False.【前編】
「僕が僕で在り続ける限り、僕は僕の信じた道を征く」――False.の前編。
――【あらゆる自然現象が科学を以て証明される時代】
他者との干渉を執拗に求めない時代。個を個として認めず、集団の一部として個を立証する。すなわち、独立した個が社会の渦によって飲み込まれ、圧殺されるのである。そんな現象が当たり前の世の中、疑問や不満を表へ吐き出す者はそう多くない。結果的にそんな主張は、社会や集団の風潮によって塵すら残さず掻き消されるのだから。
誰も余計な反論はしない、自分が自分で居続けられる間は――。
□■□
虚構の上に立つものは、偽りの真実だと思う。実際に存在しないものがあたかもそこに在るかのように事実が作られる――それが虚構という言葉自体の意味。だが、それとは別に何か深い――それも核心に触れられないような奥底まで意味を持っていそうである。虚ろにしては奥深い言葉、僕はそう考える。
その言葉を知ったのは、美術館で見た一枚の絵画から。今時珍しい、データではなく形としての現物を取り扱った展覧会で、僕はつい先程そこへ赴いていた。有名な画家の作品が展示されるということから、美術館へ足を運んだお客は皆そればかりを眺めていたのがどうも信じ難い。
僕はそんな陳腐なものに目もくれず、その陰に隠れた本当の芸術を探していた。カツンカツンと硬い足音を響かせ、一枚の絵画が飾られた壁の前で不意に止まる。そこで見たのが、僕の心に衝撃を与え、一つの世界に引き摺り込んだ、美と虚を兼ね備えた素晴らしい絵である。
作品のタイトルはその名の通り「虚構」。真っ白なキャンパスに裸の少女が膝を抱えて座り、赤黒い瓦礫を背後にこちらを見つめているのだ。色の基調としては赤と黒と、白。あれを見た瞬間の感想は、「ああ、この子は哀れなんだろうな」という同情的なもの。そして次に「なんて禍々しく、狂気に満ちているのだろう」という少しばかりの恐怖が湧き上がった。足元に血を滲ませ、その指先で血溜まりを踏んでいる様が何とも恐ろしい。
白いキャンパスに閉じ籠もり、新世界への恐れや自己犠牲を彷彿とさせるような儚い世界と、深紅の瞳に射抜かれた僕の心。暫しの間、その少女と無言で見つめ合っていた。何故この絵は、〈虚構〉と名付けられたのだろうと考えながら。
そして今、電車に揺られている状態に至る。しかし、我ながら酷く陳腐な哲学的考えだと思う。その答えに辿り着いた経緯は恐らく、直感という名の閃きと思い付きによるものだ。根拠や信憑性など一切無い、まさしく偽りそのもの。普段からそういう本を読んでいるわけでもなく、ただ吊革を持って真っ暗な車窓の景色を眺めていた時に、ふと脳裏を過ぎっただけある。謂わば空想内で生まれた思考。
だが、「虚構」という文字の形や雰囲気自体は気に入っている。無機質な格子状の線に惹かれたのだろう。それがあの絵画と重なって見えて仕方ない。僕の心はまんまと「虚構」に掴まされた。
そういう心を打たれるような作品を見たことを考えると、今僕の目の前に広がる景色はなんてつまらないものなのか。車窓の外は暗闇そのもので、時折トンネル内のライトが通り過ぎる程度である。何も変化がない。飽き飽きするような世界。僕は後これを数分と見続けなければならない。そう考えると苦痛を覚えた。
電車内のドアの上に備え付けられた画面には、同じニュースばかりが繰り返されている。最近起きた、一斉捜査による麻薬の取り締まりで大量の麻薬を押収し、売人や顧客を検挙した事件だ。それだけならどこにでもあるような話。だが、事件に関わった売人と顧客の関係性に問題があったのだ。神へ生涯を捧げる聖職者が、十にも満たぬ子供に麻薬を摂取させ、性的暴行を加えていたというのである。これには世間も震えた。
