動をしたわけでもない。
痛みを和らげようと再び横になったら、体の右側に消えかけの温もりがあった。多分この感じだと、朝が来る前に温もりの主は消えたことになる。寝返りを打ったにしては近い距離だし、だれかが入って来たというわけでもあるまいし。
まさか山神が、と頭が回って来たところで思考を止めた。馬鹿馬鹿しい、あの年寄り連中だけが本気にしているだけだ。
「ミツキ、起きていたか」
ふと障子が開き、祖父が顔を出す。もう昨日のような羽織袴姿じゃなくて、普通の爺さん然としたヨレヨレのTシャツにちゃんちゃんこという出で立ちだった。
「いやあ、めでたいな。これでお前は神様の婿さんだ」
母屋へ向かう廊下で、祖父は嬉しそうに言う。
「ところで、こんな物が障子の前に落ちとったぞ」
そう言って、祖父は枝の付いた一輪の花を俺に手渡す。
「なにこれ……?」
「椿だな。裏山でよく咲いているだろ」
「…………。」
なんでこんなものが。それを見た瞬間、そんな疑問しか湧いてこなかった。
「きっと山神様がお前のために置いていったんだろうな。お前の婿入りをお祝いしてくれているんだ」
俺は、廊下で立ち止まってその椿をしげしげとながめまわす。不思議だ、こんなことがあるだろうか。
× × ×
昨日の広間では既に朝食の準備が整っており、昨日より少し数を減らした親戚達がにこやかな顔で談笑している。
「おお、来たかミツキ。ここに座れや」
親戚の一人がぽっかりと空いた真ん中の座布団を指す。そこに座った瞬間、宴が始まり、そこから1時間、親戚連中の祝いの波状攻撃に晒された。
ようやくひと段落ついた時、祖母の背中に見慣れない男を見つけた。昭和初期の2枚目俳優のような細い顔立ちの男。
「ばあちゃん、後ろの人、誰?」
そう言った瞬間、場が凍りつき、祖母が目を見開いて驚く。
「後ろの、若い頃の石原裕次郎に似た人だよ」
「ああ……その人なら、良嗣さんだねぇ」
そう言って、祖母はほんのりと頰を赤らめる。
「え、誰々その人?」
芹那が食いつき、祖母を質問攻めにする。すると祖母はぽつりぽつりと過去の恋愛話を始めた。
「おばあちゃんモテモテだったんじゃん。やるぅ!」
芹那を始め、年寄り連中が過去の祖母の話に花を咲かせ始めた。
「おい、お前には何が見えているんだ?」
いきなり始まった祖母の昔話に呆然としていると、傍から亮が小声で問いかけて来た。
「ほら、あの2枚目っぽい男の人」
「いや、何もいないぞ」
亮にはあの男が見えない?じゃあなんだ。俺は幽霊でも見ているのか。
「でも、あの人も若い時に事故で逝っちゃってねぇ……」
祖母がしみじみと言い、俺は凍りつく。じゃあ、祖母が良嗣だと言った男は誰なんだ?亮にも見えないなんて、そんなことがあるのか。
なんなんだ。なんなんだよ、アレ。お前ら、よく普通にしていられるな。笑う前にアレを説明してくれよ。なんなんだよ、アレ!
それに答える声はなかったが、それに対する唯一の答えは持ち合わせていた。
だけど、認めたくない。その唯一説明が付く事象について。
「おばあちゃんにもそんな時があったんだぁ……」
芹那がうっとりとした目で呟く。その背後で、ソイツはゆっくりと顔をこちらに向ける。その動きはひどく緩慢で、何か意思があるよう。顔の全貌が見えて来るうちに、その顔の右半分が見えて来た。
肌がごっそり剥がれて赤い筋肉が剥き出しになった頰。頭は眼孔まで砕け散っていて、脳漿がぐっちゃぐちゃになっている。その砕けた眼孔の奥に潰れかけた眼球があって、それが周りの筋肉を蠢かしながら、ぐるりとこちらを向く。
「ごめん……ちょっとトイレ」
そう言って、広間から、祖母から逃げ出した。洗面所の鏡で見た自分の顔は、ひどく惨めだった。額から汗が玉のように噴き出し、目を見開いて肩で呼吸している。心臓があり得ない速さで打ち、体の芯から冷たい何かが襲って来て汗として出て来る。
あり得ない。あり得ない、あり得ない、あり得ない、アリエナイ、アリエナイアリエナイアリエナイ……。
「あり得ない……」
そう呟くのがやっとだった。
コン、コン──。
その時、玄関から聞こえる控えめなノックに気づいた。
「はい……」
古い扉を開けると、そこには椿の柄の黒い着物を着た、長い黒髪の少女が立っていた。
「ごめんくださいませ」
そう優雅に言って、礼をする彼女の所作には、芹那にはない気品さと両家の生まれのお嬢様のような上品さがある。
白い肌に長く、陽光で煌めく黒髪。整った顔立ちの彼女は、和装日本人美少女然としていて、纏ったその優雅な雰囲気が、俺の心を落ち着かせる。
「神咲ミツキ様。私はオオヤマツミと申します。この身の名は、神咲美弥妃と申します」
そう言うと、彼女はスッと着物の生地越しに綺麗な足を撫でるようにして、腰の前で巾着を両手で持ちながら両手を重ねる。
「あなた様の妻であります。どうぞ良しなに」
そう言って、ゆっくりと上品に腰を折って深々と頭を下げた。
「あ、ああ。よろしく……」
この時はまだ、なにも分かっていなかった。
彼女が何者で、俺がどんな存在になったのか。そして、俺がすべきこと、背負わされたもの、今この瞬間に生まれてしまったもの。
俺は、分かっていなかった。
だからだろうか、こんな時に俺は、こんな情けない返事しかできなかったのだ。
俺はこんな時に、もっと気の利いたことを言うべきだったのだ。