呼吸が止まる
元幼馴染み視点
水の中ならこんなにも楽に息ができるのに。
それでも君は陸に行くというの。
苦しそうに息をする君を何度海に連れ去りたいと思っただろう。
思うだけで、そんなことをする勇気、僕にあるはずもないけれど。
海を自由に泳げるあの美しいヒレを切り落とし、珊瑚を鮮やかに輝かせる歌を失ってまで、君はあの王子が恋しいのかい。
早く帰っておいでと願いながら、僕は君がここに帰ってこないことを知っている。
──また、いつもの夢。大事なものを見ているだけで失うあの忌まわしい夢。
記憶、と言ってもいいのかもしれない。それほど鮮明に覚えているイメージ。だけど僕はそれをあえて夢と呼ぶ。何故ならその夢があまりにもファンタジックすぎて。又、その時の僕があまりにも情けなくて、あまりにも惨めだから。
だから僕にとっては、何度も見る、忌深き『夢』なのだ。
その夢で僕は、海に生きるマーマンと言われるような怪物だった。と言ってもそれは人から見た話であり海に生きるものたちにとってはそう珍しいものでもない。
マーマンとは対になるマーメイド、つまり人魚もいた。その中でも海を治めるポセイドンの娘たちは人魚姫と呼ばれ、それぞれ真珠の輝きのごとき眩さを持った美しい娘たちだった。
僕はその娘の一人に恋をしていた。
同じ満月の夜に生まれた彼女と僕は幼い頃から一緒に育ちずっとそばにいた、いわゆる幼馴染というやつだ。
彼女は天真爛漫で好奇心が強く、特に海の外の世界に強い憧れを抱いて……。
僕の夢に出てくる想い人はかの有名な童話の主人公、──人魚姫、のようだった。
話の結末を知っている人ならわかるだろう。その「僕」は夢見る彼女を止めることができずに大事なひとをむざむざと失う大馬鹿野郎だったのだ。そんな存在、おとぎ話にもできないからか誰も知らないけれど。
暗い海の底から何度も思った。彼女が想いを果たせますようにと。
自分の望みを差し置いて願うそれは身を引き裂くように辛かった。でも、彼女のためなら叶ってほしいと、もはや呪いに近い思いで願った。
もちろん僕だって、できることなら誰よりもそばに、ずっと一緒にいたかった。けれど彼女の幸せを第一に思えばちっぽけな僕の願望なんて比べるべくもなくその想いを殺して、喜びに震える背中を見送ったのに。
ある夜、海の中をありえない量の泡が舞った。
そして知ったのだ。彼女を未来永劫失ったことを。
そのあとのことは知らない。夢はそこで終わってしまうから。見ないだけなのか、夢の僕が知らないからなのかはわからない。
僕は荒牧望として、日本という国のごくごく平凡な男子高生になった。
男子高校生というのは生き物の中で一番緩いのではないかと僕は常々思っている。腰パンはあまり好きではないけど、詰まった感じが嫌でボタンを第二まで開けている僕はわりと緩い……あけすけに言えばチャラいグループに属していた。
僕自身がチャラいかと聞かれればそうでもなく、ただ生まれた時からの幼馴染がそっち方面に行ったのでなんとなく僕もその仲間になっただけ。でもこういう人たちはつるんでいてもお互いに関心が薄いらしく、そんな薄情にも思えるところが逆に気楽で気に入っている。
「おい、またやってるぜ」
幼馴染の重が言う。授業の間の休み時間、廊下に出て何人かとたむろっていた僕の目に“いつもの”やつが写った。
「姫ちゃん今日もかわいいね、俺と付き合って」
「嫌ですお断りです帰ってください」
渡瀬みのるというどこにでもいそうな女子高生は、王子と呼ばれる彼、桜花幸輝に「前世からの相手」として絡まれている、いや口説かれているらしい。
「渡瀬も頑なだけど“王子”もよくやるよなー」
「な。顔がいいから絶対に落とせると思ってんじゃね?」
「あー、ありそう」
「当の“姫ちゃん”は迷惑そうだけどね」
僕がそう言うと幼馴染を含んだ男達は同情の目を渡瀬さんに向けた。彼女にはそんな僕らからの視線とは別に様々な視線を送られている。僕たちみたいなのもあれば、嫉妬、とかあとは騒がしいから迷惑そうなものも。あまり好意的な視線はないみたいだった。
──やっぱり彼女にとって陸なんて息苦しいだけのものなんだ。
そう考えて安堵する僕は、吐き気がするほど気持ち悪い。彼女の幸せを願っているはずなのに、彼女が不幸せを見て嬉しく思うなんて。僕は最低だ。
僕はずっと姫のことが好きだった。それは前世での話だということはわかっている。でも今でも夢に見る彼女のことを刷り込みのように好きになってしまった。それは前世に引きずられているからなのか、わからないけど姫の生まれ変わりである渡瀬さんを見たとき夢はただの夢じゃなかったことを自覚した。そしてそのまま渡瀬さんに好意を覚えるようになった。
でも僕は動かない。だって彼女には王子がいた。「幼馴染」なんてお呼びじゃない。けれど忘れることもできなくて。
「また同じことを繰り返すのか」
重がポツリと言う。誰に向けての言葉なのか、仲間たちは聞こえなかったらしく渡瀬さんと王子の攻防を見て囃し立てている。
僕のことを言っているのかとも一瞬思うけれど彼の視線は、渡瀬さんと王子の方を見ていて、考え込んでいる僕には見向きもしていない。なのにその一言は重く僕の胸にのしかかる。
また、傍観者のまま、好きな人を見送って、むざむざと失うのかと。過去の自分に言われたようだった。
ある日の昼休み。いつものメンツで食堂に向かっていると廊下の窓から渡り廊下を歩いている渡瀬さんを見つけた。いつもは一人の彼女を赤い髪の不良っぽい男と歩いている。
「……なあ、あれ誰?」
先を歩いていた重たちに尋ねる。そのなかの一人が思い出したように言った。
「あー、あれD組の有名人だよ。最近王子に絡まれてる姫ちゃんを助けたって。それ以来よく一緒にいるらしいよ」
「名前は?」
「なんだっけ……武田?」
「武内だよ。武内大雅」
「あーそうそう、そんな名前だった」
「重知ってるの?」
「んーまあね。あいつら目立つじゃん、だからさ」
妙な顔で笑う重は、どこか嘘くさく見えた。
「ふうん……武内大雅、か」
彼も何か因縁があるのだろうか。なんてふとそんなことを思った。
渡瀬さんは何も知らない顔で楽しそうに笑っていて、胸がツキリと痛む。あんな顔、久しぶりに見た。なんて。
臆病者は風に吹かれて空いた穴の痛みに笑われた。