独自でこの事件について調べたところ、どうやら押収された麻薬は未確認の新種であるらしく、それによる副作用も大きいという。気分が心地良く高揚する反面、攻撃的になりやすいと聞いているが、実際に摂取していない身としては正確に判断しかねない。どちらにしろ、僕にはあまり興味のない分野だ。あくまで知識の一つとして情報を得たに過ぎない。
車内は静かだ。皆揃って一人の世界にのめり込んでいる。この街の住人は、他人との干渉や関わりを嫌う傾向にあるらしい。携帯端末で情報を集めたり拡散したり、ゲームで遊んだり文字を読んだり――誰一人として僕のように景色を見ている者は居ない。僕も僕で、一人車窓の景色を眺めているわけだが――目を向ける世界が違う。テンプレ化された人間と関わっても何の面白みもないのは確かだ。それを僕は知っている。だから今日も、美術館へ行く時は一人を選んだ。例え家族だろうとそこまで介入はされたくない。最も、その家族さえ僕にあまり関わろうとはしないが。
色みの無い世界を見飽き、自然的な景色の喪失を沸々と味わっていると、車内にいつもの放送が流れ始めた。
『次は終点、レグッチ、レグッチ駅でございます。お忘れ物のないよう、お気を付け下さい――』
機械的な女性の落ち着いた声が嫌でも耳に入ってくる。決して人の声ではない作られた声に嫌気が差す。只々不気味だ。僕の心中で呟いた感想など他所に、その放送を聞いた乗客はそれぞれ緩慢に動き始める――そんな矢先だった。
一人の若い青年が突然、座席から直立した。ジーンズにティーシャツというラフな格好をした長身の青年だ。しかし、どう見ても様子がおかしい。まるで金縛りに遭ったかのようにガクガクと震えている。皆の視線が一斉にそちらへ注がれた。
「お前はトビーか?」
だが声ははっきりと言葉を発した。人に名を尋ねるかのような口調。誰に向けてかは分からない。恐らく目の前に立つ女性に向けてだろう。静かに狂気が横たわっているような、そんな緊迫した空気が流れ始める。
忽ち、女性は「はい」と答えた。遠くから見ているので詳しい状況は分からない。その青年に対して俯いているせいか、表情も確認できなかった。そうして変化はすぐに訪れる。青年は急に立ち上がり、手にずっと持っていたのであろう折り畳み式のナイフを広げ、その先を女性の喉元に向けて伸ばした。無論、ナイフの刃先は喉元の中央を貫き、派手に血飛沫を飛ばす。ほんの一瞬、花が咲いたかのような美しさを目に捉えた。
車内が悲鳴と狂気に飲み込まれる。丁度終点であるレグッチ駅に到着したのか、車内の扉が一斉に開かれ、その出口にわらわらと飛び出す乗客達。僕もそれに乗じて逃げ出す。思考は働いていない。体が勝手に動いているような感覚。本能らしきものが、生きることへの執着心にしがみ付いている。僕はホームを駆け抜け、地上へ脱出しようとしたが、向こうからやって来た褐色肌の青年に声を掛けられた。
「お前はトビーか?」
あの長身の青年と同じ台詞を口にした。至近距離なこともある。僕は足を止め、距離を保って褐色肌の青年と向き合う。その青年もまたどこか様子がおかしかった。瞳の縁に赤い輪を光らせているのだ。こんな瞳、見たこともない。何かの病気だろうか。ずっと見続けていると気が狂ってしまいそうだった。
早まる鼓動を抑え付けながら、僕は「いいえ」ときっぱり答える。するとどうだろう。その青年は「そうか」と返事をしただけで、僕の横を通り抜けたのだ。手に持っていたナイフで僕を攻撃することなく、僕の遠い背後にいる人達に向かって駆け出していた。心臓がバクバクと音を立てている。後ろを振り返ると、ホーム全体は血と喧騒に満ちていた。救われたのかという妙な実感を得て、僕はエスカレーターを駆け上って行く。
構内もまたホームと似たような状況で、騒然としていた。逃げ惑う人々、問い掛けと殺戮を繰り返す青年達、床にひれ伏す血塗れの骸――どこか遠い異国の話だと思い込んでいた、テロそのものが僕の視界全体に広がっている。置き換えるのなら戦場、生き抜くために人々は必死に逃げ回っている。まだ爆発や銃火器が登場していないのは幸いか。
