False.【後編】
「僕が僕で在り続ける限り、僕は僕の信じた道を征く」――False.の後編。
気が付けば、一面真っ白なタイルに囲まれた場所に僕は立っていた。その先には一人の青年が僕と向き合っている。青年の背後には、あの絵画――虚構を映し出した絵が飾られていた。他には何も無い。僕と青年と絵画だけの世界。
「こんにちは」
青年は僕にそう挨拶した。優しい笑顔だ。月のように妖しさと美しさを兼ね備え、どことなく慈愛に満ちている。僕はそれに寒気を感じるも、同時に見覚えのあるこの笑顔に違和感を覚えた。そしてすぐに、この青年がトビーであることに気付いた。
「記憶から君と意識を共有していたとはいえ、こうして面と向かって話すのは初めてだね」
「そうですね。こっちの方がよっぽど、現実味があります」
僕の返しに彼は軽快に笑った。
「それもそうだね。では改めて。ギアンツさんを止めてくれてありがとう。僕じゃもう手に負えなかった」
笑顔が消え、申し訳なさそうに僕から視線を逸らして俯く彼。僕は返答に困る。
「僕は何もしてません。貴方の記憶が教祖を止めただけです」
「いいや、違うよ」
彼は首を振った。
「君がこのテロ事件の真相を暴こうとしなければ、ギアンツさんは間違いなく軍や政府に殺されていた」
「ですが、どの道処刑されてしまいます。死罪の可能性だって十分あるんですから」
「命の心配をしているんじゃない。彼の存在証明が成されないまま、抹消されていたんだよ」
僕は彼の言葉に何故か悪寒を覚えた。彼の顔に薄ら笑いが浮かび始める。
「彼は復讐を果たそうとした。僕のためにね。だけど、ただそれだけじゃ報道の一部として取り上げられておしまい。歴史的に何も残らず刻まれない。だから彼は、麻薬と魔術を使ったテロを実行した。魔術とテロを絡ませれば、今の社会にとっては脅威だからね。効果は抜群さ。でも所詮は事件の一つ、いずれ時の流れによって忘れられる。だけど、君は違う」
彼は一旦言葉を区切り、視線を絵画の方に向けた。
「君は最後までそれに関わり、そして見届けた。脳の奥深くに刻まれただろうね、彼の起こした事件を暴こうとした時間は。きっと将来、それが消えることはない。君の中で生き続け、君自身に影響を与えるだろうさ」
そうして彼は「知ってるかい?」と問い掛けてきた。
「この女の子は以前、例の麻薬の摂取によって聖職者から性的暴行を受けていたんだよ」
僕は息を呑む。衝撃のあまり首を振ることすらできなかった。
「この絵はその子をモデルに描かれていてね、瞳が赤いのもそのせいなんだ。少女特有の儚さと冒涜的な雰囲気がよく滲み出ている。皮肉なことに、僕はこの絵が好きだ。共感を覚えたんだよ」
彼は細い指ですうっと絵画に触れた。
「この子と僕は似ているんだ。この子はキャンパスに、僕は記憶に囚われている」
その目はどこか嬉々に満ちていた。悲しいことのはずなのにどうしてなのだろう――僕には分からない。
「君も見たんだろ、この絵を。そして君の心を震わせた。まさに〈虚構〉を打ち付ける、衝撃的かつ芸術的な絵だ」
彼は再び絵画に背を向けて僕と対峙する。
「君の眼は素晴らしいよ。真実を見抜く静かな闘志が瞳の奥で燃え盛っている。その眼は大切にした方がいい。それは間違いなく、どんな所に隠された真実さえも容易く暴くから」
白い歯を見せて彼は笑い、僕の方に近寄って手を差し伸べた。握手をしたいらしい。僕はその手と彼の顔を見比べ、最後に彼の顔を見て言った。
「僕は確かにこの絵に魅入られました。同情や恐怖を覚えたんです。そして、作品のテーマである〈虚構〉についても考えました。本当の〈虚構〉とは何か、何故この絵にそのようなタイトルが付けられたのか――今になってようやく分かったような気がします」
僕よりも頭一つ分も大きい彼を見上げ、続ける。