しかし、なんて原始的な無差別殺人なのだろう。刃物だけでここまで大量に人を殺せているのは恐らく、実行犯の人数も含め、相手が無闇な抵抗をせず素直に刺されているところにあるのだろうと推測する。組み合うことも殴り合うこともない。逃げる人々の背中に追い付いてナイフをプスっと刺すか、問い掛けに「はい」と応じた者を正面から突き刺すかのどちらか。それは見ていてすぐにそう推理できた。
ただ問題は、誰もこれを止める者が現れないということ。治安部隊や警察の姿はまだ確認できていない。僕は青年達に声を掛けられないよう、周囲を見回しながら逃げていく。
しかしそんな行為も束の間、小柄な青年がナイスの刃先をこちらに向けながら近付いてきた。逃げようにも、その反対は僕が来た道。つまり、惨状が広がるホームへと続いている。駅から脱出するには、その先へ向かうしかない。僕は思わず後退りをしてしまう。
「トビーじゃなければ、お前は誰なんだ?」
この青年もまた、瞳の縁から赤い光を放っている。瞳孔は一点、僕の方を見つめて動かない。硬直しているようにも見える。やはり、ただならぬ気配を感じ取った。
今までとは違う問い掛けに僕は困惑してしまい、言葉が喉の奥で痞える。体も頭も動かなくなってしまう。まさに殺される瞬間。こういう状況に陥ると、人間は何もできなくなるらしい。なるほど、何故逃げ惑う人々が成す術もなく殺されていっているのか納得ができた。その間にも、ナイフの刃先は僕の腹部に吸い込まれようと接近してくる。少しずつ後退し、いつの間にか観光案内カウンターの近くまで追いやられていた。
「僕は――」
絞り出すように吐き出した僕の乾いた声。どうしようもなくなり、何を思ったのか最終的に名を名乗ろうとしたのだが、視界の端で不意に違和感を覚えた。
ぼやけた何かが動いているのを目視した瞬間、小柄な青年の体が真横に吹き飛んだのである。僕は今度こそ言葉を失い、瞬きを繰り返す。視線の先には揺らめく人の形をした透明な影があった。くっきりとした輪郭。中身を感じ取れない。背丈が僕と然程変わらないのが何とも奇妙だ。目の場所も分からないが、僕は透明な影と静かに見つめ合う。
「見えているのか?」
「はい」
突然そう言われ、僕は驚きながらも答える。低く安定感のある声だ。声色的に女性だろう。僕と透明な影との間に沈黙が過ぎ行く。辺りの喧騒が浮き立ち、まるでこの空間だけが隔離されているかのような錯覚を味わう。
――あっという間の出来事で目が追いつかなかった。むしろ自身の目を疑う。透明な影は不意打ちを仕掛けるかのように、僕の懐へ潜り込んでそのまま地面に叩き付けた。背中に鈍い衝撃と痛み。
「動くな、敵が来ている」
耳元でそんな緊迫した声が聞こえる。組み敷かれているのだと気付くのに五秒も要した。重みを僅かに感じる。僕の体の上に透明な影が覆い被さっているのだろう。こんな近距離に居るというのに、僕の目は彼女の姿をしっかりと捉えることはできなかった。
透明な影が言うように、足音が徐々に近付いてきていた。僕は身動きを取れない。
「目を閉じろ」
そう囁かれ、僕はすぐさま瞼を閉じた。黒く塗り潰された景色に包まれる。僕が嫌う地下鉄の景色と同じだ。いつもと違うのは、鼓動がやけに五月蝿く聞こえること。どちらにしろ、居心地は良くない。
透明な影がもそもそと動き始めた。視界が真っ暗なため、何をしているかは把握できない。それについて考えようとしたが、唐突に体の重みが消えたことで遮断された。無音に近い足音、「バシュッ」というくぐもった銃声、そして小さな呻き声。
気になって仕方なくなった僕は、瞼を開けて状況を確かめる。透明な影が青年を脇に抱え、ゆっくりと地面に置くところだった。よく見ると、青年の額には穴が穿っており、そこからは流れるように血が滴っている。力無く倒れている青年の手には、やはりと言うべきかナイフが握られていた。刃にはべっとりと血液が付着している。
「彼はもう人を殺している。どうしようもない」
死体となった青年を見下ろしながら透明な影は言った。影の輪郭だけで行動を読み取っているため、正確な動作かは分からない。きっと見下ろしているのだろうという憶測。あくまで感覚的に、透明な影の動きを把握しているだけにすぎない。
「全く、この都市では次から次へと事件が起きて多忙極まりないな」
独り言のように透明な影は呟いた。少し苛立っているように見える。
「少年、君はどこから来た?」
「駅のホームからです」
「電車には?」
「はい、乗っていました」
「そうか。もう起き上がっていいぞ」
僕はそう言われ、体を起こして立ち上がった。ようやくマネキン状態から解放される。そして透明な影に連れられ、カウンターの後ろに身を潜める。
「こちらインビジブル。一人の少年を保護した。これからカバーしつつ、一旦前線から離脱する――ああ、分かっている」
インビジブル――透明人間。随分と的を射たコードネームである。無線で誰かと連絡を取り合っているらしい。その形式からして軍隊だろうか。遂に軍が介入したと考えて良さそうだった。
「少年」
一通りの連絡を終えたのか、透明な影は再び僕に話し掛けてくる。
「何でしょう」
「君は彼のような青年達と接触したか?」
「ええ、声を掛けられました」
「何と?」
「お前はトビーか、と」
「それに間違いは無いか?」
「はい。少なくとも三回は訊かれましたから。間違いないと思います」
ほぼ断言に近い言いようで僕は答える。それに透明な影は暫く無言を貫いた。
「実は君ぐらいなんだ。青年達に声を掛けられて生き残っているのは。他は遠くから見ていたか、記憶が混乱している者ばかりで碌に事情を聞けず仕舞いでね。貴重な証人でもある」
しみじみと透明な影は言う。確かに、あれほど悲惨な状況に陥れば、誰もまともな記憶を保持していないだろう。
「しかし、えらく落ち着いているな。動揺がまるで無い。事件に巻き込まれ、人が殺されているというのに、どうしてそこまで冷静でいられる?」
「そうでしょうか……? きっと実感が無いだけだと思います」
「何の実感だ?」
「無事命があることと死に対する恐怖、だと思います」
喜びと恐れが湧き起こって来ないとでも言うのだろうか。そういった感情は今、胸の奥深くに沈んで眠っている。まるで息をしていないかのようだ。
「生死を分ける事態に巻き込まれて、感情が麻痺しているのかもしれないな。避難したらカウンセリングを受けた方がいいだろう」
透明な影はカウンターの陰から立ち上がり、堂々と周囲の状況を確認している。僕は腰を下ろしているため、膝に顔を埋めながら壁を見つめていた。
「別に構いませんよ、元々こんな性格ですし。興味すらありません。心に死を蓄積していくだけです」
「……生きたくないのか?」
「いいえ、多分違います。むしろどうでもいいんです、自身の命など。生きたいとも死にたいとも思いませんから」
淡々と生き、粛々と死ぬ。それが僕の運命。
「そうか。だが少し無駄話が過ぎたな。急ごう、あまり長居は良くない。ついて来い」
「はい」
透明な影がカウンターを軽々と乗り越えるのを視界に入れつつ、僕は立ち上がる。そして、見様見真似で僕もカウンターをたどたどしく跨いで着地する。駆け出す透明な影を追い掛けながら、僕は〈彼女〉の姿について夢想していた。
事情聴取というものは意外と呆気なく、そして息苦しいものなのだと初めて知った。尋ねられたことに淡々と答えるだけの作業。実行犯と接触した唯一の目撃者なのだ。僕の記憶が新鮮なうちに、確かな情報を押さえておきたいのだろう。怒涛の質問攻めだった。何を言われ、何をされ、実行犯の様子はどうだったか――できる限り正しく証言したつもりだ。何度か同じ質問もされた。相互に違いが無いかを確認するためだろう。現場から離脱した直後に事情聴取を受け、今ばかりそれから解放された。窓の外を見ればすっかり陽が落ちている。