「結局は何も無かったことになるんです。あの絵の将来性と貴方の記憶そのものが。この世にはもう形すら残っていないであろう少女に、絵画という媒体で真実を語らせたんでしょう。無い物をまるで在るかのように形にしたのが、この絵に付けられた名前。そして皮肉にも、ここで話したことは全て、僕の頭の中に封印されます。ここは夢の世界ですから。例え現実に戻って真実を暴き語ったところで、何一つ信憑性は無いんです。あの絵は所詮、僕達をここへ誘うための道具にしか過ぎないんですよ」
全てを語り終えた僕は、彼から一歩後ろに離れた。決別の証明。僕と彼は分かり合えず、決して歩み寄ることのない関係性。似た者同士のように見えて、肝心の根本的な部分に大きな相違が生じている。
僕は彼のように、誰かに手を差し伸べることや笑顔を向けることなどしない――いや、できもしない。
「……そうか、君はやっぱり飲み込まれないんだね」
彼は心底残念そうに、差し伸べていた手を下ろした。
「はい。僕は僕ですから」
他者に飲み込まれない強固な自我を僕は改めて認識する。集団の中に埋もれた個ではなく、個として独立した個を確かに実感していた。
「でも、君が初めてだったよ。僕の記憶をここまで覗いてくれたのは。他の人は皆、自我を保てずに暴走していた。一度は受け入れられても、自分を失うことを恐れて拒絶反応が起こっていたよ。君は違う。ただ単に拒絶し、恐れを抱くのではなく、自分を立証してノーと言った。この違いは非常に大きい」
確か新種の麻薬の副作用にも、自我の喪失を思わせる反応が見受けられたのを僕はこの場で思い出す。もしかすると、ギアンツもそれを目的として薬を作ったのではないだろうか。自我を失うことで、異なる自我を受け入れやすくするために。そして、社会に飲み込まれた自我を取り戻すために。結局はそれが、麻薬の流通を手助けすることになったわけだが。
「だけど残念だ、もう君と会うことはないのだから」
「はい」
夢は覚めると忘れてしまう。それも印象深いものであればあるほど、記憶の片隅から抜け落ちていく。それが夢の現象。つまり、僕はトビーの顔や声などすぐに忘れてしまうのだ。
「さようならだ」
「ええ」
彼の別れの言葉と共に、視界が白く霞んでいく。その最中、彼の口角が緩やかに上がり、何かを呟いているように見えた。声は聞こえない。感覚が遠ざかる。僕は瞼を閉じ、現実への生還を待ち望んだ。
――感覚が蘇る。どうやら生きていたらしい。意識が覚醒したことを感じつつ、僕はぼやけた視界で周囲を見渡す。辺りの無機質さからして、ここは病室であるようだ。病室の開いた窓から吹き抜ける穏やかな風に、真っ白なカーテンが静かに靡いている。陽も射し、僕が倒れてから随分と時間が経ったように思えた。
夢を視た後に生じる、特有の浮遊感にどうも体が落ち着かない。仕方ないので点々と空いた夢の記憶を補完していると、突然病室の扉が開かれた。
「おや、意識が戻ったんですね」
中に入ってきたのは、白衣に身を包んだ中年の男性だった。ここの医師だろう。彼の手にはカルテらしきものがあった。僕は彼に頷いて応じる。
「脳に異常は無かったから安心して下さい。一時的に強力な脳波を受けたようですが、後遺症も残りません。安静も兼ねて今日はここで過ごして頂きますが、明日の朝には退院できます。手続きも終えていますので、今日はゆっくりしていて下さいね」
そう言って病室を後にしようとする医師に、僕は「あ、あの」と声を掛けた。
「何でしょう?」
「僕の傍に居た女性の方がどこに行ったか知りませんか?」
「ああ……」
彼は苦笑しながら頬を人差し指で掻いた。
「本人から聞かれるまで言うなと口止めされていたんですが、まぁ聞かれたしいいでしょう」
渋々といった様子で、彼は頬を掻いていた人差し指を上に向けた。
「屋上で待っているそうですよ。詳しいお話は本人から聞くといいでしょう。それでは」
今度こそ彼は病室を出て行った。僕と無駄話をしている暇もないほどに忙しいのだろう。病室に再び静寂が訪れる。僕はのそりのそりと上体を起こし、体に掛けられていたシーツを剥がす。私服は脱がされており、代わりに目に優しい黄緑色の手術着が着せられていた。検査に必要だったのだろう。
僕は体の節々に異常が無いのを確かめつつ、足を床に付けた。硬く冷たい感触に心地良さを覚える。僕は近くに置かれていたスリッパを見つけて履き、病室を出た。廊下の人通りはそれほど多くない。僕はその流れに乗り、屋上へ繋がるエレベータを探す。その道中で時計を見つけ、現在の時刻が丁度九時であることを知る。壁に貼られていたエレベータへの案内に従い、廊下を突き進む。看護師や患者の話し声が遠くに聞こえる。
曲がり角を曲がった先に目的のエレベータを発見し、開かれた状態の箱の中に急いで入り込む。中には子供の患者と一人の看護婦が居た。僕と同じように検査を受けていたのだろうか、そんな考えが過ぎる。運の良いことに、この箱は上の階を目指していた。僕は屋上へのボタンを押し、箱が引き上げられる引力を感じつつ、到着を静かに待つ。
ベルが鳴り、扉が勝手に開かれる。外の陽射しがここまで射し込んでいた。僕は前へ踏み出して屋上へと出る。背後に居た子供と看護婦もついて来たが、すぐに違う方へ向かって行った。
僕は急いであの人を探す。屋上に人影は殆どない。僕と先程の二人しか見当たらず、庭園のように整備された屋上はまるで、小さな楽園のようにも見えた。明るい緑の芝生が敷かれ、木のベンチや噴水も設置されている。植木の枝は短く、床のタイルも真新しさを感じさせ、手入れの行き届いた庭だと感じた。
屋上の淵、街の景色が一望できる場所にあの人は居た。ベンチに座り、景色を眺めている。相変わらず、姿は透明のままだ。僕は駆け足で近寄っていく。
「透明さん」
「ああ、少年か」
透明さんは振り返り、「まぁ座れ」と促してきた。僕は素直に応じ、透明さんの隣に腰掛ける。
「ご迷惑をお掛けしました」
「何を言う、構わんさ。無事で何よりだ」
「……あの後、事態はどうなったのでしょう?」
「ああ……」
透明さんは話し始めた。僕が意識を失った後、程なくして警察や透明さんの部下が訪れ、ギアンツを署まで連行したらしい。明け方まで事情聴取が続き、今しがた終わったところだという。彼は概ね事件の関与を認めているそうだ。恐らく今回のテロ事件は終息に向かうが、まだ新種の麻薬が僅かに出回っているため、後処理は暫く続くとされている。
僕は大まかに説明を受け、ある疑問が浮かび上がった。
「ギアンツさんはどうなるのでしょうか?」
「さぁな。だが、あれだけ大きな騒動を起こしたんだ。死刑は免れないだろう」
「そう、ですか」
言葉が詰まる。ある程度の予想をしていたとはいえ、やはりその通りになってしまうことを考えると胸が痛い。例え僕に危害を加えたテロの首謀者だとしても、死に関与することになればあまり気分の良いものではない。
「君が抱え込むことじゃない。相手は犯罪者であり、何より君を殺そうとした人間だ」
「分かっていますよ。でも、トビーの記憶を共有して思ったんです。あの人は、トビーの記憶を誰かに知って欲しかったんだと。それが、今回のテロの本当の目的ではないかと」
トビーの人格や知識は、綻びや違和感も無く形成されていた。つまり、記憶自体は完成されていたのだ。本当に妄想から作られた記憶とは考えにくい。まるでトビーの脳内にあった記憶をそのまま引き抜いたかのよう。完成度の高い記憶――そんなものが他者の頭の中で形を成すのだろうか。まさに芸術そのもの、誰にも真似はできない。できるとすれば、欲望を形にすると言われる魔術のみだろう。
ギアンツはその作った記憶を誰かに見て貰い、そして承認して貰いたかったのだろうと推測する。作ったものを誰かに見て貰わなければ、その作ったものの想いが報われないと知っていたから。記憶は美術館のように展示はできない。誰かの脳に直接送り込まなければ知られることは決して無いのだ。
「しかし、真実は分かりません。僕が勝手に考えた虚構の一つに過ぎないのですから」
そう、こんな憶測はあくまで妄想の一種でしかない。本当のことを知っているのはギアンツしか居ないのだ。
「奴の記憶が未だに残留しているのか?」
「いいえ、違いますよ。これは僕の考えです」
また検査をさせられては困るので僕はそうはっきりと断言した。続けて僕は質問をする。
「一つお聞きしてもよろしいですか?」