そこから引き続いてカウンセリングを受けるように散々勧められたが、僕は堪らなくなってそれを丁寧に断った。元からそのつもりは無かったのだ。受ける気や意思が無ければ、別段強要されることも罪に問われることもない。元々は患者の心を癒すもの。無理強いをして余計な負担を掛けてしまえば元も子もないのだ。その辺りは心得ているらしい。
だがそういった同調性を求める周りからの圧力は相変わらず気に触るが、僕はそれに反して「ノー」と言える力がある。ただの反抗心というわけではない。僕が間違っていると思うことに「ノー」と言えるだけ。
周囲の視線を気にして生きるこの世の中には、一種の閉塞感ようなものを抱いてしまう。要は息苦しいのだ。個を個として認めない社会。個を集団の一部として捉えるこの社会は、僕にはとても生きにくい。幸いにも僕はまだ子供という立場だが、後数年もすれば否応なくそちら側へ引きずり込まれてしまう。少なくとも今こうして外に出ているだけでも、その重圧感はひしひしと感じている。
部屋を出て廊下を歩いていると、壁に凭れ掛かっている例の透明な影と出会った。どうやら僕の事情聴取が終わるのを待っていてくれたらしい。僕は小さく会釈して話し掛ける。
「作戦はもう終わっているのに、まだその状態ですか?」
「ああ、君の前に居るからな。仕事上、民間人には姿を見せないようにしている。悪いな」
「いいえ、それなら仕方ありません。それでご用件は何でしょうか?」
「ああ。上司から君を家まで送り届けるように言われた。しかし、いいのか? カウンセリングは受けないと聞いたが」
「はい。僕には必要ありませんから」
「そうか……なら行こうか」
誰も居ない廊下を二人で歩く。カツンコツンと硬い足音が虚しく聞こえる。
「結局、今日の事件は一体何だったんですか?」
「極秘裏だ」
「言えないということはつまり、テロですね?」
「さぁどうだろうな。君が知ることではない」
素っ気なく言葉を返されてしまう。仕方ないので僕は黙って思考を張り巡らせる。
今回の事件は恐らくテロだろう。規模の大きさはさておき、悪戯にしては度が過ぎている。亡くなった人も決して少なくないはずだ。それに、事情聴取を受けたということは、実行犯は未だに捕まっていないのだろう。一人だけではなく不特定多数。僕が知り得る限りでも三人は居る。一人は殺され、残りは生死不明。他にも実行犯は居るだろう。外見の年齢からして、青年ばかりだったような気もする。しかし、彼らには統率力は見受けられなかった。無差別という結果からして、何か特別な目的も無かったように窺える。では、何故彼らは地下鉄で無差別に人を殺していたのだろうか。
だが、その無差別という枠組みにも決まりはあった。そう、「お前はトビーか?」と尋ね、「はい」と答えた者のみが確実に殺されていたのだ。これが一番よく分からない。どうして「お前はトビーか?」と尋ねる必要があったのか。「トビー」という単語から連想されるのはまず名前だ。人に名前を尋ねているようにも、その時は思っていたが、どちらかというと確認しているようにも捉えられる。だとすると、「トビー」という名前は一体どこから生まれたのか――特定の人物を調べ上げるのにはかなりの時間を要しそうだ。
あと疑問に感じたのは、実行犯の眼の色。瞳を囲うように赤く光っていた輪っか。何かに侵されているような恐ろしさを感じた。流行り病や新型ウイルスなどの、まだ発見されていない類の病気なのだろうか。
――駄目だ、情報が足りない。これだけでは推理の仕様がなかった。
「随分と遅くなってしまった、申し訳ない。両親も心配しているだろう」
そうして思考に耽っている間に、僕は警察署の駐車場まで来ていた。周囲の景色を見る暇もなく、気が付けば地下までやって来ていたことに、内心驚きを隠せない。
「大丈夫ですよ。僕がいつ何時に帰っても誰も咎めませんから」