「何だ?」
「どうしてここで待っていてくれたんですか? 僕は民間人です。貴方とは棲む世界が違います。事件が終わり、離れ離れにならなければいけません。特に貴方は、僕と関わることを望んでいなかった。なのに、どうしてですか? それに、僕のわがままにも付き合って下さいました。ただの子供でしかない僕に、最後まで捜査に参加させて下さったのはなぜですか?」
畳みかけるような僕の問い掛けに、透明さんは返答に困っている様子だった。小さく溜め息を吐いて透明さんは答える。
「君のことだ。何も教えずに帰ればきっと、真実を知ろうと再び危ない橋を渡ろうとするだろう。私を探すために動き回ろうとするに違いない。それをさせないためだ。そして、私が君の言うわがままを聞いていたのは、実は私自身がそういった押しに弱いからだよ。幼い君の意志に心を打たれたんだ」
彼女の語ったそれは全て真実だと思ってもいいのだろうか。全てが作られているように感じる。信じたいのに信じられない――あまりにも綺麗な言葉だったから。
「だからと言うべきなのか。正式に別れの挨拶を言いに来た」
僕の心臓は大きく跳ねた。ついに訪れてしまった。透明さんとの別れが。
「捜査に協力してくれてありがとう。後日、上司が礼を述べに君の自宅へ赴くそうだ。あまり公にはできない話だがね」
透明さんはそう言ってベンチから腰を上げた。別れを惜しむ時間も与えてはくれないらしい。僕はその前に一つだけ、どうしてもお願いしたいことがあった。
「あ、あの」
「何だ? 私は次の捜査が待っているんだが?」
少し機嫌を悪くした透明さんが振り返る。僕はそれに臆さず言葉を返す。
「透明さんの、本当の姿を見てみたいんです」
「駄目だ。言っただろう。民間人である君に見せることはできないと」
「分かっています。ですがどうしても、知りたいんです。一度だけ、ほんの一瞬だけでもいいんです。貴方の姿を、この眼に焼き付けておきたいんです」
もはや懇願だった。子供じみたわがままとも言える。本当に最後のわがままだ。
「……少年、歳はいくつだ?」
唐突な質問に面を食らいながらも僕は答える。
「十四、ですが?」
「そうか。なら後二年だな」
「二年?」
訳が分からず、僕は首を傾げながら言葉を反芻した。
「ああ、君が士官学校へ入学ができる年齢だよ」
僕はここでようやく初めて、透明さんの質問の意図を理解した。二年後に、透明さんと同じ世界へ踏み込める。そして、踏み込んでもいいのだと気付く。そのことを徐々に実感し、言葉を口にする。
「……士官学校を卒業すれば、貴方の所属する隊へ入ることはできますか?」
「ああ。しかし、入隊条件は厳しいぞ?」
透明さんの声はどこか嬉しげだった。胸が熱くなる。
「任せて下さい。必ず入ってみせますから」
僕は胸を張る。ここまで自信に満ちたことなど無かったというのに。何故かやる気と喜びで胸がいっぱいだった。
「じゃあ、それまでの暫しの別れだな」
透明さんが手を差し伸べる。不意に既視感を覚えるも、それは気のせいだと思い込む。
「はい、また会いましょう」
離別と再会の思いを胸に、僕は力込めて透明さんの手を握り返した。僕よりも大きな手だ、少し骨ばっているように感じる。手の感触を確かめるよりも前に、透明さんは滑らかにするりと手を放した。名残惜しいが仕方ない。僕は握った手を胸に押し当てた。透明さんは鉄柵の上に乗り、立った状態で下界を眺めていた。僕はその背中を見つめる。
別れの時がやって来る。透明さんはそのまま軽く跳躍をし、屋上から飛び降りた。僕は鉄柵から身を乗り出し、全ての景色に同化した透明さんの姿を探す。しかし、もうそこには居ない。どこかへ去った後だった。僕は妙な虚しさを覚えつつ、再びベンチへ座り込む。空を仰ぎ、別れの悲しみを独りで味わう。吹き抜ける風が僕の気持ちを攫ってくれたらと、らしくもなく感傷に浸る。
そうして僕は、透明さんとの思い出を呼び起こすために瞼を閉じた。ああ――〈彼女〉は虚構とは両極に存在する人なのだと、今になって気付いたのだった。
-END-