「酷い両親だな」
「いいえ、父も母も至って真面目です。だからこそ、一度決めた制約に囚われ続けているんです」
必要以上に家族に干渉しないのが我が家の掟。それを決めたのがおよそ四年前、僕の歳が二桁へ突入した時である。あれからまともに両親と会話した記憶は、あらゆる知識と思考に押し潰されてもはや残っていない。どうしてそんな掟を作ったのか、何故僕はそれに従っているのか――やはり、今の人々は他人に興味や関心を持たないのだろうか。
少なくとも僕の心は今、両親には向けられていない。今日の事件と「彼女」が、僕を動かしている原動力そのものだ。僕がやるべきことは一つ。
そうして僕は足を止めた。それに釣られ、彼女も立ち止まってこちらに振り返る。
「一つお願いをしてもよろしいでしょうか?」
「何だ?」
「僕もその捜査に同行、もしくは協力させて頂きたいんです」
すると透明な影は「駄目だ」ときっぱり断った。少し怒っているようにも聞こえる。
「民間人に捜査協力を依頼してはいけないことになっている。これは遊びじゃない。人の命が奪われているんだ」
「知っています。僕はただ、真相をこの目で確かめたいんです。それに、また今日みたいなテロが起きた時、僕なら彼らの幻覚に惑わされません。先行して状況を確かめられます」
「……そういう問題じゃなくてだな」
「僕にしかできないことで貴女達に協力をしたいんです。自分で言うのも何ですが、眼には自信があります」
僕は一向に引かず、透明な影を説得させるためにあらゆる可能性を打ち出す。ここまで必死になる理由は恐らく、自身の内に秘められた正義感や知的かつ好奇心的な欲求に突き動かされているためだろう。無彩な日々に鮮やかさを感じたいのだ。
「確かに……君の眼を見ていると、何か私達とは違うものが視えているように思える。その洞察力はきっと捜査に役立つだろう。だが、捜査の基本は情報収集だ。バンクにアクセスして片っ端から集める、要は専門的な作業なんだ。昔の警察が行っていた、聞き込みというのはもはや廃れている」
「ええ、分かっています。だから、僕にしか知らない特別な場所を提供します」
「……なるほど、それを取引の材料にするのか」
「そうです」
少し頬を緩めて僕は胸を張る。卑怯な手だと我ながら呆れてしまうが。
透明な影は暫し考え込んでいたが、程なくして口を開いた。
「……いいだろう、君を捜査に入れてやる。だが捜査中に怪我をしたり、もしくは死んだ時の責任は自分にあると思え。それに関する書類にも一通りサインを貰う、いいな?」
「はい」
迷いなく僕は答える。交渉成立。透明な影は車のロックを解除する。スポーティタイプの青い車体だ。全体的にスマートなフォルムがクールさを演出している。
「しかし、今日はもう遅い。捜査は明日からだ。連絡先を教えろ、午前中に電話をする」
「分かりました」
そして携帯端末を取り出し、互いに連絡先を教え合う。データが送られてくる。登録画面で指が止まった。
「電話帳の名前、どうしましょうか?」
「好きにしろ」
「そういえばお名前、お聞きしてませんでしたね」
「残念だが教えることはできない。好きに呼べばいい。私は君のことを少年と呼ぶ」
「は、はぁ……」
これも仕事上というものだろう。僕は少し悩んだ結果、「透明さん」と呼ぶことにした。電話帳にもそう登録しておく。彼女は「そうか」と一言感想を漏らした。
電話番号を入手した僕は早速、そのダイヤルに電話を掛ける。すぐ目の前で透明さんが持つ携帯端末が震えた。
「用心深いな」
「当たり前のことですよ」
確認を終えて画面を消し、携帯端末をズボンのポケットに仕舞う。透明さんが運転席に乗り込んだので、僕も続いて助手席に座る。フィット感がある形の良いシートだ。ドアを閉めてシートベルトを着用する。エンジンが掛かり、車は緩やかに発進した。
-To Be Continued-




